安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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こんなにおかしい!ニッポンの鉄道政策
私たちは根室線をなくしてはならないと考えます
国は今こそ貨物列車迂回対策を!

【年末ご挨拶】今年も1年、お世話になりました

2022-12-31 21:01:47 | 日記
鉄道全線完乗実績まとめ、10大ニュースの発表も終わり、ようやく年末という気分になってきました。

2022年もあと3時間足らずになりましたので、少し早いですが、ここで年末のご挨拶を申し上げます。2022年に起きた出来事の評価は後世に委ねたいと思いますが、歴史に残る1年であったことは確かです。

なお、昨年に引き続いてのコロナ禍に加え、ウクライナ戦争で新年を祝う気分にはとてもなれず、結局、年賀状を書きそびれました。年賀状が欠礼となりますことをご容赦ください。

昨年に引き続き、企業でも年賀状を取りやめる動きが拡大しています。長く続いた年賀状の風習も、急速に廃れそうな雰囲気です。

間もなく新しい年となります。みなさま、よいお年をお迎えください。

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2022.12.31 全交関電前プロジェクト 大晦日アクションへのメッセージ

2022-12-31 14:06:01 | 原発問題/一般
福島原発事故以降、関西電力本社前では、毎年、大みそかにも反原発行動が粘り強く続けられている。今年もメッセージの依頼があったので、以下の通りメッセージを出した。

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 関電前にお集まりの皆さん、寒い中、大晦日までお疲れ様です。

 岸田政権は、今年、これまでの政権が封印してきた原発新増設や稼働延長に舵を切りました。国民的議論もなく、事故の反省もないまま、原発依存を段階的に減らす従来方針から、3.11以前の原発推進政策に戻すものです。まるで福島などなかったと言わんばかりの暴挙であり、断じて許すことはできません。

 福島県民、また私を含め、3.11当時福島に住んでいた元県民は、政府から一言の謝罪も受けていません。それとも政府は福島県民には謝罪など不要とでも思っているのでしょうか。福島で受けた傷も、私はまだ癒えていません。今回の政策転換で、傷口を踏みにじられるような痛みと怒りを覚えます。このままでは、次の原発事故はおそらく10年以内に再び起きるでしょう。そうなる前に、再び脱原発・反原発に政策転換しなければなりません。

 岸田政権がどんなに強力に推進しようとしても、原発の再稼働や運転延長、新増設はどれもそう簡単ではありません。関西電力管内を含む西日本では、再生エネルギーによる発電がこの11年で増え、春秋は原発が要らないほどになっています。出力調整ができない原発は電気が余れば止めるしかありません。春秋には必要なく、1年の半分しか動かない原発では民間電力会社は採算がとれません。

 東電株主代表訴訟では、経営陣は会社に13兆円を返却するよう命じられました。一度事故を起こせば、民間企業にはとうてい払いきれない天文学的金額の賠償が待っています。老朽原発の運転延長は電力会社の破綻につながるでしょう。「次世代型原子炉」は世界中どこを見ても成功例がありません。

 北海道では、寿都(すっつ)町、神恵内(かもえない)村が2020年8月に核のごみの最終処分場候補地に応募しました。最初の段階である「文献調査」は2年で、その後、最終処分場になるのが嫌なら降りればいいと町長は言います。しかし文献調査は次の概要調査に直接つながっており、降りられない仕組みになっています。

 幌延町の深地層研究所では「研究だけにとどめ、核ごみを入れさせない」との約束があり、20年以上、核ごみを持ち込ませない闘いが続いています。寿都、神恵内にも核ごみを持ち込ませない闘いを続ければ、使用済み核燃料の搬出先がなくなり、日本の原発は止まります。

 六ヶ所村の使用済み核燃料再処理施設は、この年末、26回目の稼働延期が決まりました。岸田政権の無謀な原発推進への逆戻りに落胆する必要はありません。どこを見ても無理に無理を重ねるばかりの原発推進政策の破綻を覆い隠すことはできません。新しい年、2023年も、原発推進政策を破綻に追い込むため、皆さんとともに頑張りたいと思います。

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2022年 安全問題研究会10大ニュース

2022-12-29 14:04:02 | その他社会・時事
さて、2022年も残すところあとわずかとなった。例年通り今年も「安全問題研究会 2022年10大ニュース」を発表する。

選考基準は、2022年中に起きた出来事であること。当ブログで取り上げていないニュースも含むが、「原稿アーカイブ」「書評・本の紹介」「日記」「福島原発事故に伴う放射能測定値」「運営方針・お知らせ」カテゴリからは原則として選定しないものとする。

こうしてみると、改めて今年がただならぬ世情騒然の1年だったことがわかる。2022年は歴史的転換点として、人々の記憶に長くとどめられる年になることは間違いない。そして、これらの課題のほとんどは解決しないまま、2023年に持ち越される。

1位 ロシアがウクライナに侵攻、ウクライナとの間で一進一退の攻防続く<社会・時事>

2位 安倍晋三元首相、参院選演説中の奈良県内で銃撃、死亡<社会・時事>

3位 東電株主代表訴訟で、東電旧経営陣4人に13兆3210億円の弁償命令。日本の民事裁判賠償額としては史上最高額<原発問題/一般>

4位 セシリア・ヒメネス・ダマリー国連特別報告者による原発事故避難者問題に関する訪日調査が実現。暫定ステートメントが発表<原発問題/一般>

5位 乗客乗員26人を乗せた知床遊覧船が沈没。現在までに20人の死亡確認。運輸安全委が事故調査報告書公表<鉄道・公共交通/安全問題>

6位 北海道原発泊原発運転差し止め訴訟で、札幌地裁が差し止め認める<原発問題/一般>

7位 岸田政権、福島事故以降の「原発依存低減」政策を全面転換、「最大限活用」へ逆戻り<原発問題/一般>

8位 子ども甲状腺がん裁判始まる。原発事故当時6~16歳の6人(その後、追加提訴1人)が東京電力の賠償求め提訴<原発問題/一般>

9位 国交省「鉄道事業者と地域の協働による地域モビリティの刷新に関する検討会」がローカル線の地元協議求める「提言」。日本共産党はローカル線維持のための「提案」公表<鉄道・公共交通/交通政策>

10位 原発賠償訴訟で最高裁、東電の責任を認めるも、国の責任を否定する不当判決<原発問題/一般>
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【番外編】
・JAL争議で大きな動き。被解雇者のうち「納得いく解決」を求める人々がJAL被解雇者労働組合を結成<鉄道・公共交通/交通政策>
・JAL123便墜落事故をめぐって、ボイスレコーダー等の全面開示を求めた訴訟で、請求棄却の不当判決<鉄道・公共交通/安全問題>

【当研究会関連】
・9月、安全問題研究会が「根室本線の存続と災害復旧を求める会」と合同で北海道十勝総合振興局宛に要請行動を実施<鉄道・公共交通/交通政策>

この10大ニュースでは、例年は、概ね「鉄道」系カテゴリーから3つ、「原発問題」系カテゴリーから3つ、その他から4つを選ぶのを恒例としているが、今年はウクライナ戦争・安倍元首相殺害事件という2トップがいずれも動かしがたく、また原発問題系カテゴリーから6ニュースが選出となった。

原発問題系ニュースはいくら何でも多すぎるし、偏りすぎているのではないかと自分自身も思っている。だがこれらのニュースは、いずれも今年でなければ1位にしていたニュースばかり。20大ニュースに拡大した上で、原発問題系ニュースだけ別枠にしようかと、秋頃までは割と真剣に考えていたほどである。10年後、振り返ったとき「日本の原子力政策にとっても2022年が転機の年だった」と振り返られることになると思う。

なお、10大ニュースはこの企画を始めた2009年以降、すべて「日記」カテゴリーで発表してきたが、もともとは管理人の個人的備忘録を扱うために設置した「日記」カテゴリーでこうした社会的な内容を扱うことへの違和感は年々強まっていた。しかも、10大ニュースは「原稿アーカイブ」「書評・本の紹介」「日記」「福島原発事故に伴う放射能測定値」「運営方針・お知らせ」カテゴリからは原則として選定しないとルール化しておきながら、その10大ニュース自体を、選出対象とならない「日記」カテゴリーで扱うのも矛盾している。

このため、今年から10大ニュースの発表は「社会・時事」カテゴリーに切り替えることにした。過去の10大ニュースもすべて「日記」から「社会・時事」カテゴリーに移動したのでお知らせする。

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2022年 鉄道全線完乗達成状況まとめ

2022-12-28 23:42:15 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
さて、年の瀬となり、年内に鉄道の未乗区間に乗車する予定はないので、ここで今年の鉄道全線完乗達成状況をまとめる。昨年に引き続き目標を掲げなかったが、今年は破竹の勢いで(?)完乗活動が進んだ。

