人生チャレンジ20000km~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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【鉄ちゃんのつぶや記 第11号】懲りないマスコミの罪と罰

2003-09-21 22:35:55 | 鉄道・公共交通/交通政策
 昨夜(9月21日)放送された、北朝鮮による拉致被害者の心情に焦点を当てたNHKスペシャル~「私の家族をかえしてください」を見た。一方的に北朝鮮への危機感をあおり立てるだけのヘタレ番組だったらすぐテレビの電源を切ろうと思っていた私だったが、意外(?)にも客観報道で面白く、つい最後まで見てしまった。

 とりあえず、この番組で明らかになった新事実がいくつかある。曽我ひとみさんが、ご主人と別れ別れの状況に耐えられず、北朝鮮へ帰してくれるよう訴えたが聞き入れられず、日本政府が5人を返さない方針を決定。それを伝えられたとき、「仕方ないですね」とだけつぶやいたこと。年が明けてすぐ、故郷の催しに招待されたとき、「金日成バッジを外したことを北朝鮮に知られない」ため曽我さんが厚手のジャンパーを途中一度も脱がなかったこと。蓮池薫さんが、拉致問題の解決を求める団体が主催した集会への参加を要請されたが、この集会のスローガン「拉致はテロだ」が北朝鮮を刺激することを恐れたため最初躊躇したこと。兄の蓮池透さんがその様子を見て、「弟(薫さん)が(北に)弱みを見せるな、と言っていたにも関わらずこのような態度を見せたことに驚いたが、誰よりも良くあの国のことを知っているあいつがそういうのだから間違いないのだろう。それよりも自分は弟の気持ちを分かってやれていたのだろうか」と苦悶したこと。地村保志さんが手記の中で、「この拉致問題はなぜ発生したのか…日本と北朝鮮との国交が回復していないことによる“戦争の延長”状態が根底にあるのではないか」(要旨)と綴っていたこと、等々である。しかもこの番組は、今年3月に曽我さんが入院していたことが「政府の要請により」肉親にも知らされなかったという驚くべき事実まで暴露している。政府が、目的のためならマスコミはおろか肉親にまで圧力をかけるということを、公共放送みずから明らかにしたのだ!

 この番組を見て感じたことは、とにかく今までの日本のマスコミ報道と全然違っているということである。「5人は一致してバッジを外すことに決めた」「私たちは北には帰らない」などという一方的な報道が当時行われたが、こんな報道が一体どこから出てきたのか? マスコミ内部に5人の意見を「調整」する人間がいたものと考えざるを得ないほど、これまでの一連の報道は偏向だったといえる。人間は感情を持った動物であり、全ての人間が同じ意見、同じ結論になることがあるとすれば、それは人間の感情が圧殺されるとき…すなわち人間が「精神的殺人に遭うとき」以外にあり得ないはずである。独裁体制で一元的な思考法しか許されていない国にあったとはいえ、それぞれ立場も環境も異なる被害者5人が、揃いもそろって全く同じ意見、結論になるなどということがそもそもあるはずないのだ。

 もうひとつ明らかになったことがある。北朝鮮に強い態度を取らない我々を、右翼どもは「北のスパイ」「国賊」「拉致被害者の政治利用」などと散々喚きちらし、中傷してきた。しかし、かの国を最も良く知る被害者達が渋っているのをむりやり集会に引っ張り出し、自分たちの政治的主張を繰り返してきた「自称支援者」達の行動こそ、政治利用でないとすればいったい何なのか?

 日朝首脳会談から1年。

 北朝鮮問題ではこれまで、周辺をうろつく者たちが被害者の心情なるものを勝手に解釈し代弁するだけで、彼らの本当の気持ちが伝えられることはほとんどなかったのではないだろうか。私は、「救う会」とその周辺をうろつく「支援者」達のうさんくさい行動や、彼らが垂れ流す悪意に満ちたスローガンの数々にうんざりしていた。もちろん拉致は許されない犯罪そのもので、それを是とするほど頭は腐っていないつもりだし、拉致被害者が家族と会えないでいる状況が1日も早く改善されなければならないことも解っている。しかし、新潟に「万景峰」号が入港したとき、港で「帰れ帰れ!」とシュプレヒコールを繰り返す「支援者」の中にはパンチパーマやスキンヘッドの男たちまで混じっていたのだ。彼らが「一般市民」でないことは明らかで、このような連中が暗躍していることが北朝鮮問題を歪め、我々に不信感を抱かせる原因になっているとすれば、悪意を持った「自称支援者」と彼らの尻馬に乗って北朝鮮バッシングを繰り返してきたマスコミの責任は重大である。

 この国のマスコミのなんと情けないこと! 右を向けといえば一斉に右、左を向けといえば一斉に左…。北朝鮮バッシングを繰り返したかと思えば、手のひらを返すように「美女軍団」をはやし立てる。

