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【鉄ちゃんのつぶや記 第40号】小田急線騒音訴訟に思う

2010-08-31 23:52:44 | 鉄道・公共交通/交通政策
(以下の記事は、当ブログ管理人がインターネットサイト向けに執筆した原稿をそのまま掲載したものです。)

 東京都世田谷区の小田急線沿線住民ら118人が小田急電鉄(新宿区)を相手取り、騒音軽減と被害の補償を求めた「小田急線騒音訴訟」の判決が、8月31日、東京地裁であった。原告は、騒音や振動で生活環境を悪化させられたとして、東北沢-喜多見駅間の騒音を日中平均60デシベル、夜間平均50デシベルに抑えるほか、計約7億8400万円の賠償を支払うよう求めた。これに対し、判決は「受忍限度を超える騒音で会話やテレビ視聴、睡眠を妨害され、精神的苦痛を受けた」「日中65デシベル、夜間60デシベル以下にするのは可能で、達していない場合は違法との評価を免れない」として42人に対して計約1152万円を支払うよう命じたが、「更なる騒音低減を求めた場合には運行のあり方に大きな影響を及ぼし、沿線住民の生活に重大な影響を与える可能性がある」として、騒音軽減の訴えは退けられた。

 この裁判の提訴は98年から99年。都心部を走る路線は小田急だけでなく、JRも私鉄もあまたある中で、沿線住民と10年を超える長期訴訟が続いてきたというのがいかにも小田急らしいと思う。何しろ小田急といえば、かつては「日本一職員の態度が悪い鉄道会社」とまで言われ、沿線住民・利用者からの評判はとにかく悪かったからだ。

 小田急がここまで悪しざまに言われてきた理由として、一部鉄道ファンは戦時統合による「大東急電鉄時代の驕り」を指摘する。太平洋戦争遂行のため、軍部主導で成立した「陸上交通事業調整法」により、1942年、関東私鉄は東京横浜電鉄によって小田急、京浜電鉄(現在の京浜急行)が合併、さらに京王電気軌道(現在の京王電鉄)までが併合され、巨大な「大東急電鉄」となるが、その時代の驕りだというのである。もっともらしく聞こえるが根拠薄弱な説である。ちなみに大東急電鉄は、戦後再び分割され東急、小田急、京浜急行、京王に戻っている。

 私の周囲でも、小田急は相手にしないとか、写真は撮らないといった「アンチ小田急」な鉄道ファンを何人か見てきた。私自身は少しもそのようなことはないが…。

 判決については、もう少し損害賠償の額は多くあるべき(少なくともこの倍は必要)と思うものの、鉄道の公共性を考えればやむを得ないだろう。

 沿線住民の被害を考えれば、当然ながら小田急が損害賠償を払って終わり、というわけにはいかない。これ以上の騒音対策(防音壁の設置等)ができればベストだが、できない場合は、当面、夜間減速等の措置が必要になるかもしれない。もっともその場合、何のために複々線化までして緩急分離(急行運転と各駅停車運転とを完全分離すること)したのかということになりかねないが、それが全体の利益を図るということだろう。

 結局のところ、東京都心の鉄道の最大の問題は通勤ラッシュの緩和である。複々線化による緩急分離の効果が朝夕の通勤ラッシュ時間帯だけでも発揮されれば、混雑緩和の効果は大きいものがあるが、最近、筆者が東京都心部の鉄道を利用していると、通勤ラッシュが深夜遅くまで続く傾向が強まっているように感じられる。具体的には、夕方6~7時頃に最初の帰宅のピークがあり、夜8~9時頃、いったん波が収まった後、深夜10時頃からまた乗客が増え始め、それが終電近くまで続くという状況が見られるようになっている。JR中央線(快速)に至っては、むしろ夜10時以降こそラッシュのピークなのではないかと思われる状況さえ生まれてきている。

 この背景には、労働時間が極端に「二極化」し、定時に帰れる人の一団がいる一方、毎日終電近くならなければ帰れない人もまた一団を形成するほどたくさんいるという事実がある(筆者の推測だが、おそらくどちらの集団も、毎日顔ぶれはほとんど同じだろう)。騒音問題に配慮して夜間減速体制を取るといっても、深夜までこの状況では困難なのではないかという気がするが、ここまで来たら「夜10時以降に新宿を発車する便はすべて夜間減速」というふうに、一律かつ機械的にやるしかないのではないか。

 こんな言い方をしてはなんだが、ラッシュは鉄道会社の責任ではないし、深夜まで残業する労働者の面倒までなぜ鉄道会社が見なくてはならないのか。大学を出ても就職先のない学生が10万人もいるといわれる中で、多くの労働者が深夜になっても帰れないほどに人員を削減し、莫大な利益を上げている企業の責任が問われなければならないのである。