【4月】予讃線、内子線
【5月】とさでん交通、東急池上線
【6月】小田急江ノ島線
【8月】阪神武庫川線、近鉄南大阪線、吉野線、御所線、道明寺線
【10月】仙石東北ライン(東北本線)松島~高城町、仙石線〔奪還〕、石巻線〔奪還〕、上田電鉄別所線、伊豆急行

合計はJR2社、私鉄7社、15路線で、内訳は以下の通り。

【JR】5路線(四国2、東日本3)
【大手私鉄】4社7路線
【中小私鉄】3社3路線

新規開業線(当ブログのルールでは開業日から1年以内)、廃止路線に該当するものはなく、また「奪還」は2路線。東日本大震災による線路付け替えで営業キロが変更となった路線で、乗り直しによって再度完乗達成となった。

今年、これほど一生懸命に完乗活動に取り組んだのは、2016年以降北海道の廃線問題に追われ、また2020年以降はコロナによる影響も加わって遅れに遅れた完乗活動のペースを挽回したかったことが大きい。また、ウクライナ戦争により、いつ人類が滅亡するかどうかもわからないから、今のうちにやり残したことはできる限りやっておきたいという気持ちになったことも大きいと思う。

今年発生した問題は基本的に解決しないまま越年する。来年も、不安定で危機的なムードは変わらないだろう。完乗達成を急ぎたいと考えており、ここ数年発表していなかった目標も、来年はおそらく発表することになると思う。

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「日本の原発にゲリラ攻撃が」“核危機”で直面…北朝鮮の有事に備えよ!明かされた極秘作戦【報道の日2022】

2022-12-26 22:25:00 | 原発問題/一般
「日本の原発にゲリラ攻撃が」“核危機”で直面…北朝鮮の有事に備えよ!明かされた極秘作戦【報道の日2022】


本日、TBSが報じた特ダネである。1994年当時、北朝鮮のミサイル危機によって日本の原発が攻撃される恐れが高まり、自衛隊と警察が極秘に「原発防衛作戦」の検討までしていたというから驚きだ。

原発にはこのような避けがたい危険性がある。それでも原発を再稼働しようとする岸田政権、経産省、原子力ムラは日本を破壊し、滅亡に導く亡国の徒である。ひとりでも多くの人にこの映像を見てもらいたいと思う。

(この映像を見て、「だからこそ防衛力強化が必要なのだ」と、当ブログとは180度逆の解釈をする右派、保守派もいると思うが、どこまで防衛力を強化すれば原発攻撃を防げると考えているのか、ぜひ彼らの考えを聞きたいと思っている。)

なお、北朝鮮を核保有国に導くきっかけを誰が作ったのかについては、証拠などあるわけがないが、当ブログはある「確信」を持っている。それについては後日、追記したい。

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2023年に向けて~民主主義は生き残れるのか?

2022-12-20 23:31:17 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2023年1月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 2022年も残りわずかとなった。年の瀬に配達され、年末年始を通じてじっくり読み込まれることが多い新年号では、私はこの先10年の展望や人類の思想的潮流など、割と大きめのテーマを扱うことが多い。特に今年はウクライナ戦争や安倍元首相殺害事件など内外ともに世情騒然とした年だったからなおさらその思いは強い。本誌読者の中にも、これからどうしていいかわからず、立ちすくんでいる人もいるのではないだろうか。

 私たちは、今はまだ激動する歴史の渦中に身を置いており、これらの出来事に現時点で評価を下すことは難しい。このような時代に大切なことは、個別の事件や出来事の評価は後世の歴史家に委ねざるを得ないとしても、そこで肯定的な評価を受けられるように、今、自分に課せられた役割をきちんと果たすことに尽きる。

 ところで、2022年以前から、私の中で徐々に膨らんできた「ある疑問」がある。民主主義はこの先の時代も果たして生き延びられるのかというものだ。中国やロシアなど、従来のいわゆる「西側社会的常識」の範囲外にある国が、民主主義国家よりはるかに迅速な意思決定の下に、効率的に国家・経済建設を進めているように見えるからだ。ウクライナ戦争や安倍元首相殺害事件は、この疑問を後押しするものではあっても、解決の糸口を提供するような性質のものではない。

 ●何が本当の民主主義かわからなくなった

 敗戦でGHQ民政局に陣取ったニューディール派から世界で最も民主主義的憲法を「プレゼント」された日本の市民は、すでに人の一生に匹敵する80年近い年月をこの憲法とともに暮らしてきた。西側陣営の一員に属し、市民的自由や複数政党制に基づく民主主義は疑いを挟む余地のない、自明な、所与の条件であり、独裁国家や専制体制に対する優位性の根拠になってきた。ソ連崩壊で官僚主義的社会主義体制が崩壊し、自由民主主義体制が普遍性を持つ唯一の政治体制と捉えられるようになってから、その傾向にはますます拍車がかかった。

 民主主義が本当に機能しているのかという私の問題意識は、2016年大統領選で米国にトランプ政権が成立してからかなり明確になったが、今年6月にNHKで放送された「マイケル・サンデルの白熱教室~中国って民主主義国?」を見てから決定的になった。米ハーバード大学、中国・復旦大学、そして日本からは東京大学、慶應義塾大学の学生が出演して民主主義について議論するというものだ。最近、物価高など生活に密着した課題はテーマになっても、こうした大きなテーマが論じられることがまったくといっていいほどない日本で、多くの知的刺激を与えられた。

 番組の詳細を紹介する余裕はないが、市民的自由や複数政党制に基づく民主主義に信頼を置いているのが米国の学生であり、対照的に「中国には中国の民主がある」とそれらに否定的なのが中国の学生。日本の学生はその中間だが、真ん中より若干中国寄りというのが、番組を見た私の印象だった。

 司会進行を務めるマイケル・サンデルはハーバード大教授で、2009年に出版した「これからの「正義」の話をしよう」は100万部の売り上げを記録。日本でも注目されるようになった。2021年に出版した「実力も運のうち」では、有名進学校から有名大学に進めたのが自分の努力のように見えても、それには裕福で有名進学校に子どもを通わせられる家にたまたま生まれたという要素が大きく、エリートが自分自身の努力の結果と思っていることのほとんどが「運」によるものであるとして、先進国の社会にまん延するいわゆる能力主義(メリトクラシー)に真っ向から疑問を投げかけ、再び話題を呼んだ。

 「白熱教室」で、サンデル自身は自分の意見を押しつけることはなく学生の意見を尊重する。その意見が極端なものであっても、主張に一貫性があれば問題としない代わり、議論の過程で学生の意見が変わり、または主張が一貫しないときは「君は先ほど○○と言っていたはずだが?」と確認を求める。自分の教え子かもしれないハーバード大学生を特別扱いもせず、公正な司会進行に努める姿が印象的だった。

 米国の学生は、共産党が国家社会の全領域を指導し、包摂する政治体制について「共産党が間違いを犯した場合、誰がチェックするのか」との疑問を投げかけた。サンデルが別の話題に切り替えたため、中国人学生は直接この質問には答えなかった。だが、全体の利益に配慮した善政を「王道政治」、権力者が私利私欲を満たそうとする悪政を「覇道政治」として区別する考え方が中国では歴史的に根強い。仮に聞かれたとしても、中国人学生は共産党をチェックできる外部勢力の有無には触れず「どのような政治が“民主”かは、人民は見ればわかるものです」と答えたに違いない。

 中国の政治体制について「自由選挙でも複数政党制でもなく、言論の自由も完全に保証されていないのに、それは民主主義と呼べるのか」との疑問が出されたのに対し、中国人学生がそれを「中国式“民主”」として堂々と肯定する姿に私は違和感を覚えた。もしこれでも“民主”に含まれるなら、そもそも“民主”でない政治体制にはどんなものがあるのかという疑問を持ったからである。おそらく、中国でいう“民主”は王道政治のことではないかというのが私の推測である。

 「中国の政治体制を民主主義と認めるか」というサンデルの問いに対し、米国人学生は6人全員が認めないと回答したのに対し、中国人学生6人全員が認めると回答したのは対照的だが予想通りだった。私が衝撃を受けたのは、日本の学生6人のうち4人までが「認める」と回答したことである。