 この様子を見て、かの国の親愛なる指導者同志様も腹を抱えて笑い転げているだろう。そしてきっとこう言うに違いない。「彼らにぜひ共和国に来てもらいたい。彼らならきっと一糸乱れぬ美しいマスゲームを見せてくれるだろう」と。

(2003/9/21・特急たから)

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【鉄ちゃんのつぶや記 第10号】さようなら新幹線100系

2003-09-16 22:33:53 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
 2003年9月16日…今日、ひとつの車両が引退した。1985(昭和60)年10月1日に登場して以来、東海道新幹線を走り続けてきた新幹線100系である。100系と言われてピンと来ない方でも、「2階建食堂車の付いていた新幹線車両」だといえば、あああれかと思い当たる方も多いと思う。

 1964(昭和39)年に開業した東海道新幹線は、85年当時で開業21年。もともと鉄道は物持ちがいい業界で、在来線の鉄道車両では20年などまだまだ青年、30年でやっと中堅といった調子だ。今年3月に引退した山口県・小野田線の電車のように1933(昭和8)年の登場から70年走り続けた車両もある。ただ、そんな鉄道業界にあっても新幹線車両だけは例外で、高速走行することと、1回の走行距離が長いことから、20年程度で更新の必要が出てくるのである。

 100系は、初代新幹線である0系(あの丸顔の新幹線)が更新時期を迎えたことをひとつのきっかけとして生まれた。新幹線として初めてのモデルチェンジで、210kmから220kmへわずかながらスピードアップも実現したこと、3人掛けの座席が回転しないためその半分が後ろ向きのままだった0系と比べ、全座席が回転するため全員が進行方向に腰掛けられるようになったことなどで当時はずいぶん話題になった(今はどれも当たり前の話ばかりだが)。その100系も登場から18年を迎え、今度は自分が後輩へ道を譲るときを迎えたのだ。

 100系最後の瞬間に立ち会おうと、休暇を取って出かけた。100系で運転される「ひかり309号」は東京駅8時30分の発車なのに、8時には既にファンでホーム上がごった返す。私が確認しただけでも、NHK、日本テレビ、フジテレビ、読売、産経、新潮社などの報道陣が押し掛けている。出発式でJR東海の葛西社長があいさつ。「国鉄時代には100系は7編成しか造られなかった。JR発足後に50編成が造られたので、100系がJR東海の第1世代新幹線である」と紹介。「新幹線の中でも100系が一番好きだというお客様の声も多くいただいていただけに引退は寂しい思いがする」と述べた。

 8時30分、ひかり309号は発車。沿線では平日だというのに多くのファンがカメラを向けている。最近の新幹線車両(300系、700系など)が走行中は結構揺れるのに、この100系はほとんど揺れないのはさすがだと思う。私の鉄道ファンの友人がカメラを持って待ちかまえている小田原を通過。車内改札が終わったので列車内を歩きながら様子を見る。この100系の大きな特徴でもある2階建車両の1階カフェテリアでは、記念グッズを買おうとする人たちで列ができており、JR社員が整理にあたっている。カフェテリアの壁には速度計があり、赤いデジタル表示で「只今の速度 220km」と表示されている。グリーン車に個室があるのもこの車両の特徴で、芸能人やVIPが移動するのに重宝されたと言われるが、私が様子をのぞきに行ったところトラブルが起こっていた。個室の1つで鍵の不具合があり、開かないらしいのだ。この個室の鍵はカードキー方式になっており、車掌が乗客に代わってクレジットカード大のカードを抜き差ししているが、鍵が開く様子はない。仮にこのまま鍵が開かなかった場合、代わりの空室があればいいが、なければ個室料金を払い戻さねばならないので車掌さんも必死だ。最後の最後までお気の毒である。

 「ただいま、列車は定刻通りに三河安城駅を通過いたしました。あと10分少々で名古屋に到着いたします」…東京、新横浜から名古屋までは2時間近くもあり、眠っている乗客も多いため、このようなアナウンスが慣例として流されてきた。名古屋が近づく。

 100系車両には、ファンにとって面白い仕掛けがまだまだある。駅停車の案内が流れると、客室とデッキの仕切扉の上に「○○駅まで あと○km」という表示が出るのだ。一般人で気に留める人は少ないだろうが、この数字が減っていくのを見るのも楽しいものがある。名古屋、京都駅でもホームにはカメラ鉄ちゃんが列をなしている。それにしてもみんな暇だなぁ(失礼)。やがて11時23分に新大阪到着。2時間53分の旅路だった。