 マスコミ報道によると、2010年3月末時点における企業の手元現金残高が202兆円を記録したという。こんなに資金を貯め込んだ企業は、せめて新卒の若者を雇って仕事を平準化することにより、深夜まで仕事をしている労働者を早く帰らせるようにすべきだ。彼らが深夜まで帰れないことによる社会的損失は計り知れない。多くの労働者が早く帰れるようになれば、通勤ラッシュも前倒しになり、夜間減速も実現しやすくなる。運転終了時間を早めてもよいだろう。そうすれば、小田急沿線住民がこんな騒音に苦しむ必要もなくなるのだ。

 このように考えてみると、大都市にも社会矛盾とひずみが山積している。都市の過密化(それは地方の崩壊と表裏一体でもある)を放置してきた政府、少ない労働者を徹底的に酷使して利益を上げることに慣れきってしまった企業に筆者は強く反省を促したい。そして、企業や政府機関の地方移転を積極的に進めるなどして東京の機能分散を図らなければ、この悲劇は永遠に終わらないだろう。やや大げさな言い方をすれば、一度、徹底的な「東京解体」が必要なのではないか。

 最後に、判決内容について少し補足しておこう。損害賠償の額は、和解に応じた原告が4200万円を勝ち取っているのに比べると4分の1にとどまっており、筆者はこの点が不満である。「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」と日本国憲法によって規定されているにもかかわらず、この国では、裁判を続ける者より、和解によって裁判を途中でやめる者のほうに多くの損害賠償が支払われてきた。

 もちろん、「相手が厭戦気分を感じて多くの和解金を払うなら、それは勝利」と評価することもできよう。だが、この国では、名誉のため、あるいは自分の生き様のために法廷で闘う人に対する見返りがあまりにも少なすぎる。世の中には、どうしても相手に謝ってもらいたくて裁判をやるのだという人も大勢いる。その人たちに、正当な見返りがない裁判のあり方も、もう一度徹底的に見直すべきだ。

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【尼崎事故】山崎前社長の初公判、年内にも

2010-08-30 22:55:42 | 鉄道・公共交通/安全問題
山崎前社長の初公判、12月下旬にも(読売新聞)

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 JR福知山線脱線事故で、業務上過失致死傷罪で神戸地検から在宅起訴されたJR西日本の山崎正夫・前社長(67)について、神戸地裁(岡田信裁判長)が12月下旬にも初公判を開く方向で調整していることがわかった。昨年7月の起訴以降、長期化が予想された公判前整理手続きが順調に進んでおり、検察側も年内に開くよう求めているという。

 関係者によると、地裁は年内に初公判を開き、年明けに証人尋問など証拠調べの手続きに入りたい意向という。審理は月数回のペースで進めたい考えで、今後、検察、弁護側双方と公判日程を協議する。

 公判前整理手続きはこれまで4回行われた。弁護側が6月、公判で起訴事実を否認し、無罪を主張することを表明。主張内容をまとめた書面も提出し、検察側が証人申請したJR西社員ら二十数人の大半について採用に同意した。今後9、10月に各1回予定され、弁護側が証拠や証人を申請。地裁が検察側の意見を聞いて採否を決める。

 一方、改正検察審査会法に基づき、検事役の指定弁護士から4月に強制起訴された井手正敬(まさたか)氏(75)らJR西の歴代社長3人については、公判前整理手続きも始まっていないため、公判は来年以降になるとみられる。

(2010年8月30日 読売新聞)
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山崎正夫・元社長の裁判は、大方の予想に反して年内にも開かれる見通しになった。公判前整理手続きが順調に進んでいることが原因らしい。

通常、同時期に起訴された類似の事件は併合審理となることも多々あるが、山崎社長は検察による起訴、歴代3社長は検察審査会の起訴議決を受けた指定弁護士による起訴で、手続き的にも併合のしようがなく、公判は別々に進むことになる。

もちろん、裁判で無罪を主張することはどんな被告人にも認められた人権であり、そのこと自体は否定できない。しかし、4人の社長が揃って無罪を主張する見通しが強まったと聞くと、やはりふざけた奴らだ、という感情が湧いてくる。

公共交通の事故における業務上過失致死罪は、事故の予見可能性が証明されなければ有罪とならないケースがほとんどだ。山崎社長は、法廷戦術としても、また自分自身の率直な気持ちとしても、事故を予見などできなかったと主張するつもりなのだろう。

もちろん主張は自由ではあるが、社長がそのように主張することは、JR西日本が現場から上層部へ危険情報が伝わらない、意思伝達のない会社だということを認めることになってしまう。上層部が危険を予測できない会社、現場からの危険情報が共有されない会社とは何かということが根本から問われるだろう。

もっとも、遺族・負傷者の願いは処罰よりも原因究明にある。107名が死亡したこの事故の原因はなんであったのか、山崎社長が社内でどのようなことを考えてどのように動き、それがJR西日本という企業風土の中でどのように事故発生に関与したのか。遺族・負傷者が聞きたがっている答えはそこにこそある。山崎社長は私心を捨て、公判では公共交通の安全のため、未来につながる証言をして欲しい。