 ここからは私の推測になるが、日本では自民党は保守合同によって1955年に結党してから、ほとんどの期間与党の地位にあった。自民1党支配はそろそろ人の一生に近い70年になろうとしており、自民党政権成立以前の日本を知る日本人はいなくなりつつある。その上、過去2度起きた非自民政権への交代がたいした成果も上げられなかったとなれば、ほとんどの日本人は1党支配を疑う余地のない所与の前提と思うだろう。中国で、共産党とその公認を受けた8つの「民主党派」以外には立候補の自由がないのに対し、日本は誰がどんな政党・結社を作っても自由に立候補できるなど本質的な違いはある。だが少なくとも「誰がどれだけの期間、政権を担当しているか」という外形的な部分だけを見れば、長期1党支配として日本も中国も大きな違いはなくなっている。日本人学生が、自国の政治体制を民主主義に含めるなら、中国の“民主”も民主主義に含めなければ平仄がとれないと考えたとしても、それを責めるのは酷というものだろう。

 ●選挙は機能しているか

 サンデルが別の話題に移ったため、米国人学生から投げかけられた疑問に答えるチャンスを逃した中国人学生に代わり、私が西側的「民主主義」より中国型“民主”のほうが優れていると思われる点も挙げておくことにしよう。

 近年、日本の選挙では再び投票率低下が激しくなっており、大都市部では20~30%台という極端な例も見られる。先日行われた東京都品川区長選挙は、6人が乱立した末、公職選挙法が定める法定得票(有効票数の4分の1)を得た候補者がなく再選挙となった。再選挙では当選者が決まったが、投票率は10月の1回目投票が35.22%、再選挙も32.44%という惨憺たるものだった。

 仮に、投票率が32.44%で当選者の得票率が4分の1すれすれだった場合、全有権者の8%の支持しか得られなかったことになる。このような状態で当選した人に公職者としての政治的正統性があるかどうかは検証されるべきだろう。

 当選した人が圧倒的な得票率だったとしても問題の本質は同じである。投票率を「現行選挙制度に対する支持率」だと見るならば、支持率が30%代前半で「危険水域」といわれている岸田政権と大して変わらない。日本の現行選挙制度も岸田政権同様の危険水域にある。

 これに対し、中国では政治体制こそ一党独裁だが、各級選挙は、党が選んだ官選候補に対する信任投票として行われる。信任か不信任かの二者択一しかなく、不信任が上回った場合には、候補者を差し替えるなどの方法で選挙がやり直される。いずれにしても、信任された場合、その信任票は必ず投票総数の半数を超えることになる。「誰でも立候補できる選挙制度の下で、全有権者数の8%の支持しかないのに当選した者と、誰でも立候補できるわけではないものの、必ず投票者の過半数からの信任を得なければ当選できない制度の下で信任を得た者とでは、あなたならどちらを正当な政治的交渉相手として認めますか」と聞かれた場合、それでも前者だと答えられるだけの勇気は私にはない。

 本誌読者の皆さんは、この問いを投げかけられた場合、あなたならどう答えるか頭の体操をしてほしい。このように考えれば、東西冷戦崩壊後、私たちが疑いを挟む余地のない、自明な、所与の条件であり、独裁国家や専制体制に対する優位性の根拠だと考えてきた民主主義が実際にはたいしたものではないことが見えてくるだろう。

 中国の習近平国家主席は、一般市民は参加できない中国共産党員のみの選挙で総書記に選ばれているに過ぎないが、それをいうなら日本の首相も自民党員だけの選挙で党総裁になり、国会議員だけの選挙で首相に選ばれているに過ぎない。習近平国家主席や、プーチン・ロシア大統領が民主主義陣営に「果敢に挑戦」し、一定の成果を上げている背景には、隙だらけの民主主義の本質を見通しているからである。民主主義が専制政治より優位に立っていたこれまでの世界が今後も続くかどうかは、私はかなり危うくなっていると思う。単なる代表選出の方法論では回収できない言論の自由や多様性など「こちらにあって、あちらにないもの」を守り、強化させる努力なくして西側世界が今後、今の地位にとどまれないことは、この間の経過を見れば明らかだ。

 ●哲学を持たない日本人

 「失われた30年」については本誌前号で述べたので、今号では繰り返さない。長く続く日本の漂流の原因について、日本と日本人の「哲学不在」を指摘する声は多い。日本は何を目標とするどんな国であるべきか。国際社会での立ち位置をどこに定めるか。そんな本質的なことを日本人が議論している姿は、もう何十年の単位で見ていない気がする。

 そもそも、子どもたちの教科書に、太字で名前が書かれている日本人はほとんどが政治家や文化人だ。これに経済人が加わる程度で、哲学者、思想家はほとんどいない。枚挙にいとまがないほど多くの哲学者、思想家を輩出してきたギリシャ、ドイツ、フランス、中国などの国々とは違う。

 ドイツでは、メルケル前政権の下で2022年末までの脱原発を決めた。福島原発事故後のエネルギー政策について諮問するため、メルケル首相みずから設置した「脱原発倫理委員会」による答申を受けてのものだ。この倫理委員会で筆頭委員を務めたのが、ミュンヘン大学社会学部教授(リスク社会学)のウルリヒ・ベックであった。ベックはチェルノブイリ原発事故直後の1988年に「危険社会~新しい近代への道」を著している。同書は10年後の1998年になってようやく日本語版が出された。私は福島原発事故後に同書を手にしたが、科学と社会との関係、原発のような巨大な科学技術が社会にもたらす正負の影響、科学者という専門家集団を通じた「サブ政治(政治の中の政治)」がもたらす民主主義無力化など多くの点が論じられている。

 日本では他の学問分野に属さない種々雑多な領域を扱うものとして捉えられ、社会学と社会学者の地位は高くない。何を対象とする学問なのかわからないと言われるのはまだいいほうで、オタク、サブカルチャーや文化芸能などについて論じるのが本業だと思っている人さえいる。実際、私が学生時代には自嘲気味に「社会学者ってのは失業対策のためにいるようなもんですよ」などと発言する教授もいた。

 これに対し、ドイツでは社会学者の地位は高く「職業としての政治」「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などの著作で知られるマックス・ウェーバーも社会学者であった。哲学者、思想家の域に達していなくとも、ウェーバーやベックのような、人間と社会、人間と科学、あるいは人間相互の関係について的確に論じられる社会学が日本に確立し、それを担う社会学者がいれば、30年もの長期にわたって日本が漂流する事態は避けられただろう。

 日本では、哲学不在は有史以来の一大課題だったが、近代に入るまでは宗教者がその穴を埋めてきた。この基本構造は現在も変わらない。原発差し止め訴訟に多くの宗教者が関わるなど、教科書に名前が載るような存在でなくても、多くの無名の宗教者が政治運動に立ち上がっているところに、ひとつの希望を感じる。

 ドイツで本来なら今ごろ実現していたはずの脱原発の期限は、ウクライナ戦争によるエネルギー危機のため先送りされたが、脱原発の方針自体は現在も覆されたわけではない。

 ●「大きな物語」とコミュニティの再建を

 安倍元首相殺害事件とともに、30年ぶりに統一教会が社会を騒がせていることについても、前号で触れたので多くは繰り返さないが、このようなカルト宗教団体をめぐる問題が日本で周期的に起きる背景に、私は日本と日本人の哲学不在が大きいと考えている。失われた30年の間、一貫して続いた新自由主義による共同体、コミュニティの解体によって、多くの日本人が孤独、孤立に追いやられたことも、「心の隙間」にカルトがつけ込みやすくなる土壌を作り出している。

 この問題に特効薬はない。日本人を孤立、孤独から救い出すためには、面倒で長い道のりであっても、共同体やコミュニティを再建する以外に解決策はない。国家、政府と市民ひとりひとりの中間に位置する労働組合、市民団体、文化団体などの再建が急務である。

 同時に、冷戦崩壊後ほとんど語られることのなくなった「○○主義」などの物語も多くの人々を共同体に束ねるためには再建が必要であろう。人間が損得を度外視してでも行動するのは、正義や自由、民主主義など信じる価値観があるときである。

 輝きを失ったソ連型社会主義が人々の希望になるとは思わない。民主主義も昔に比べれば色褪せて見える。これらに代わって私たちの心を捉える価値体系があるのだろうか。自由と多様性、環境保護と持続可能な社会、そして硬直したソ連型の欠点を克服した新しい形での社会主義あたりが、その候補となりうるだろう。いずれにしても、この事態を第2の敗戦と捉え、まったく新しい社会への構想力を持たない限り、日本の復活はあり得ない。2023年をそのためのスタートにしたいと私は今考えている。

(2022年12月18日)

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日本共産党がローカル線維持のための政策提言「全国の鉄道網を維持・活性化し、未来に引き継ぐために」を発表

2022-12-14 22:07:58 | 鉄道・公共交通/交通政策
日本共産党は、12月13日、ローカル線維持のための政策提言「全国の鉄道網を維持・活性化し、未来に引き継ぐために」を発表しました。この提言に、同日の「しんぶん赤旗」5面の全面が割かれています。