 新大阪駅ではJR東海の須田会長があいさつ。「せっかくの車両更新なのだから何か新機軸を打ち出そう」と考えたのが2階建車両だったそうである。しかし時代は変わり、スピードアップによる乗車時間の短縮によって食堂車へのニーズが下がったことでせっかくの2階建食堂車もその役目を終えてしまった。加えて、100系以外の全ての車両が270km運転をできる今日、最高でも240kmでしか走れない100系の存在がパターンダイヤを組む上で大きな障害となっていたのだ。2階建車両、速度計、停車駅までのキロ表示、個室グリーン車などファンにとっても遊び心を満載した車両だった。その後登場したJR型の車両からは、こうした遊び心をくすぐる仕掛けはなくなっている。その結果として機能的だが味気ない車両ばかりになり、旅情という大切なものが失われていった気がするのだ。

 こうして、100系は東海道18年の歴史に終止符を打った。明日から、東京~新大阪間では「のぞみ」の名とともに登場した300系が最も古い車両となり、JR化以降に登場した車両で統一されることになる。国鉄の面影がまたひとつ消えてゆく。鉄道ファンであると同時に国鉄ファンでもある私にとって、そのことがとても寂しい。

 せめてもの救いは、新大阪駅を歩く人たちの表情が明るく見えたことだ。駅の売店では阪神タイガースの18年ぶりの優勝を伝えるスポーツ新聞が並んでおり、優勝セールがそこかしこで始まっている。人々の表情の明るさはそのこととも関係があると思う。阪神タイガースが優勝した1985年に走り始めた100系新幹線が、18年後、再び阪神タイガースが優勝を決めた翌日に引退運転…。偶然とはいえあまりにも出来過ぎていて、なにやら因縁めいたものも感じられる最終運転の日だった。

(2003/9/16・特急たから)

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【鉄ちゃんのつぶや記 第8号】えちぜん鉄道訪問記

2003-09-07 22:31:52 | 鉄道・公共交通/交通政策
 えちぜん鉄道へ行ってきた。この「つぶや記」第5号で「年内に行く」と公言してしまった以上は行かざるを得ないという事情もあったのだけれど(笑)。何はともあれ新生えちぜん鉄道をレポートしようと思うが、その前にえちぜん鉄道の前身、京福電鉄を2年間運休に追い込むことになった2回の事故のことから振り返ってみる。

 最初の事故は2000年12月17日。ブレーキ故障のため止まれなくなった上り電車が駅を通過し単線上に進入、下り列車と正面衝突。運転士が死亡、乗客20人以上が負傷した。2回目の事故はそれから約半年後の2001年6月24日に発生。今度は越前本線(単線)の運転士が赤信号を見落として列車を発車させ、やはり対向列車と正面衝突。死者こそ出なかったがまたも24人が負傷する惨事となった。

 「国土交通大臣は、鉄道事業者の事業について利用者の利便その他公共の利益を阻害している事実があると認めるときは、鉄道事業者に対し…」列車の運行計画を変更することを「命ずることができる」とする鉄道事業法第23条の規定がある。半年間に2度の正面衝突事故を起こした京福電鉄に対しては、この法律をタテに列車の運行停止命令が出され、以後、京福電鉄は電車の運行を中止してバス代行輸送を行ってきたのである。

 京福電鉄にATS(自動列車停止装置;赤信号を無視した場合に自動的にブレーキがかかり列車を止める装置)がないことは、私自身、1998年に京福電鉄に乗りに行った時に既に気付いていた(鉄道ファンはATSの有無くらい運転席をちょっとのぞき見すればすぐ解る)。今回、国土交通省は、運転再開のためにはATSの設置を条件とする姿勢を崩さなかった。その姿勢は高く評価できるが、問題はATSの設置が非常に多くの手間と経費を必要とすることだ。ATSが有効に機能するためには、赤信号で列車が通過したことを検知できる必要があるが、この通過を検知するための検知装置(「地上子」と呼ばれる)や軌道回路をあちこちに引き回さなければならないからである。もちろん、地元で存廃問題が取り沙汰され、列車を走らせるだけで青息吐息の状態の京福電鉄にそんなカネがあるはずもない。しかしそれでも地元民の7割が存続を望んでいる。京福電鉄を第三セクター鉄道として新生させようという計画の裏にはそのような事情があったのだ。

 福井に5年ぶりに降り立ってみるとなんだか懐かしい。えちぜん鉄道に衣替えしたとはいえ、そこかしこに京福電鉄の匂いが漂っている…と思ったらそれもそのはず。塗り換えられて色こそ変わっているが、車両は京福当時のままである。たまたまちょうどいい時間に発車予定だった三国線(京福時代は三国芦原線という線名だったはずだが)の列車を選び、一路終点、三国港をめざす。