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松江・一畑電車の脱線事故:防止ガード、外側に設置

2010-08-28 22:58:56 | 鉄道・公共交通/安全問題
松江・一畑電車の脱線事故:防止ガード、外側に設置 運輸安全委、調査報告書 /島根(毎日新聞)

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 ◇指導は内側レール

 松江市の一畑電車北松江線で昨年8月、普通列車(2両編成)の先頭車両が脱線し3人が軽傷を負った事故について、国土交通省の運輸安全委員会は27日、調査報告書を公表した。地盤が沈んで脱線しやすい状況だったほか、カーブ内側のレールに沿って設置すべき脱線防止ガードが外側のレールに設置されていたため乗り上がり脱線を防げなかったことが原因とした。

 00年3月に東京都目黒区で起きた営団地下鉄(現東京メトロ)日比谷線脱線衝突事故は、カーブで外側の車輪が浮き上がって線路へ乗り上がり脱線した。このため、国交省は半径200メートル以下のカーブ出口付近では内側のレールに沿って脱線防止ガードを設置するよう鉄道各社を指導した。

 ところが一畑電車では、指導を受けてガードを設置する際、現場付近で道路がカーブの内側に沿って通っていたことから、内側に脱線した場合の方が被害が大きくなると判断し外側に設置。事故現場以外の8カ所でも同様の理由で外側にガードを設けていた。同社は事故後、この9カ所で内側にも脱線防止ガードを設置している。

 一畑電車は5月に公開された映画「RAILWAYS」の舞台となった。【平井桂月】

 ◇設置は完了--一畑電車社長

 運輸安全委の報告書に対し、一畑電車は昌子修社長のコメントを発表した。脱線事故について改めて乗客や関係者にわびた上で、「中国運輸局から指示のあった脱線防止ガードについては既に内軌側への設置を済ませた」と説明。最後に「報告書の内容について精査し、安全運行上必要なものについて対策を講じたい」としている。
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…おいおい、いったい一畑は何をやっているのだ…。

護輪軌条(ガードレール)は、線路に乗っている車輪が、カーブで外側に動くことによって脱線するのを防ぐためのものだ。車輪のフランジ部分を防護して、車輪が必要以上に外側にずれないようにするものだから、内側に設置しないと意味がない。

もちろん、護輪軌条は2本のレールの両方に設置できればベストだが、カーブでは、列車は外側に向かって動くから、あえてどちらか1本を優先するとしたら、カーブ内側の線路を優先すべきである。

どうやら一畑電鉄は、そうした鉄道工学の基本中の基本を理解していなかったようだ。最近、お粗末な鉄道会社が多いとはいえ、鉄道ファンとして、これはあまりにショックである。

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大黒摩季、活動休止へ

2010-08-25 23:53:26 | 芸能・スポーツ
大黒摩季さん、活動休止へ(夕刊フジ)

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 シンガー・ソングライターの大黒摩季(40)が、子宮疾患の治療に専念するため、10月末から無期限で活動を休止することになった。25日未明、公式ホームページやファン向けのブログで報告した。
 大黒によると、病名は「重度の子宮腺筋症、左卵巣嚢腫=子宮内膜症性のチョコレート嚢腫、子宮内膜症、子宮筋腫という子宮疾患メドレー」だという。

 子宮疾患は1996年末に発覚、「だましだまし付き合って来ました」。病状は進行。子宮全体がふくれあがり、これ以上肥大すると摘出しかなくなり、妊娠できなくなるという。

 大黒は2003年に会社員男性と結婚。妊娠が子宮疾患の治療になるともいわれ、体外受精を試みてきた。しかし、ハードな仕事で流産を繰り返し、体に相当なダメージを受けたため、今後は夫と病に向き合っていくことにした。

 また、同じ病気を持つ女性のため、あえてくわしい病状の公表に踏み切った。

 大黒はきょう25日、2年半ぶりのアルバム「すっぴん」を発売。全国ツアー中で、9月11日には東京・渋谷C.C.Lemonホールが控える。

 完治するまでの無期限の活動休止となるが、ファンには「ちょっと語学留学に行ってきます」ぐらいだとメッセージ。「幼少の頃より歌わないことなどひと月たりとも無かったので復帰の時は相当歌う喜びに満ちていると思います」と、再会を誓っている。
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大黒摩季公式ホームページでの告知

最近は、大黒摩季の姿勢に対して思うところもいろいろあり、距離を置いていた私だが、それにしてもショックなニュースではある。

96年からわかっていたというが、当時は大黒摩季にとって全盛期だったから、仮に休養を言い出しても認められる可能性はなかっただろう。2000年から1年ほど「充電期間」を設けて活動を休止したことはあったが、そのときはまだ大した症状ではなかったのかもしれない。30代後半になるまで独身だったから、彼女の中での優先順位もきっと低かったに違いない。