共産党は、JR北海道の「維持困難線区」公表を受け、2017年4月にも「鉄道路線廃止に歯止めをかけ、住民の足と地方再生の基盤を守るために――国が全国の鉄道網を維持し、未来に引き継ぐために責任を果たす」を発表していますが、この中では「中長期的課題」としていた公共交通基金(公共交通を維持するための安定財源)構想が、今回の提言ではより具体的になっています。

現在のJR6社体制を基本的にそのままとしている点など、この政策提言には不十分な点があり、また、安全問題研究会が公表したJR再国有化法案(日本鉄道公団法案)とはまだ距離があります。

それでも、国会に議席を持つ国政政党から「線路全面国有化」による上下分離の導入を柱とした政策提言が行われたことには大きな意味があります。現状の完全民営路線から比べると大きな前進となるものであり、安全問題研究会は、この提案に支持を表明するとともに、当研究会の「日本鉄道公団法案」を対置し切磋琢磨しながら、お互いの政策提案が多くの国民の支持を得て実現するよう、協力したいと考えます。

なお、以下、「全国の鉄道網を維持・活性化し、未来に引き継ぐために」の全文をご紹介しますが、図表などは省略しています。全体をご覧になりたい方は、日本共産党のホームページに掲載されています。また、印刷に適したPDF版も用意されているようです。

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全国の鉄道網を維持・活性化し、未来に引き継ぐために
2022年12月13日 日本共産党の提言

 今年は鉄道150年です。新橋―横浜から始まった日本の鉄道は、国民生活の向上、経済、産業そして文化の発展に大きく寄与してきました。ところが、この記念すべき年に、鉄道路線の大規模な廃止など、全国鉄道網をズタズタにしてしまうような動きが起きています。

 国土交通省の「鉄道事業者と地域の協働による地域モビリティの刷新に関する検討会」は、地方路線の廃止や地元負担増にむけたJRと関係自治体との「協議会」を国が主導して設置し、3年で「結論」を得るなどとする「提言」を7月に出しました。国交省は、これに基づく法案を通常国会に提出する準備をしています。

 「JR各社は、都市部や新幹線、関連事業の収益によって不採算部門を含めた鉄道ネットワークを維持する」という国鉄の分割・民営化時の原則が維持できなくなったことを理由にしています。分割・民営から35年が経過し、その基本方針である「民間まかせ」では全国鉄道網は維持できないことを認めたのです。それにもかかわらず分割・民営の総括もせず、鉄路廃止をどんどんすすめ、全国鉄道網をズタズタにしてしまう、地方経済、地域社会のいっそうの地盤沈下を政府主導ですすめてしまう、こんな道を進んでいいのかが問われています。「民間まかせ」を見直し、国が責任を果たす改革をすすめ、全国鉄道網を維持・活性化し、未来に引き継ぐことこそ、国の取るべき道ではないでしょうか。

1、鉄路廃止のレールを敷いてはならない
(1)政府が先頭にたって鉄路を廃止し、全国鉄道網をズタズタにすることは許されない
 【国鉄民営化時を上回る廃線となる危険】

 「提言」では、「輸送密度1000人未満、ピーク時の1時間あたり輸送人員500人未満」の線区(2019年度実績で61路線100区間)で、JRと沿線自治体の「協議」の場の設置が義務付けられます。

 国交省は「廃止ありき、存続ありきという前提を置かずに議論」などとしています。しかし、斉藤国交大臣は「かなりの部分は鉄道として残ると思う。半分以上は残すことになるのではないか」(中国新聞インタビュー)と述べています。半分程度(50区間程度)は廃線になる危険があるということです。国鉄民営化を前後して廃線になったのは45路線ですから、それに匹敵するか、それ以上の大規模な廃線になる恐れがあるのです。

 しかも、今度は、いわゆる「ローカル線」だけでなく、羽越本線の酒田―羽後本荘、山陰本線の城崎温泉―鳥取などの区間も「協議」対象になります。全国鉄道網がズタズタになり、旅客だけでなく貨物輸送・物流にも大きな打撃になりかねません。

 【「廃線か、負担増」を地方に迫り、地域の公共交通を失いかねない恐れ】

 政府・国交省が押し付ける「協議」では、「廃線にしたくなければ地元負担を増やせ」と、利用者・住民には料金値上げ、関係自治体にはJRの「赤字」を埋めるための「財政負担」を求めることになります。対象となる自治体の多くは財政力も小さく、過疎や地域経済の疲弊に苦しんでおり、"廃線か、財政破綻か"の「悪魔の選択」を迫られることになってしまいます。この間、地方では鉄路を維持するために、官民力をあわせたさまざまな努力がされてきましたが、こうした努力も無に帰しかねません。

 その一方で、「提言」が「国の支援策」としているのは、鉄路存続の場合でも、BRT(バス専用道などを使用するバス)や路線バス転換の場合でも、「新たな投資」や「追加的な投資」への支援のみで、まともな経営支援は行いません。地方からは"慢性的な人手不足などから、鉄路廃止後の代替交通を自治体や地元交通業者のみの負担で運行することは持続可能性に大きな課題があり、地域の公共交通そのものを失いかねない"という危惧も表明されています。

 整備新幹線の並行在来線の存続も地方に押しつけてきましたが、北海道新幹線の並行在来線は廃線に追い込まれようとしています。「民間まかせ」とともに、「地方まかせ」でも、全国鉄道網を維持することはできないことも明らかです。

 【コロナ危機に便乗した鉄路廃止・地元負担押しつけは政治的にも道義的にも許されない】

 「提言」は、「コロナ以前の利用者まで回復することが見通せず、事業構造の変化が必要」としていますが、JR各社の現在の赤字はコロナ危機が主たる要因です。2022年度は東日本、東海、西日本が大幅な黒字転換となるなど、収益は大きく回復する傾向にあります。「コロナ後の回復」がどの程度になるか見通せない現状で、地方に廃線や、値上げと自治体負担を求めることは、コロナ危機に便乗した地方切り捨てと言わざるを得ません。

 一方で、政府はJR東海とともに、リニア新幹線建設を「国家プロジェクト」などと推進していますが、2045年の東海道新幹線の利用者数はコロナ前より1・5~1・8倍になるという「需要見通し」は再検討もしていません。コロナ危機のもとで広がった「オンライン会議」や「テレワーク」の影響は、地方路線よりリニアや新幹線の方がはるかに大きいはずです。東京―大阪間を約1時間半短縮するために新幹線の4倍もの電力を消費するとされるエネルギー浪費型のリニア新幹線は中止し、地域公共交通への支援を強めるべきです。

(2)いま鉄路の廃止をすすめていいのか――地方再生、気候 危機への政治の姿勢が問われる
 交通権・移動する権利を保障することは国の責務であり、鉄道網はその重要な分野です。同時に、現在ある全国鉄道網を維持・活性化し、未来に引き継ぐことは、それだけにとどまらず、これから日本社会がどのような方向にすすむのか、国の基本姿勢にかかわる重要な課題です。

 第一に、鉄道は、地方再生への大切な基盤です。

 鉄道は、通勤・通学、通院、買い物をはじめ生活に必要な移動手段です。また観光や地域の産業振興にとっても大事な基盤です。「採算性」や「市場原理」をふりかざし、地方の公共サービス、公的施設を縮小・廃止してきたことが、人口減少・若い世代の流出を激化させるという悪循環をつくってきました。鉄道廃止はその典型です。地域の「地盤沈下」をもたらし、地方再生の大切な基盤を放棄してしまうことになります。

 鉄路を維持・活性化させることは、地方再生を本気で追求する政治の責任を果たすことであり、地方の疲弊・衰退を国が先導してすすめ、大都市と地方の格差を拡大させ、地方を住みにくくしてきた政治を反省する大きな一歩になります。

 第二に、全国鉄道網は、脱炭素社会をめざすために失ってはならない共有の財産です。

 単位輸送量あたりのCO2排出量は、旅客輸送で、鉄道は、乗用車の13%、航空機の17%、バスの30%、貨物輸送では、鉄道は、自家用貨物車の1・5%、営業用貨物車の8・0%、船舶の44%と、圧倒的な優位にあります。EUでは「グリーン・ニューディール」など、脱炭素社会に向けたとりくみに、鉄道の利用拡大が大きく位置づけられています。

 鉄道から自動車・トラックへの転換は、気候危機打開、脱炭素社会に向けた逆行です。全国鉄道網の維持・活性化を脱炭素社会に向けた重要な柱に位置づけ、気動車のハイブリッド化や蓄電池車など、鉄道事業の省エネ化、低排出化を進めることとあわせて、鉄道利用を拡大することが求められます。

