日航機墜落被害者支援を制度化へ 前原国交相が慰霊登山(毎日新聞)
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前原誠司国土交通相は12日、日航ジャンボ機墜落事故の追悼慰霊式であいさつし、公共交通機関などの事故に遭った被害者への支援について「仕組みやあり方を今年度中にまとめ、12年の通常国会での成立を目標に、法制度の整備に取り組む」と述べた。
墜落事故の被害者の家族で作る「8・12連絡会」が今月9日、前原国交相と懇談した際、要望していた。
前原国交相は支援の具体的内容について「被害者への事故直後の混乱時の情報提供や長期のメンタルケア、加害者との間に入った補償や生活支援のあり方」などを挙げた。
また、連絡会が要望していた「責任を明らかにする捜査より、事故原因調査の優先」について、前原国交相は「我が国に事故調査と犯罪捜査の優先関係を定めた規定はない」と述べたうえで「事故の原因をすべての段階で明らかにしていく事故調査の実現に向け、仕組みを検討し、結論を早急に得たい」と前向きな姿勢を示した。
8・12連絡会の美谷島邦子事務局長は「被害者支援と事故調査の早急な制度化を約束していただき、高く評価したい。私たちの事故は未解明の部分が多く、再調査してもらいたい。25年間にわたって求めてきた、なぜ亡くなったのか、その死を再発防止に生かしてほしいという思いにつながる」と話した。
また、ノンフィクション作家の柳田邦男さんは「国民の命や心のケアを大切にする被害者支援制度に言及したのは画期的なことだ。捜査と調査を分けて原因究明を進めることも、遺族が求めてきたことで意味がある」と話した。
式典に先立ち、前原国交相は墜落現場の御巣鷹の尾根(群馬県上野村)を訪れ、犠牲者520人の冥福を祈った。事故後、航空行政を所管する旧運輸相・国交相が慰霊登山をしたのは初めて。【平井桂月、萩尾信也】
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現職の国土交通大臣が初めて御巣鷹に登った。政権交代による意識の変化、閣僚の若返りがこれを可能にしたといえるかもしれない。
123便事故が起きた当時と現在とを比べてみると、大きく変化(と言うより前進)した点がある。国民の安全に対する要求が当時では考えられないほど高度化、多様化したことだ。安全は国民の最大の関心事になった。食の安全への要求も高まり、食品事故を起こした企業は市場から退出させられるのがむしろ当然という時代になった。公共交通を担う企業も、独占を許されていて市場からの退出こそさせられないが、国民・利用者の視線はかつてないほど厳しいものになってきている。その転換点になったのがこの事故であり、そして2005年のJR尼崎事故だ。
「被害者への事故直後の混乱時の情報提供や長期のメンタルケア、加害者との間に入った補償や生活支援」が今ほど切実に求められているときはない。日航は123便事故の後しばらくの間、被害者に真摯な対応をとらず、むしろ事故を一刻も早く忘れ去りたいかのような姿勢で多くの批判にさらされた。JR西日本は今なお被害者への真剣な補償を行おうという意思にまったく欠けている。事故を起こした企業に対して、被害者への真剣な対応を強制させるようなシステムが検討されてもいいのではないか。もっとも、何が「真摯な対応」なのかが理解できていないJR西日本のような企業には、効果はないかもしれないが。
8.12連絡会が要求していた「責任を明らかにする捜査より、事故原因調査の優先」に関しては、1972年、旧航空事故調査委員会設置の際に
警察庁と運輸省の間で締結された覚書が未だに有効なものとして運用されている。表向きは捜査機関と事故調査機関の対等性を強調した内容になっているが、実際には警察が先に証拠物件を押さえてしまい、事故調査委員会の調査に支障を来すことが少なくなかった。