30歳代後半から40歳代は、あらゆる人にとって身体の曲がり角といえる。大黒摩季もこの機会に、自分の全身を見つめ直す時期だということだろう。

焦らなくて良いから、ゆっくり治療し、完全な状態になってからファンの前にまた帰ってきて欲しい。

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興南、沖縄県勢初の夏制覇

2010-08-22 22:32:43 | 芸能・スポーツ
<夏の高校野球>興南打線爆発で春夏連覇 東海大相模破る(毎日新聞)

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 第92回全国高校野球選手権大会は21日、決勝が行われ、興南(沖縄)が東海大相模(神奈川)に13-1と大勝。沖縄勢の夏初優勝とともに、98年の横浜以来、史上6校目の春夏連覇を達成した。

 序盤から両チーム、得点圏にランナーが出ながら、決定打を欠いていたが、興南は四回、東海大相模・一二三をとらえた。四球と安打、相手守備のミスで1死二、三塁としたあと、伊礼がセンター前にはじき返し1点を先制した。さらに、次打者の島袋の際に、スクイズを外したものの、捕手から三塁への送球が悪送球になり2点目、2死から大城が左前適時打を放ち3点目。さらに慶田城の右越え2点三塁打、我如古のセカンドへの適時内野安打、真栄平の右越え適時三塁打など打者11人を送る猛攻で計7点を挙げた。五回に1点を追加したあと、六回には我如古の左中間3点本塁打が飛び出すなど5点を加え、先発全員安打で圧勝した。

 準決勝の報徳学園戦で甲子園奪三振記録を歴代2位とした島袋は、この試合はきっちりと変化球を打たせて、奪三振は4にとどまったが、4試合で34得点を挙げた東海大相模打線を1点に抑えた。

 東海大相模は七回、2死二塁から伊地知の左前適時打で1点を返すのがやっと。一回、ヒットと四球で1死一、二塁と島袋の立ち上がりを攻めたが、四番・大城卓がセカンドゴロ併殺となり、先制のチャンスをつぶしたのが響いた。甲子園をわかせたエース・一二三も六回までで降板した。【毎日jp編集部】
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92回夏の甲子園は、興南(沖縄)が沖縄県勢として初の全国制覇を成し遂げた。沖縄県勢は、90~91に沖縄水産が準優勝。春の選抜では、沖縄尚学が全国制覇しているが、夏の大会の全国制覇はこれが始めて。沖縄県民の悲願がついに実現した形だ。

だが、当ブログは興南の春夏連覇、ひょっとしたら…と思っていた。春の優勝校だけに他の各校から徹底的にマークされ、難しいと思う一方、エース・島袋が選抜と同じ調子で投球すれば、夢ではないと感じていたのだ。

例年通り、大会全般を振り返ろう。

春のセンバツ講評で、当ブログは「今年は打高投低の年になる」と予告した。この予告が的中したかどうかの判断は読者諸氏にお任せしたいが、1回戦から決勝戦まで、今大会は大差ゲーム、ワンサイドゲームが目立った。その象徴が8月14日に行われた2回戦・早稲田実業-中京大中京の21-6だ。どちらか一方のチームが打ち始めると止まらなくなり、「ビッグイニング」が生まれるのはここ10年くらいの甲子園の傾向として見られる現象ではあるものの、今大会は特にそれが顕著だったように思う。その意味では、当ブログの予告はある程度的中したといえるのではないだろうか。

しかし、そのような中でも、やはり投手力の際だったチームが上位に勝ち残った。島袋を擁する興南をはじめ、一二三投手を擁する東海大相模、中川を擁する成田(千葉)、歳内を擁する聖光学院(福島)などがその典型である。改めて、野球は打撃力だけでもダメなのだということを教えてくれた大会だった。

一二三投手については、前評判が高かったものの、「思っていたほどの逸材ではない」という声も一部に聞かれるなど、評価は割れている。春の大会以降の不振で、投球フォームをサイドスローに変更したが、そうした急ごしらえのフォーム改造の影響が、最後の最後で出てしまったのではないだろうか。

今大会では、特に強く印象に残った学校はないが、強いて1校を挙げるなら延岡学園(宮崎)だろう。家畜伝染病・口蹄疫の影響で、宮崎では地方予選のほとんどが無観客試合となった。そうした苦難の中から出場を果たし、2回戦に進出した。球児たちの活躍が、宮崎県民にきっと大きな勇気を与えたことだろう。

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「日帝支配36年」と金メダリスト・孫基禎

2010-08-20 22:54:19 | その他社会・時事
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 「第11回近代オリンピアードを祝し、ベルリン・オリンピックの開会を宣言する」

 ドイツ首相アドルフ・ヒトラーによる、余計な修飾語の一切ない簡潔な開会宣言で、1936年ベルリン五輪の幕は開けた。

 しかし、ヒトラーは当初、ベルリン五輪開催にきわめて懐疑的だった。その証拠に1932年、まだドイツの野党党首に過ぎなかったヒトラーは、「オリンピックはユダヤ主義に汚れた芝居であり、国家社会主義が支配するドイツでは“上演”できないだろう」と、政権獲得後の中止さえ匂わせる発言をしていた。しかし、翌33年にナチスが政権を獲得すると、最大の側近だったゲッベルス宣伝大臣の入れ知恵もあって、ナチズムの宣伝のためオリンピックを政治的に利用することを考え始めた。