2、全国鉄道網の維持・活性化に国が責任を果たすために――日本共産党の提案
 政府・国交省は、JRに移行した路線は維持するという、国鉄分割・民営化の制度設計が維持不能になり、国民への約束が果たせなくなったことを認めました。そうであれば、分割・民営の35年間を総括し、全国鉄道網とJRをどうするか、国はどのような責任を果たすべきか、国民的な議論と検討が不可欠です。

 全国知事会も、国交省・検討会の「提言」を受けて、「分割・民営化が地方に与えた影響、分割方法の妥当性、国鉄改革の精神等を改めて検証し......基幹的線区以外の線区も含めた全国的な鉄道ネットワークを維持・活性化するための方向性について示すこと」を国に求めています。

 ところが、政府・国交省は、分割・民営の総括も、全国鉄道網の今後についての議論さえせず、地方の赤字路線だけ切り出して、地元自治体とJRとの「協議」を義務づけることに終始しています。破たんした「民間まかせ」から、全国鉄道網を維持・活性化させるために、国が何をするのか、どのように責任を果たすのかを示すことが求められています。日本共産党は、この立場から、以下の緊急対策と中長期的な対策を提案します。そして、全国鉄道網を維持・活性化させるために、鉄道事業者や自治体関係者を含め、幅広いみなさんに国民的な討論をよびかけます。

(1)全国鉄道網を維持・活性化するための緊急の対策を
 地方路線の廃止を止めることは緊急の課題になっています。

 【北海道、四国、九州は、もともと分割に経営上の無理があり、国が路線維持のために必要な財政支援を行う】

 北海道、四国、九州の3社は、分割・民営化の時点で赤字になることがわかりきっていました(九州は不動産事業等で黒字化しているが鉄道事業は赤字)。経営安定基金を積んで、その運用益で赤字を補塡(ほてん)する仕組みにしましたが、この運用益だけでは鉄道事業を維持できなくなっています。三島会社(JR北海道、四国、九州)の鉄道事業の経営難は分割方針の破綻であり、国が路線存続に責任を持つのは当然です。

 とくに、JR北海道は大規模な廃線と大きな自治体負担を関係自治体に迫っています。国は経営安定基金の運用益を増やす「追加支援」を行いましたが、きわめて不十分です。JR北海道の全線を維持するための財政支援を行うべきです。

 また、気候危機打開のためにも、鉄道による貨物輸送を「市場まかせ」のままにすることはできません。国交省は「トラック輸送から環境負荷が小さい鉄道に転換させる」モーダルシフトを推進しており、この点からも国がJR貨物に対する必要な支援を行うべきです。

 【巨額の内部留保をもち、黒字回復が見込まれるJR本州3社の鉄道路線を維持する】

 JR東日本、東海、西日本の本州3社は、コロナ危機で赤字に転落しましたが、行動制限がない2022年度には黒字回復することが見込まれています。しかも、3社ともに巨額の内部留保を抱えています。「不採算路線を含めて維持する」とした民営化時のルール=約束を果たせなくなったという条件はありません。当面、すべての路線を維持するのは当然です。

 【鉄路廃止を届け出制から許可制に戻す】

 政府は、鉄道事業法を変え、鉄道廃止の手続きを認可制から事前届け出制に規制緩和しました。国は何の責任もとらず、住民や自治体関係者の声も無視した鉄道路線の廃止を可能にしてしまいました。28道府県知事連名の「未来につながる鉄道ネットワークを創造する緊急提言」(2022年5月)でも「鉄道事業法における鉄道廃止手続きの見直し」が要望されています。この規制緩和は撤回すべきです。

表・JR旅客各社の損益状況、JR本州3社の内部留保

(2)全国鉄道網を将来にわたって維持し活性化させるための三つの提案
 今後の鉄道のあり方については、破綻した「民間まかせ」にかわる持続可能なシステムへの転換が必要です。

1、JRを完全民営から"国有民営"に改革する――国が線路・駅などの鉄道インフラを保有・管理し、運行はJRが行う上下分離方式に
 全国鉄道網を維持・活性化し、未来に引き継ぐためには、「民間まかせ」「地方まかせ」を根本から改め、国が責任を果たすことが不可欠です。完全民営のJRの鉄道網を国有民営に改革します。国が鉄道インフラを保有・管理することで、鉄道事業を安定させ、運行は、現行のJRが引き続き行います。

 35年が経過し、株式の売却、関連事業とその資産などJR各社の経営や資産の状況は異なっていることもあり、上下分離で国の関与と責任を明確にすることが、もっとも合理的な道になっていると考えます。整備新幹線は、国の鉄道建設・運輸施設整備支援機構が建設・保有し、JRに貸し付ける形態なので実質的に上下分離がすでに導入されており、全国鉄道網の維持・活性化の方式として十分活用できます。

 国が線路や駅などのインフラを保有・管理する上下分離は、欧州の鉄道事業では当たり前の形態で、完全民営は日本だけと言っても過言ではありません。欧州では、自動車や航空機など他の交通機関との公正な競争条件としても道路や空港と同じように線路や駅というインフラは国が責任をもつという考え方も重視されています。

2、全国鉄道網を維持する財政的な基盤を確保する――公共交通基金を設立し、地方路線・バスなどの地方交通への支援を行う
 全国鉄道網を維持・活性化するためには、国が財政確保のシステムをつくることが必要です。「公共交通基金」を創設し、運行を担うJRの地方路線とともに、地方民鉄やバスを維持するも含め、地方の公共交通を支援します。

 財源は、ガソリン税をはじめ自動車関連税、航空関連税などの一部を充てるとともに、新幹線や大都市部などでの利益の一部を地方の公共交通維持に還流させ、交通の面でも生じている大都市と地方の大きな格差と不均衡を是正します。

3、鉄道の災害復旧制度をつくり、速やかに復旧できるようにする
 災害で不通になった道路や橋が復旧されないことなど考えられませんが、鉄道は災害による廃線が相次いでいます。災害で不通となった鉄道を廃線に追い込んだり、復旧に手を付けずに放置することは、被災地の復興を妨害し、災害による地域の疲弊を加速させることになります。

 国が「災害復旧基金」を創設し、被災した鉄道の復旧に速やかに着手できるようにします。地方民鉄、第三セクター鉄道を含む、すべての鉄道事業者を対象に赤字路線等の災害復旧に必要な資金を提供します。「基金」には、すべての鉄道事業者が経営規模・実態に応じて拠出するとともに、国が出資します。

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<地方交通に未来を(8)>鉄道150年、メディアは危機をどう伝えたか

2022-12-10 23:15:11 | 鉄道・公共交通/交通政策
(この記事は、当ブログ管理人が長野県大鹿村のリニア建設反対住民団体「大鹿の十年先を変える会」会報「越路」に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 日本の鉄道が150年の節目を迎えるに当たり、私が注目していたものがある。メデイアがこの節目をどう伝えるかである。もともとたいした期待はかけずメディア報道を見守っていたが、結果は悪い意味で私の予想通りだった。鉄道150年という節目は、こうした問題を掘り下げるにはちょうどいい機会であるにもかかわらず、ローカル線の危機に関する言及は、少なくとも全国放送のテレビに関する限り、皆無だったと思う。

 NHKは、全国鉄道の旅シリーズをBSで連続放送したが、これは単なる鉄道カメラマンが撮影した地域ごとの車窓風景を追うだけで新味がなく、これなら民放BSで放送されている「いい旅・夢気分」などの番組のほうが、旅に出たいと思わせる演出がされているだけマシだと思う。

 NHKで多少なりとも面白いと思えたのは、10月15日に放送された「鉄道博物館 お宝フィルムが語る知られざるニッポン」で、鉄道博物館に眠っている過去の鉄道記録映画から名シーンをピックアップするというものだが、ここで取り上げられた映像のほとんどはインターネット上にアップされており、私はそのほとんどを見ている。鉄道が果たしてきた歴史的役割の大きさを、鉄道に詳しくない一般の人たちに認識させる効果はある程度あったと思われるが、ここから危機にある鉄道をどのような未来につなげるかという意味の言及は、スタジオのコメンテーターからもほとんど行われなかった。

 民放各局は、レギュラーの鉄道番組を通常通り淡々と流すのみで、150年という節目の特番もなく、この話題をあえて避けていることは明らかだった。どう言及したらいいか誰もわからず、結局は通常番組を流す以外にないとの無難な営業判断だろう。

 『国労本部は1987年3月31日に当時の国労会館の講堂で集会を開き、その前にも日比谷野音で大集会をやりましたが、それらは一行も報道されませんでした。ジャーナリズムであれば、あした国鉄が分割・民営化される一方で、反対集会が開かれたことを報道すべきだったと思います。とにかく、反対意見は一切報道しないというマスコミの姿勢だったのです。このとき、これからの新聞、マスコミは国策に対して全然抵抗できないことを、僕は肝に銘じました』。