 京福時代の車両は戦前製の古いものだ。マニア的で申し訳ないが、台車の上にモーターを直接載せて駆動する「吊り掛け式」という方式が用いられている。現在では、モーターは台車から離れた場所に取り付け、自動車で言えばシャフトにあたる「推進軸」という機構を通じて動力を車輪に伝える方式になっているが、技術力のなかった当時は吊り掛け方式でなければ不可能だったのだ。

 ブレーキにしても旧態依然としている。電車のクセに電気ブレーキもなく、ブレーキがかかるたびに「プシュー」という圧縮空気の音に続き、ブレーキシューが車輪に密着して起こる「ザザー」というブレーキ音が、この車両の遅れた技術を伝えてくれる。電気ブレーキとは、平たく言えば自動車のエンジンブレーキにあたるものだ。モーターと車輪を接触させた状態でモーターに電流を流せば当然、動力として働くが、電圧をかけない状態でモーターを車輪と接触させれば、モーター内部で回転力を電気エネルギーに変換しようとする作用が起こり、それが車輪の回転を抑制する力になるのだ。とはいえ、この説明を聞いてもまだよく解らない、という方もいらっしゃるだろうから、もっと端的な例を出そう。自転車に乗っていて、ライトを点けようとしてダイナモ(発電機)を倒し、タイヤと接触させたとたんにタイヤが重くなるという経験は多くの方が持っているだろう。要はあれと同じ原理である。電車も、車輪の力でモーターを回して発電し、そのときに車輪が重くなる原理をブレーキ力として用いているわけだ。昭和30年代以降に作られた電車は大半がこの電気ブレーキで30kmくらいまで減速し、ブレーキシューはそこから列車を止めるときにしか使わないから、普通は「ザザー」というブレーキ音は聞こえない。逆にそれが聞こえるということは、この電車が電気ブレーキを備えていない、古い技術しかない車両であるということだ。自分でいうのもなんだが、鉄道ファンとは怖ろしい。音を聞いただけで、その車両が何ものであるかを瞬時に見破ってしまうからだ。

 途中、農協の建物のガラス窓には「祝! えちぜん鉄道開業」という横断幕が掲げられている。そうかと思えば、鉄道と並行して走る国道に掲げられた看板が「京福大関駅」のままだったりして、看板を書き換えるカネもない地方鉄道の悲哀を感じさせる箇所もある。忘れていた5年前の光景も見事にフラッシュバック、5年前と比較しながら車窓の風景を愛でる、1時間の懐かしい行程だった。

 この鉄道の運命を変えるきっかけとなった2つの痛ましい事故。そして装いを新たにしての復活。同じ場所を走りながら、事故を挟んで違う姿になった2つの鉄道。その両方を私は見た。事故の根底に横たわる問題は解決したのだろうか?
 私は「3分の1は解決、残り3分の2は未解決」と判断する。解決した3分の1は、ATS設置が実現したことだろう。これにより、2回の事故のうち後の方…「信号見落としによる衝突事故」についてはほぼ確実に防げる見通しができたことである。えちぜん鉄道の安全性は格段に向上したのだ。

 未解決の方の2つの問題は、事故前の古い車両がそのまま使われていることと、経営不安が消えないことの2つである。車両の古さについては既に述べたが、電車でありながら電気ブレーキが付いていない車両をいまだに走らせている。前述したとおり、電気ブレーキのない電車は、ブレーキシュー以外に自らを停める術を持たないから、例えばブレーキエアーが瞬時に抜けるなどしてブレーキシューを車輪に密着させる手段がなくなったら終わりである。ATSは、ブレーキを自動でかける装置に過ぎないから、ブレーキそのものが故障した場合には無力である。これが、未解決の3分の2のうちのひとつであり、京福が起こした2つの事故のうちの最初…ブレーキ故障による正面衝突は、結局今の態勢でも防ぐことはできないと思う。

 未解決の3分の2のうちのもうひとつ…経営問題は今さらいうまでもないだろう。第3セクターになったとはいえ鉄道とは金のかかる事業なのだ。今回、えちぜん鉄道の電車には、復活からわずかな日数しか経っていないわりには多くの乗客が戻ってきていると嬉しく思えたが、いつまでその状態を維持できるだろうか。そう遠くない将来に存廃問題が再燃する可能性は今でも残っていることを最後に報告しておこう。

 日帰りのあわただしい日程だったが、以上がえちぜん鉄道のレポートである。2年間という長い期間の運休を経て地方私鉄が復活したという例は、少なくとも私の知る限りでは聞いたことがない。赤字にあえぐ地方私鉄でも復活することができるという良い前例を作ったのだ。地元の人たちと手を取り合って、福井県、そして日本の宝物のこの鉄道を今後も温かく見守っていきたいと思っている。

(2003/9/7・特急たから)

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