このような経過をたどって開催されることになった1936年ベルリン大会は、極端な人種差別・民族抹殺政策をとる独裁国家によって、政治的に最大限利用された大会として、五輪史上に大きな汚点を残すことになる。

 世界的な軍国主義・ファシズムの嵐の中で、朝鮮半島は1910年以来、日本の植民地支配の下にあった。天皇への忠誠と日本人への同化を強制され、言葉や氏名まで奪われていく屈辱と苦難の中で、2人の朝鮮半島出身のマラソンランナーがベルリンの地を疾風のように駆け抜け、朝鮮半島の人々に勇気と希望を与えた。しかし、その希望は、植民地支配の現実の中で、脆くも打ち砕かれ、消えていった。

 私たちは侵略者としての日本の歴史に区切りをつける意味からも、植民地支配の責任を明確にしなければならない。戦争の歴史を知らない若い世代のためにも、「日帝支配36年」が朝鮮半島とその人々に与えた苦しみを伝えることは平和運動に関わる者にとっての義務である。今回は、ベルリンの地を駆け抜けたマラソンランナーの姿を通じて、歴史の真実を見ていく。(以下、文中敬称略)

●「私が走らなければ損をするのは彼らですからね」

 朝鮮半島出身の孫基禎は、当時の日本と朝鮮半島で間違いなくトップを走る選手だった。だが、朝鮮半島の人々に当時、自分たちの国はなかった。孫もまた「日本代表」としてベルリンに来ていた。孫は、自分の出身を伝えるため、サインをするときは必ずハングルで自分の名前を書こうと決めた。日本選手団の役員はそのことに不満を持ち、「なぜそんな難しい字を書きたがるのだ」と何度も孫を詰問した。孫は「優勝できるかもしれないのでサインの練習をしているのです」と答え、サインを求められると、朝鮮半島の地図とともに気軽にハングルを添えたサインをして「KOREAの孫基禎です」と自己紹介した。練習の時も、極力、日の丸のついたトレーニングウェアを着ないようにした。着ない理由を問われると「ユニフォームがもったいない。家宝として取っておくのです」と答えるのだった。

 「日本代表」としてベルリンに滞在していた同じ朝鮮半島出身の他の選手は、そうした孫の態度を心配した。中には「そんなことをしているとレースに出してもらえなくなるぞ」と“忠告”する者もいたが、孫は「いいですよ。私が走らなければ損をするのは彼らですからね」とあくまで平然としていた。

 朝鮮半島出身の2人、孫と南昇龍は予選での圧倒的な記録によって選出されており、その実力に疑問はなかったが、日本選手団の役員たちは、マラソン日本代表3人のうち2人まで朝鮮半島出身であることに不満を抱いていた。懲りない役員たちは、ベルリン到着後、もう一度代表選考のための予選をやり直そうと言い始め、30kmを走る選考会が提案された。だが、そこでも孫が1位、南が2位となり、役員たちもこの結果を受け入れざるを得なかった。

 ベルリンに向け送り出される直前、朝鮮半島出身の選手の激励会がソウル(当時は京城と呼ばれた)で開催された。他の競技に出場する選手と合わせ、計7人が「日本代表である前に朝鮮青年としての意気を天下に知らしめてくるように」と同胞たちに激励された。

 1936年8月9日、ベルリンではいよいよマラソン競技の号砲が鳴る日が来た。前評判の高かったアルゼンチンのザバラは30kmを過ぎた地点で転倒し脱落、トップに立った孫はそのままオリンピックスタジアムのゴールを駆け抜けた。南も3位に入り、朝鮮半島出身の2人の実力は余すところなく証明された。

●屈辱の儀式

 孫と南は表彰台に上がった。朝鮮半島出身の2人の他には、2位入賞のイギリス代表選手が立っている。実は、孫はそれまで、オリンピックに表彰式という儀式があり、そこで優勝した選手の出身国の国旗が掲げられ、国歌が演奏されるということを知らなかった。孫の優勝を称え、会場には君が代が流れ始めた。それと同時に、スルスルと上がり始めた国旗は、日の丸だった。

 「果たして私が日本の国民なのか、だとすれば、日本人の朝鮮同胞たちに対する虐待はいったい何を意味するのだ。私はつまるところ日本人ではあり得ないのだ。日本人にはなれないのだ。私自身もまた日本人のために走ったとは思わない。私自身のため、そして圧政に呻吟する同胞たちのために走ったというのが本心だ。しかしあの日章旗、君が代はいったい何を意味し何を象徴するのだ」と孫は考えた。そして「これからは二度と日章旗の下では走るまい」と決心したのである。