 国鉄「改革」から20年目に当たる2007年、「国鉄改革20年の検証 利権獲得と安全・地域破壊の20年――公共鉄道の再生に向けて――」と銘打って行われた座談会で、ルポライター鎌田慧さんがこのように発言している。座談会の記録集では、この鎌田さんの発言部分に「歴史の変わり目に機能しなくなるマスコミ」との小見出しがつけられている。私の目には、メディアはこの頃からすでにずっと機能していないように映るが、考えてみれば、歴史はある瞬間を境に突然変わるように見えたとしても、実際には、毎日少しずつ変化しているのだ。メディアが歴史の変わり目に機能しないということは、すなわち日々機能していないというのと同じことで、そこに期待をかけること自体がやはり間違っているのだというべきであろう。時代はこの座談会からさらに20年流れたが、ここで打ち出された公共交通の再生などまるで実現できていない。

 インターネットメディアでは、ローカル線問題の現状を追ったもの、ローカル線の維持に向けて論陣を張る心強いライターの記事もある一方、地域の実情も過去の経緯も無視して、一方的にローカル線の整理を求めるものもあった。だが、赤字線整理を求める陣営は、日頃鉄道になど言及したことがなく、興味・関心があるとも思えないライターばかりで、私の目から見れば「二線級以下」の人材ばかりだ。その中でも最悪のローカル線廃止論者である小倉健一・イトモス研究所所長に至っては、自分のツイッターでしきりに統一協会擁護発言を繰り返している「トンデモ言論人」であり、恥を知れと言いたい。




 唯一の救いは、そうした論者たちが執拗にローカル線廃止を煽っても、世論の賛同をそれほど得られていないことである。これがインターネット上だけの特殊事例でないことは、NHKが今年5月に行ったローカル線に関する世論調査からも明らかだ。「国や自治体が財政支援をして維持すべき」「廃線にして、バスなどに切り替えるべき」がともに44%ずつと真っ二つに割れた。半分がバス転換容認であることに危機感を覚える一方、7~8割が廃線を容認すると思っていた私にとって、半分が維持を求めたことは嬉しい誤算だった。「鉄道が廃止されたら町が寂れる。高校生が町から出て行き、お年寄りは病院に通えなくなる」という地元住民の数値化できない「肌感覚」も、「自称専門家」が繰り出す輸送密度などのもっともらしい数字と同じ程度には世論に支持されているとわかったことは、今後に向けた希望といえる。普段は空気のように見えなくさせられている医療などの公共サービスが、新型コロナ感染拡大という最も肝心な局面で利用できなかった「失敗」を通じ、新自由主義に対する「反省」が広がっているのだとしたら結構なことである。

 政財官界からも、鉄道150年に当たって何かのメッセージが発せられたという話はついに聞かなかった。鉄道を縮小させ、社会の片隅に追いやってきた彼らが発するメッセージを持たなかったことに驚きはない。結局、支配層、エスタブリッシュメントと呼ばれる人たちの中から発せられた、鉄道150年に関するメッセージで傾聴する価値があるのは次のものくらいだろう。

 『鉄道は、人々の交流や物流を支える大切な輸送手段の一つで、輸送量当たりの二酸化炭素排出量の少ない、環境への負荷が小さい交通機関としても注目されています。鉄道の安全性や利便性を向上させ、将来の世代につなげていくことは、重要なことと考えます。鉄道に関係する皆さんのたゆみない努力が実を結び、わが国の鉄道が難しい状況を乗り越え、引き続き人々に親しまれながら、暮らしと経済を支えていくことを期待します』。

 これは、鉄道開業150年記念式典での天皇の「おことば」である。本欄で紹介する価値を持つ鉄道150年メッセージが天皇の「おことば」しかない現状は悲しむべきことである。天皇制に対しては本誌読者にもいろいろな立場があると思うが、この言葉はきわめて抽象的ながらよく練られており、鉄道が置かれている現状を的確に表している。さしあたり、私たちが取り組まなければならないのは「人々に親しまれる」鉄道を取り戻すこと、「安全性や利便性を向上させ、将来の世代につなげていくこと」であろう。

 同時に私は、鉄道150年だからこそ市民にもあえて苦言を呈したい。ローカル線もまた公共交通だという認識を持てず、日頃は乗りもしないまま、イベント時だけの「乗れる鉄道模型」程度にしか思っていない日本の市民が大半であるように私にはみえる。NHKに「廃線にして、バスなどに切り替えるべき」と答えた半数の市民には今こそ意識変革を求めたい。

(2022年12月10日)

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【ほぼネタバレなし】映画「すずめの戸締まり」を見て

2022-12-04 19:27:11 | 芸能・スポーツ
すずめの戸締まり」を見てきた。新海誠監督の話題の最新作であり、災害がテーマとなるのは「君の名は」「天気の子」の前2作と同じ。ちなみに私は、「君の名は」は話題性もあり劇場で見たが、「天気の子」は前作ほどの評判でなかったためか劇場では見ず、かなり遅れてテレビ放送版で見ている。

この「すずめの戸締まり」、東日本大震災を経験している人にはお勧めできないとするレビュー・感想もあるが、私が個人的に関わっている原発訴訟の担当弁護士が、仕事の息抜きに見て「良かった」と話しているとの噂を耳にし、「その人」が評価する作品なら見ておくべきだろうと思ったことも、わざわざ劇場に足を運ぶ動機のひとつだった。

全体を通していえば、この作品から受ける印象は前2作とはかなり異なる。福島県であの3.11を経験した1人として見ても違和感・拒絶反応などはなく、むしろヒロイン・岩戸鈴芽(すずめ)に素直に感情移入できた。2時間の上映中、スクリーンから目を逸らすことが一瞬もなく、文字通り「釘付け」だった。こういう作品に出会えることは、近年ではとても珍しい。

新海作品の特徴は、人々の生活空間である<リアル>と、非日常が織りなす<ファンタジー>の世界を、主人公やヒロインが自由に行き来しながら、人類に災厄をもたらそうとするものと戦いつつ、それが主人公やヒロインの過去の記憶や経験とつながっていて、<リアル>と<ファンタジー>が最後に結合したところで張られていた伏線が回収される、というストーリー構成と表現技法にある。新海作品は、主人公やヒロインがこの<リアル>と<ファンタジー>の世界を行き来する場面では、必ずその作品の象徴となっている「ツール」が登場し、そのツールを介して、ここからここまでは<リアル>でここから先は<ファンタジー>という切り替えが、まるでスイッチをON-OFFするかのようにはっきりした形で行われるところに特徴がある。「君の名は」を例に取れば、それは主人公とヒロインとの「入れ替わり」によって描き出される。

下手な作品では、この切り替えが曖昧で、結局どこまでが<リアル>でどこからが<ファンタジー>なのかが判然としないまま終わってしまう、というものもあるが、新海作品はこの「切り替え」がどこで行われているかがはっきり描かれているため、本来なら断絶しているはずの<リアル>と<ファンタジー>との行き来にまったく違和感がなく、物語を理解しやすい。この表現技法はもちろん今作品でも踏襲されており、<リアル>と<ファンタジー>の行き来にはある「ツール」が登場するが、それはぜひ作品をご覧いただきたい。

新海監督の作品は、2000年代頃に量産された「ネタ・記号消費」「キャラ萌え」だけの作品群とは明らかに(比較対象にすること自体が失礼というレベルで)一線を画していたし、主人公やヒロインが根拠なく万能感を漂わせていた「痛い」セカイ系とも一線を画しているように思う。カテゴリーとしてはセカイ系に属するものであっても、<リアル>の部分で描かれる主人公やヒロインは等身大で、「うちのクラスにもいそうな少年少女」として描かれ、現実から遊離しているようには見えない。新海監督がここ数年でオタクのみならず、多くの一般市民からの支持を獲得できた背景に、この<リアル>部分の、地に足の着いた描き方があることは間違いない。

ストーリー構成も表現技法も、そしてそのようなキャラ設定も前2作とほぼ同じなのに、見終わった後に受ける印象が前2作と異なる理由は、私は大きく2つあると思う。1つ目は、「すずめの戸締まり」から感じる強いメッセージ性である。前2作では、新海作品独特のスケール感のある<物語>は感じても、それを通じて新海監督自身が視聴者に何かを訴える目的を持ったメッセージ性はあまり感じなかった。それが、「すずめの戸締まり」では大きく違っている。特に、すずめの最後の場面でのセリフは、メッセージ以外に解釈することがまったく不可能なほどはっきりとしたものだ。