大規模な公共交通の事故に当たって大切なことは処罰よりも原因究明と再発防止にある。関係者の処罰はあくまで原因究明に付随するものでなければならない。そのためには、この覚書にとらわれるのではなく、むしろ事故調査機関の調査を優先できるような新しい制度設計を進める必要がある。
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「御巣鷹は安全願うシンボル」継承、連帯、広がる輪(産経新聞)
発生から25年の大きな節目を迎えた日航ジャンボ機墜落事故の現場となった「御巣鷹(おすたか)の尾根」では12日、大勢の遺族が慰霊登山に訪れた。風化が懸念されるが、若い世代への記憶の継承が進み、事故遺族同士の連帯の輪も広がりつつある。悲しみ、決意、共感…。四半世紀の重みを伴い、御巣鷹の地でさまざまな思いが交わった。
「年も年だし、来るのがつらい」
墜落場所の「昇魂之碑」前で汗をぬぐったのは、大阪府貝塚市の河瀬周治郎さん(76)。長女の尋文(ひろみ)さん=当時(24)=を事故で亡くした。二人三脚で慰霊登山を続けた妻(76)は、悲しみのあまりか認知症に。看病に追われ、3年ぶりの慰霊登山になった。
妻は時折、思いだしたように怒りはじめることがあるという。「怒ったことなんかなかった。事故を思いだしているんだ」と河瀬さんは思う。
「この子を亡くしたから妻も調子が悪くなった。それが一番つらい。25年で尾根の姿は変わったが、つらさは増すばかり」。まな娘の墓標にお経を唱え、「お母さんを治してあげて」と一心に祈った。
さいたま市中央区の小林準也さん(20)は、おじの慰霊登山に一家で訪れた。背中には紫色のリュックサック。中1のころ、病気のため70歳で亡くなった祖父の形見だ。
遺族の会「8・12連絡会」の慰霊登山部会長を務めた祖父。一人息子の加藤博幸さん=当時(21)=の慰霊登山では、いつもそのリュックを背負っていたという。
「おじいちゃん子」だった小林さんは、いつも祖父から「安全」という言葉を聞かされて育った。祖父の死後、リュックと安全への思いを引き継いだ。
小林さんは就職先にJR東海を選んだ。入社1年目、社会人として初めての慰霊登山で、亡きおじの墓標に「安全を守る仕事に就きました。安全を受け継いでいきます」と報告した。
「一人の力だけでは安全は実現できない。25年訴え続けてきた連絡会に、私も励まされてきた」
平成18年6月、東京都港区のエレベーター事故で息子を亡くした市川正子さん(58)。事故遺族という共通の立場から連絡を取り合うようになり、今回の慰霊登山にも1カ月半かけて自ら折った千羽鶴を持って駆けつけた。
「御巣鷹は、いろいろな事故の遺族にとってのシンボル。こういう形でみんなが安全を願う場所はほかにない」。ある事故遺族は、そう語った。
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事故から四半世紀。御巣鷹の風景に大きな変化が起きつつある。高齢化した遺族に代わり、その思いを受け継いだ若い人の姿が増えているのだ。
昨年の8月12日にはJR尼崎事故遺族が御巣鷹に登ったが、今年はエレベーター事故の遺族も慰霊登山をした。様々な事故の遺族がバラバラに闘うのではなく、結集して企業犯罪に立ち向かおうとしている。こうしたしなやかでしたたかな闘いが、国土交通大臣の御巣鷹登山や、JR西日本歴代4社長の起訴などを引き出す力となっている。
当ブログは、改めて520名、そして名前も付けられることがないまま墜落の衝撃で母親から引き剥がされて亡くなった胎児ひとりに哀悼の意を表する。そして、ありもしない急減圧があったとうそぶき、ウソでウソを塗り固めた恥知らずの事故報告書を公表した旧運輸省、事故調の責任をこれからも問い続けてゆく。
(お知らせとお詫び)
当エントリでは当初、御巣鷹事故25周年に当たっての安全問題研究会コメントを発表する予定でしたが、時期を逸してしまったため、通常記事に切り替えたことを報告すると共に、コメントを発表できなかったことをお詫びいたします。