●同胞たちの歓喜、そして「日の丸消し去り事件」へ

 2人の勝利を何より喜んだのは朝鮮半島の人々だった。日本による弾圧と朝鮮人蔑視を跳ね返す2人の活躍を誰よりも喜び、祝福した。そんな中、ベルリンの日本選手村では2人の祝勝会が準備されたが、孫と南はそれには参加しなかった。2人はベルリン在住の韓国人・安鳳根から招待を受けていたのである。安鳳根は、韓国統監府初代統監・伊藤博文を暗殺した韓国独立闘争の英雄・安重根のいとこに当たる人物だった。2人は、同胞からの祝福を受け、改めて勝利を喜び合った。

 朝鮮半島の新聞「東亜日報」(現在も韓国の新聞として存在する)は、孫の優勝を写真入りで報じたが、掲載された紙面の写真からは、孫が着るユニフォームの胸の部分に付けられていたはずの日の丸が消え、空白となっていた。これは、東亜日報のスポーツ担当記者によるもので、事実を知った朝鮮総督府は激怒した。東亜日報は日本の警察による強制捜査を受け、写真を加工した記者の他、社会部長、運動部長が拘束される事態となった。その後、東亜日報は停刊処分を受け、社内の「危険人物」の追放を条件にようやく復刊を許された。

 当時、東亜日報には系列の雑誌「新家庭」があった。同誌は孫の下半身だけの写真をグラビアとして掲載し「世界制覇のこの健脚!」というキャプションをつけた。「新家庭」編集部にも刑事が捜査に来たが、編集部は「孫選手が世界を制覇したのは心臓ではない。彼の鉄のような両脚である。画報的効果を生かすために脚だけを拡大して掲載した」と反論した。また「使用した写真は孫の高校時代のものである」(=もともとユニフォームに日の丸はついていない)とも説明した。刑事が編集部内を捜索した結果、この事実が裏付けられたため、「新家庭」は関係者の逮捕や処分を免れた。

●「日本人が監視している」

「公式祝勝会」を無断で欠席し、安鳳根と会っていたとして、孫と南に対する日本選手団役員の扱いは次第に冷たくなっていった。その後、シンガポールに滞在していた2人は、東亜日報を巡る事件の発生を受け、小さなメモを渡された。「注意せよ、日本人が監視している。本国で事件が発生、君たちを監視するようにとの電文が選手団に入っている」と、そこには書かれていた。日本は、植民地支配に反抗する朝鮮半島の人たちを徹底的に監視し迫害した。金メダリストさえ、それは例外ではなかったのだ。

●約半世紀の時を経て

 1984年、ロサンゼルス五輪。ソ連のアフガニスタン侵攻を受け、前回、1980年のモスクワ五輪を西側がボイコットしたことに対する「報復」として東側がボイコットした寂しいスタジアムの中で、孫は初めて韓国代表として走ることになった。選手としてではなく、聖火ランナーのひとりとして1kmを走った孫は、10万人の大観衆の中、初めて「ソン・ギジョン、KOREA」と名前・出身国を紹介された。日本語読みの「ソン・キテイ」から朝鮮語読みの「ソン・ギジョン」へ、「日本代表」からKOREAへ。孫基禎は、長かった「日帝支配」からこのとき初めて解放されたのである。

●今こそ過去の清算と差別解消を

 日韓併合100年の今年は、戦争責任を曖昧にしてきた日本政府に謝罪と補償をさせる絶好の機会である。しかし、日本政府は政権交代などなかったかのように、高校教育無償化制度から朝鮮学校を除外して恥じることなく、新たな差別を繰り返している。圧倒的な成績で金メダルを獲得しながら、「日本代表」として表彰台で君が代を聞かなければならなかった屈辱を孫基禎が経験してから70年。今なお朝鮮学校が「各種学校」であるために、生徒たちは多くのスポーツ大会に参加できないでいる。「在日特権を許さない市民の会」などという薄汚い根性の日本人が、朝鮮学校へ押しかけ、大音量で威圧的な街宣を繰り返している。女子生徒のチマ・チョゴリが引き裂かれる事件も後を絶たない。

 「在特会」など右翼の主張を真に受けている若い人に、筆者は、日の丸・君が代にはこのような歴史があることを伝えたいと思う。朝鮮半島の人たちばかりではない。日本人もまた多くが日の丸に寄せ書きをして「武運長久」を祈り、「靖国でまた会おう」と言い残して、無謀な戦争に突撃していった。日の丸・君が代を国旗・国家として受け入れることは、筆者にはできない。

 侵略と植民地支配の謝罪は、被害者に言われたからするというものではない。加害者である日本人みずからがなすべき義務だ。筆者は、戦後補償問題は日本と日本人ひとりひとりの問題であることを、この機に改めて訴えたい。

<参考文献>
「オリンピックの政治学」(池井優・著、丸善ライブラリー、1992年)