2つ目は、「作品自体の立ち位置」にある。新海監督の思惑は別として、前2作はあくまでエンタメとして、<物語>を十分に楽しんでもらえればいい、という立ち位置だったように思う。リーマンショックが起きた2008年以降、東日本大震災(2011年)、コロナ禍(2020年)、ウクライナ戦争(2022年)と世界史的事件が続き、しかもその発生間隔はだんだん短くなっている。新海監督が災害をモチーフに多くの作品を送り出してきたのは、こうした内外情勢と決して無縁ではない。

しかし、前2作は視聴者に向けた強い形でのメッセージは発しなかった。世界史的大事件続きで自信を失い、疲弊し、危機管理がろくにできないまま<災後>を漂流し続けている日本社会に苛立ちながら、ともかくもペースを落として「伴走」するーー前2作はそういう立ち位置にあったと思う。

「すずめの戸締まり」では、その立ち位置がはっきり変わっている。日本社会との「伴走」から「1歩前に出る」に意識的に変えている。これはあくまで私個人の解釈に過ぎないが、だからといってまったく無根拠にそう解釈しているのでもない。この1点だけはネタバレをお許しいただきたいが、最後のシーンで、被災した幼き日のすずめに対し、現在のすずめが未来への希望を語っているところに私は「立ち位置」の変化を見たのである。

多くの世界史的事件がうち続く中で、日本社会、そして日本人はいつの頃からか<未来>に怯え、恐れるようになった。不確実な未来に賭けるくらいなら、甘美で、栄光の象徴だった過去にいつまでも耽溺していたいーーそんなメンタリティに日本社会全体が飲み込まれつつある。前述した世界史的事件ーーリーマンショック、東日本大震災、コロナ禍、ウクライナ戦争ーーはいずれも歴史的不可逆点(それ以前の世界に戻りたくても、二度と戻ることができない決定的分岐点、フェーズの転換点)である。そんな歴史的不可逆点を、世界はたった15年足らずの間に3度、それに東日本大震災が加わった日本社会に限っていえば、実に4度も経験しているのだ。

こんな極限状態が長期にわたって続き、メンタルの弱らない人のほうがどうかしている。だからこそ新海監督は前2作では無理に日本社会と日本人を<リード>しようなどという野心は持たず、物語作りに専念したのだと私は解釈している。しかし、ウクライナ戦争という新たな危機を迎えても、未来への想像力を持てず、むしろ、やれ五輪だ、万博だ、原発再稼働だと叫び、日本社会にとって「栄光だった昭和」に歴史を巻き戻そうとする動きがこのところ急激になっている。五輪も万博も原発も「栄光の時代」には必要だったのかもしれない。しかし原発は3.11で、五輪はコロナ禍での強行開催と汚職によって失敗がすでに露わになっている。<未来>がどんなに不確実でも、日本社会、いやそれ以前に人間自体、未来に向かってしか進むことができない。栄光の過去を参考にするのは、それが<未来>を切り拓く上で役立つ限りにおいてであって、<未来>に役立たないならば、どんなに栄光の過去であっても別れを告げ、不確実な<未来>をできる限りよいものにするために、ひたむきに進むしかないのだ。

同じくこの作品を見た「シロクマ」さんが、ブログ「シロクマの屑籠」11月24日付記事「生きるって本当はこういうことだ──『すずめの戸締り』雑感」で感想を述べている(ネタバレがあるので、それが嫌な方はリンク先へは飛ばないでほしい)。シロクマさんはこう書いている--

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 「生きるって本当はこういうことだ」を肯定的に描いてみせ、希望を示すこと、それが今作『すずめの戸締り』〔原文ママ〕の通奏低音で、前作『天気の子』ではあまり聞こえてこず、前々作『君の名は』でもそんなに強く聞こえてこなかったものだった。私は、ここが本作のいちばん濃いエッセンス、主題に限りなく近いものだと想像する。
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この解釈に、私はほぼ全面的に同意する。すずめは、次々と立ちはだかる困難に対し、恐れず果敢に立ち向かうひたむきなヒロインとして徹頭徹尾、描かれている。時には巨大な困難に、全身全霊を込めて体当たりしてでも、目標に向かって突き進む。そして、ラストシーンですずめに未来への希望を語らせる。新海監督は、ついに日本社会の「伴走者」であることをやめ、1歩前に出る決意をしたのだーー不確実な未来にいつまでも怯え、変化と挑戦を頑なに拒み、過去への回帰を目指そうとする日本社会に対し、前に出るよう促すために。何かにひたむきに挑戦し、または困難にひたむきに立ち向かう人々を無根拠にあざ笑う「日本人の心の中のひろゆき」と決別し、希望へと向かわせるために。

何かにひたむきになること。今の日本社会に必要とされながら、最も欠けているものだ。それを新海監督は今回、「すずめ」というヒロインの生き様を通じ、見事に描ききった。私がすずめに、割と素直に感情移入できたのは、3.11以降の12年近い年月を、少なくともひたむきに、すずめのように生きてきたからだと思う。原子力のない未来に想像力を働かせ、少しでも原子力の復活、延命を狙うすべてのものと、文字通り体当たりで闘ってきた。どんなに時代が変わっても、許せないものは許せないという、ただその1点を胸に秘めて。

甘美で栄光に満ちていた過去には、どんなに望んでも決して戻れない。未来がどんなに不確実でも、人間はそこに向かうしかない。どんなに巨大な困難でも、体当たりでしか未来は開けない。こんな当たり前のことを、「すずめ」の生き様を通じて改めて示さなければならないほど、日本の衰退は深刻さを増している。政治、経済、社会、文化ーー衰退はあらゆる領域に及んでいるが、特に最も深刻なのは日本の「人心荒廃」である。このどん底の絶望から、日本が再びはい上がれるかどうかは、どれだけ多くの日本人が「すずめ」になれるかにかかっている。

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怒濤の10~11月が過ぎ……Yahoo Japanに別れを告げる

2022-12-02 22:02:38 | IT・PC・インターネット
当ブログ管理人にとって、怒濤の10~11月が過ぎ、師走を迎えた。

10月は、鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷを使った3泊4日の旅行をした。11月は、3日に札幌学院大学で開催された日本科学者会議北海道支部主催「2022年北海道科学シンポジウム~北海道の地域振興の道は? -JR問題と原発問題から考える-」での発表に続き、20日は原発汚染水問題、27日には沖縄基地問題に関する集会を2週連続で主催者として開催しなければならず、超多忙だった。

昨年の秋は、当ブログ2021年10月4日付記事「2021年、別れと決意の秋のようで……」でお伝えしたとおり、長年の付き合いだが惰性になりつつあったみずほ銀行の使用をやめ、北海道新聞の購読を打ち切るなど、思い切った「断捨離」を行った。

その別れと決意の秋の続編ではないが、今年、2022年秋も、長年の付き合いだったものの中で「切る」決断をしたものがある。Yahoo Japanとの付き合いであり、当ブログ管理人は、2004年以来、18年間にわたって続けてきたYahoo Japanの使用をやめる決心を固めたのである。

原因となったのは、ヤフーニュースのコメント欄である。もともと「品性下劣、無教養ニッポン」の象徴的存在だったが、「元」秋篠宮妃眞子さんに対する激しいバッシングは、天皇制廃止論者である当ブログ管理人ですら見ると吐き気を催すレベルだった。その後、眞子さんがPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症したことを考えると、相手が一般人であれば傷害罪での立件を視野に入れた当局の捜査が行われてもおかしくないほどのレベルである。

数年前に起きた木村花さん自殺事件などを契機に、野放図なバッシングコメントに対する社会的包囲網が強められる中、インターネット全般の傾向として、コメントを野放しにしていたサイトが次々と統制に動く流れができた。ブログサイト「BLOGOS」が数年前からコメント欄を登録制とした後、サイト自体も今年5月末限りで廃止されたのもそうした動きの一環であろう。

民主主義を何より重んじる当ブログ管理人にとって、こうした動きは言論の自由に対する規制であり、本来なら憂慮すべきことだが、言論の自由と差別・ヘイト・フェイク・バッシングの自由をはき違えている連中がここまで多いと、一定の規制は受け入れざるを得ない。

こうして、またひとつ言論が規制されていく。ファシストでも宗教原理主義者でもなく、「無関心」と「バカ」こそが民主主義の真の敵であることをつくづく実感させられる。

このような状況にあっても、ヤフーニュースのコメント欄だけは、相も変わらず「やってる感」を出すだけの実効性のない対策ばかり。「批判コメントが殺到して一定数を超えた場合に、アルゴリズムによってコメント欄を自動的に非表示にする」などそれがどうしたというのか。この11月から始まったYahooアカウントと所有者の携帯電話番号を紐付けする対策にしても、やらないよりはマシであるものの、複数の携帯電話を持っている人や、格安SIMを頻繁に乗り換えている人に対しては効果がないことが明らかだ。Yahoo Japanは、一体いつまでこのような無意味で小手先だけの「対策」を続けるつもりなのか。