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日本一長い行列

2010-08-15 09:24:51 | 芸能・スポーツ
ただ今、東京ビックサイト前。久しぶりの「夏祭り」。

少なくとも、結婚後初参加であることは間違いない。

(追記)
というわけで、久々の夏コミケ、通称「夏祭り」最終日に少しだけ参加してきた。私が目指したのは、鉄道島である。しばらく鉄道ジャンル外で活動してきた放射性同位体さんが久しぶりに鉄道島に戻ってきたというのも参加動機になっている。

コミケもここ数年は3日間の参加者が50万人くらいの「高値安定」を続けており、一般マスコミの報道もそれなりに冷静なものになってきた感もある。そして、私がメインに訪れる鉄道島に関して言えば、数年くらいではほとんど空気は変わらない。逆にそれこそが、安心感の源であったりもする。

数年ぶりに参加してみて、大きく変わったのは動画(DVD)を扱うサークルが激増したことだろう。動画はここ数年、一大ムーブメントになっているようだ。

しかし、動画というのは、撮影にある程度労力を使う反面、撮影後はDVDに焼いたものを発売するだけだから、思っているほど手間がかかるわけではない。逆に、本当の意味で労力をかけているんだなぁとわかる作品群、例えば○○研究などといった本はほとんど見かけなくなってしまった。

高い旅費をかけて遠くまで撮影に出向き、DVDを制作して売っているサークルさんには申し訳ないのだけれど、写真や動画というのは、同じ撮影場所で同じアングルの下、同じ撮影条件で撮影すれば誰でも同じように撮影ができるのである。場所取りや移動の苦労はもちろんあるだろうし、自分が忙しくて行けなかった「○○系の最後」なんかを撮影してくれているのはありがたくもあるが、鉄道島全般を通して、労力をかけたアカデミックな作品群がもっともっと登場して欲しいと思っている。

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日航ジャンボ機御巣鷹事故から25年

2010-08-13 19:22:20 | 鉄道・公共交通/安全問題
日航機墜落被害者支援を制度化へ 前原国交相が慰霊登山(毎日新聞)

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前原誠司国土交通相は12日、日航ジャンボ機墜落事故の追悼慰霊式であいさつし、公共交通機関などの事故に遭った被害者への支援について「仕組みやあり方を今年度中にまとめ、12年の通常国会での成立を目標に、法制度の整備に取り組む」と述べた。

墜落事故の被害者の家族で作る「8・12連絡会」が今月9日、前原国交相と懇談した際、要望していた。

前原国交相は支援の具体的内容について「被害者への事故直後の混乱時の情報提供や長期のメンタルケア、加害者との間に入った補償や生活支援のあり方」などを挙げた。

 また、連絡会が要望していた「責任を明らかにする捜査より、事故原因調査の優先」について、前原国交相は「我が国に事故調査と犯罪捜査の優先関係を定めた規定はない」と述べたうえで「事故の原因をすべての段階で明らかにしていく事故調査の実現に向け、仕組みを検討し、結論を早急に得たい」と前向きな姿勢を示した。

 8・12連絡会の美谷島邦子事務局長は「被害者支援と事故調査の早急な制度化を約束していただき、高く評価したい。私たちの事故は未解明の部分が多く、再調査してもらいたい。25年間にわたって求めてきた、なぜ亡くなったのか、その死を再発防止に生かしてほしいという思いにつながる」と話した。

 また、ノンフィクション作家の柳田邦男さんは「国民の命や心のケアを大切にする被害者支援制度に言及したのは画期的なことだ。捜査と調査を分けて原因究明を進めることも、遺族が求めてきたことで意味がある」と話した。

 式典に先立ち、前原国交相は墜落現場の御巣鷹の尾根(群馬県上野村)を訪れ、犠牲者520人の冥福を祈った。事故後、航空行政を所管する旧運輸相・国交相が慰霊登山をしたのは初めて。【平井桂月、萩尾信也】
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現職の国土交通大臣が初めて御巣鷹に登った。政権交代による意識の変化、閣僚の若返りがこれを可能にしたといえるかもしれない。

123便事故が起きた当時と現在とを比べてみると、大きく変化(と言うより前進)した点がある。国民の安全に対する要求が当時では考えられないほど高度化、多様化したことだ。安全は国民の最大の関心事になった。食の安全への要求も高まり、食品事故を起こした企業は市場から退出させられるのがむしろ当然という時代になった。公共交通を担う企業も、独占を許されていて市場からの退出こそさせられないが、国民・利用者の視線はかつてないほど厳しいものになってきている。その転換点になったのがこの事故であり、そして2005年のJR尼崎事故だ。

「被害者への事故直後の混乱時の情報提供や長期のメンタルケア、加害者との間に入った補償や生活支援」が今ほど切実に求められているときはない。日航は123便事故の後しばらくの間、被害者に真摯な対応をとらず、むしろ事故を一刻も早く忘れ去りたいかのような姿勢で多くの批判にさらされた。JR西日本は今なお被害者への真剣な補償を行おうという意思にまったく欠けている。事故を起こした企業に対して、被害者への真剣な対応を強制させるようなシステムが検討されてもいいのではないか。もっとも、何が「真摯な対応」なのかが理解できていないJR西日本のような企業には、効果はないかもしれないが。

8.12連絡会が要求していた「責任を明らかにする捜査より、事故原因調査の優先」に関しては、1972年、旧航空事故調査委員会設置の際に警察庁と運輸省の間で締結された覚書が未だに有効なものとして運用されている。表向きは捜査機関と事故調査機関の対等性を強調した内容になっているが、実際には警察が先に証拠物件を押さえてしまい、事故調査委員会の調査に支障を来すことが少なくなかった。

大規模な公共交通の事故に当たって大切なことは処罰よりも原因究明と再発防止にある。関係者の処罰はあくまで原因究明に付随するものでなければならない。そのためには、この覚書にとらわれるのではなく、むしろ事故調査機関の調査を優先できるような新しい制度設計を進める必要がある。

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「御巣鷹は安全願うシンボル」継承、連帯、広がる輪(産経新聞)

発生から25年の大きな節目を迎えた日航ジャンボ機墜落事故の現場となった「御巣鷹(おすたか)の尾根」では12日、大勢の遺族が慰霊登山に訪れた。風化が懸念されるが、若い世代への記憶の継承が進み、事故遺族同士の連帯の輪も広がりつつある。悲しみ、決意、共感…。四半世紀の重みを伴い、御巣鷹の地でさまざまな思いが交わった。

「年も年だし、来るのがつらい」

 墜落場所の「昇魂之碑」前で汗をぬぐったのは、大阪府貝塚市の河瀬周治郎さん(76)。長女の尋文(ひろみ)さん=当時(24)=を事故で亡くした。二人三脚で慰霊登山を続けた妻(76)は、悲しみのあまりか認知症に。看病に追われ、3年ぶりの慰霊登山になった。

 妻は時折、思いだしたように怒りはじめることがあるという。「怒ったことなんかなかった。事故を思いだしているんだ」と河瀬さんは思う。

 「この子を亡くしたから妻も調子が悪くなった。それが一番つらい。25年で尾根の姿は変わったが、つらさは増すばかり」。まな娘の墓標にお経を唱え、「お母さんを治してあげて」と一心に祈った。

 さいたま市中央区の小林準也さん(20)は、おじの慰霊登山に一家で訪れた。背中には紫色のリュックサック。中1のころ、病気のため70歳で亡くなった祖父の形見だ。

 遺族の会「8・12連絡会」の慰霊登山部会長を務めた祖父。一人息子の加藤博幸さん=当時(21)=の慰霊登山では、いつもそのリュックを背負っていたという。

 「おじいちゃん子」だった小林さんは、いつも祖父から「安全」という言葉を聞かされて育った。祖父の死後、リュックと安全への思いを引き継いだ。

 小林さんは就職先にJR東海を選んだ。入社1年目、社会人として初めての慰霊登山で、亡きおじの墓標に「安全を守る仕事に就きました。安全を受け継いでいきます」と報告した。

 「一人の力だけでは安全は実現できない。25年訴え続けてきた連絡会に、私も励まされてきた」

 平成18年6月、東京都港区のエレベーター事故で息子を亡くした市川正子さん(58)。事故遺族という共通の立場から連絡を取り合うようになり、今回の慰霊登山にも1カ月半かけて自ら折った千羽鶴を持って駆けつけた。

 「御巣鷹は、いろいろな事故の遺族にとってのシンボル。こういう形でみんなが安全を願う場所はほかにない」。ある事故遺族は、そう語った。
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事故から四半世紀。御巣鷹の風景に大きな変化が起きつつある。高齢化した遺族に代わり、その思いを受け継いだ若い人の姿が増えているのだ。

昨年の8月12日にはJR尼崎事故遺族が御巣鷹に登ったが、今年はエレベーター事故の遺族も慰霊登山をした。様々な事故の遺族がバラバラに闘うのではなく、結集して企業犯罪に立ち向かおうとしている。こうしたしなやかでしたたかな闘いが、国土交通大臣の御巣鷹登山や、JR西日本歴代4社長の起訴などを引き出す力となっている。

当ブログは、改めて520名、そして名前も付けられることがないまま墜落の衝撃で母親から引き剥がされて亡くなった胎児ひとりに哀悼の意を表する。そして、ありもしない急減圧があったとうそぶき、ウソでウソを塗り固めた恥知らずの事故報告書を公表した旧運輸省、事故調の責任をこれからも問い続けてゆく。


(お知らせとお詫び)
当エントリでは当初、御巣鷹事故25周年に当たっての安全問題研究会コメントを発表する予定でしたが、時期を逸してしまったため、通常記事に切り替えたことを報告すると共に、コメントを発表できなかったことをお詫びいたします。

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