多くの日本人にはあまり知られていないが、Yahoo Japanのサイトは、今年4月6日以降、EU(欧州連合)及びイギリスからの閲覧ができなくなっている。

参考:重要なお知らせ 2022年4月6日 (水)よりYahoo! JAPANは欧州経済領域(EEA)およびイギリスからご利用いただけなくなります(Yahooによる告知)

参考記事:Yahoo! JAPAN、欧州からの接続遮断へ 「法令順守の対応コスト面からサービス継続不能」(ITmediaニュース)
ヤフージャパン、欧州から利用不可に「サービス提供が難しいと判断」(朝日)

Yahoo Japanは、閲覧ができなくなるという告知だけで理由を明らかにせず、ITmediaニュースの取材に対しても「法令順守のための対応コストの観点で継続不能と判断した。具体的な関連法令などは回答できない」と極めて不誠実な回答しかしていないが、2018年に制定されたEUの一般データ保護規則が求める基準を満たせないためではないかというのがこの問題に詳しい識者の見解だ。一般データ保護規則が求める基準に合わせてサイトを改造することは技術的に不可能ではないものの、コストに見合わないと判断したことがITmediaニュースの取材に対する回答から透けて見える。平たく言えばYahoo Japanは「コンプライアンスよりカネ」「バッシングを苦に自殺する人の命より自社の利益」を優先するクソ会社ということだ。

こうして、Yahoo Japanの利益優先、人命・法令無視、差別・ヘイト・フェイク・バッシング放置の姿勢に対する怒りが積もり積もっていたところに決定的な事件が起きた。当ブログ管理人自身が無意味で理不尽なヤフコメ民によるバッシングを受けたのである。

今年はまだ6月だというのに、一部地域で40度近い異常な高温に見舞われる地域が続出した。電力需要が毎年、少なくなるこの時期に合わせて発電所の定期点検を行う電力会社が多いこともあって、電力不足も起きた。気象庁が多くの地域で6月中の梅雨明けを速報値として発表。梅雨明けは沖縄を除けば、通常最も早い九州南部でも7月下旬なので、1か月近くも早い「梅雨明け(速報値)」発表となった。

その後、7月~8月前半にかけ、一転してぐずついた天候が続いた。当ブログ管理人は、これだけ極端な天候だと梅雨明け時期の見直しもあり得ると思い、8月上旬、ヤフコメ欄にそのことを割と気軽に書き込んだ。梅雨明けは、まず速報値として発表され、実際の天候の推移を見て、必要なら確定値を公表する際に見直しを行うのが慣例だからである。

ところが、バッシングコメントが吹き荒れ始めた。「梅雨明け宣言に見直しなんてあるわけがない」「気象庁を批判したいだけのバカ」「そもそも立秋を過ぎているので、今降っているのは梅雨前線ではなく秋雨前線による雨。そんなことも知らないのか」など理不尽きわまる罵詈雑言だった。

品性下劣で無教養なヤフコメ民という名のバカどもに、当ブログ管理人が「上から目線」で偉そうに教えてやろう。そもそも梅雨前線、秋雨前線というのは「北からの湿った冷たい空気と、南からの温かい湿った空気のぶつかる場所が連続線となった場合に発生する」という点で同じものであり、気象学上はどちらも「停滞前線」が正式名称である。それが春から夏にかけて発生すれば梅雨前線、秋に発生すれば秋雨前線という通称で報道が行われているに過ぎない。その程度のことも知らないバカどもが、一時は気象予報士試験の受験も本気で検討したことがある当ブログ管理人をバカ呼ばわりするなど、1兆年早いのだ。

2022年の早すぎる梅雨明け宣言(速報値)にはやはり無理があったようで、実際に「見直し」が発表された(参考記事:関東などの梅雨明けが1か月遅く修正 気象庁が過去にない大幅見直し/ウェザーニュース)。いくら今年が極端な天候だったとはいえ、特に北陸・東北南部に関しては6月中の梅雨明けから梅雨明け時期を「特定できない」へ、前代未聞の大幅な見直しである。ここまでの大外れは過去の記憶になく、本来なら気象庁の担当責任者が引責辞任しなければならないほどの大失態である。



そして、正しいことを書き込んだ当ブログ管理人を無根拠にバカ呼ばわりし、罵倒してきたヤフコメ民という名のクソ野郎どもは、本名を堂々と名乗って連絡してくるなら、言い訳をいつでも聞いてやる。

この事件を通じて、当ブログ管理人はメンタルが悪化し、もはやYahoo Japanとの縁を切る以外にないと判断した。Yahoo Japanのトップページを誤って開いてしまうことがないよう、見たくないサイトをブロックしてくれるプラグイン“BLockSite”を、愛用しているGoogle Chromeに追加。Yahoo Japanをブロック対象に指定することで強制的に見られなくする措置を講じた。夏以降、検索はgoogle(これはこれで問題だらけだが)、ニュースサイトはgooニュースを利用している。Yahoo Japanをやめた結果、メンタルも安定した。

Yahooメールも、上記のような理由からいずれは縁を切るつもりでいたが、梅雨明け宣言問題をめぐるバッシングで、身体が反射的に動き、気づいたらブロック対象に指定していた。もう耐えられなかった。

今回の怒りは本物で、こういうときは徹底的にやるのが当ブログ管理人の流儀である。過去に何度か言及しているが、当ブログ管理人はマルクス主義活動家であり、いわゆる一般人とは違う。当ブログが目指す社会変革にとって敵とみなした者は容赦なく打倒する。Yahoo Japanはすでに「敵性サイト」として当ブログの打倒対象に指定している。コメント欄閉鎖に向け何らかの法的措置が執れないか、近く知り合いの弁護士との協議に入る予定だ。

反射的にYahooメールをやめてしまったため、次にどこのメールサービスに乗り換えるかはまったく考えていなかった。いろいろと比較検討した結果、とりあえず、当ブログを運用しているgooの有料メールサービスを利用することにした。gooも以前は無料メールサービスがあったが、もう何年も前に終了している。だが、NTTのグループ企業であるNTTレゾナント社が運営しているというだけでも、少なくともクソ会社Yahoo Japanよりは信頼できる。

なお、せっかくgooの有料メールサービスに乗り変えるのなら……と、この際、ブログもメールとセットで有料サービスに切り替えた。有料にすれば広告がなくなるとの案内だったのに、有料化から1ヶ月以上経った現在も掲載され続けているなど、よくわからない点もある。読者のみなさんの目に見えるような変化があったかどうかわからないが、写真データの容量が大幅に増え、簡単なアクセス解析も可能になるなど、使いやすくなったことは事実である。

同時に、これを機会に「当ブログのご案内」(パソコン版のみ表示。スマホ版、タブレット版では表示されない)に掲載していた当ブログの紹介文を一部変更した。『当サイトは列車の旅と温泉をメインに鉄道・旅行を楽しみ、また社会を考えるサイトです』の直後に記載していた『生きているだけで苦しいこの社会をともに考え、変えていきましょう』の表現を削り、代わりに『「あなたがすることのほとんどは無意味でも、あなたはそれをしなくてはなりません。それは世界を変えるためではなく、あなたが世界によって変えられないようにするためです」(マハトマ・ガンジーの言葉)を活動上の支えにしています』に書き換えた。

これは当ブログ管理人の心境の変化によるものである。昨年11月、札幌唯物論研究会会長から「社会の上部構造を規定しているのは人々の生活様式、生産様式という下部構造であり、それはそんな簡単に変わるものではない」というありがたいお言葉を頂戴したことは、今年5月25日付当ブログ記事ですでに述べた。それ以降、「社会を変えたい」などというのは単なる自分自身の思い上がりに過ぎないのではないかと自問自答するようになった。今の私は、活動することで社会が変わるなどとはすでに思っていない。ここに自分という人間がいて、後世の人々が見ても恥ずかしくない、誇れる人生を過ごしたという証を残すことが自分が活動を続けるほとんど唯一の動機になりつつある。その瞬間、ずいぶん弱気だな、と思って若い頃は相手にもしていなかったガンジーのこの言葉の意味が、理解できるようになったのである。

今はそれしかできないし、それ以上を望む必要もないと思っている。これだけ頑張っても日本が沈む一方で浮上もできないとしたら、申し訳ないが最初から日本はしょせんその程度の国に過ぎなかったのだ。

そういうわけで、当ブログに対しては、今後ともご鞭撻をよろしくお願いしたい。

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