人生チャレンジ20000km~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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独裁者のいない朝~安倍首相辞任表明を聞いて

2020-08-29 23:39:55 | その他社会・時事
 圧政の長いトンネルを抜けると、そこは曇り空であった。
 長く暗く重い、7年8ヶ月。終わりの見えないトンネルに、突然の終わりが訪れた。

 「どんなに長い夜でも明けない夜はない」

 この7年8ヶ月、ただこの思いだけを胸に、歯を食いしばって耐えてきた。

 7年8ヶ月ぶりに訪れた独裁者のいない朝が、こんなにすがすがしいと思わなかった。空気がおいしい。水がおいしい。茶色の朝が、7年8ヶ月ぶりにカラー映像になって見える。28日夜は連れ合いとお祝いをした。

 1986年、マルコス独裁政権を倒したフィリピン市民の気持ちがわかる気がする。まさか、こんな途上国並みの気持ちを、仮にも10年前まで世界第2の経済大国と言われてきた日本で味わうことになるとは思っていなかった。

 「安倍長期独裁政権がついに倒れた日本では、政権側が出した外出自粛、集会禁止の命令を無視して市民が街頭に繰り出し、独裁から解放された喜びを表現しています」

 こんな風に報道しているメディアが世界のどこかにあるのではないかという気がする。かつて、遠く離れた自分たちと関係のない国で、ドラマのように独裁者が倒れ、追放される歴史的事件を日本のメディアが伝えてきたように。

 「あの嫌な夫婦のいないクリスマスはすばらしい」

 1989年、ルーマニアでチャウシェスク独裁体制が崩壊したとき、街に繰り出したブカレスト市民のひとりがこう言ったのを今も私は忘れない。今、私も全く同じ思いだ。「あの嫌な私物化夫婦のいない8月はすばらしい」と心から叫びたいと思う。確かに安倍首相は病気再発で辞任表明した。だが、黒川検事長の定年延長阻止以降、嵐のように燃え広がった市民の闘いがなければ、安倍首相が病気を再発させることもなかっただろう。その意味で、これは確かに市民による安倍打倒なのだ。そのことが持つ大きな政治的意味は、いくら強調してもしすぎることはない。

 最後の記者会見で、安倍首相は在任中の改憲ができなかった悔しさからか、目にうっすらと涙を浮かべていた。それを見た瞬間、「日本の市民はついに勝ったのだ」という実感がこみ上げてきた。この7年8ヶ月、右翼・改憲勢力の総力を挙げた波状攻撃に次ぐ波状攻撃の嵐を耐え抜き、二度と自分たちの政府に侵略戦争をさせないと誓ったこの宝物を守り抜いたのだ! 本当に日本の市民はよく頑張ったと思う。今はただ、その長きにわたる不屈の意志と闘いを私はたたえたい。

 安倍「信者」たちは、改憲が実現しなかったことがよほど悔しいのか、「病気で辞める人間に鞭打つな」と騒いでいるが、寝言は寝て言えと言いたい。そう言う「信者」たちこそ外国人や障がい者や女性には、情け容赦なく鞭打ち、徹底的にいじめ抜いてきたではないか。彼らのような品性下劣な「信者」が内部から安倍政権を食い倒したのだ。

 日本の市民の多くが、後ろからついてきていると思っていた韓国、台湾がとうの昔に日本を追い抜き、今、日本からはその背中も見えなくなりつつある。コロナ禍を通じて浮かび上がったのはそんな厳しい現実だ。中国も今や日本を大きく上回る経済力を持つに至った。東アジアの中で、後ろを振り向けば、そこにいるのは朝鮮民主主義人民共和国だけーー安倍独裁政権7年8ヶ月が残した確かな「成果」である。

 「私たちが手にしたいのは本当の民主主義です。共産党の“衣”だけを変えても何にもなりません」「汚れのない人たちで指導部を作るには時間が必要です。しかしこういう人たちが真の民主主義を作るのです」。1989年、別のブカレスト市民はこう話している。市民、弱者の話に耳を貸さず、一般党員を投票から閉め出して密室で後継総裁を決めようと策動している「不自由非民主党」の“衣”だけを変えても何にもならない。汚れのない人たちで、今までとは全く違う新しい勢力を作らなければ、また別の長いトンネルが私たちを待つだろう。

 今の日本を見ていると、このまま曇り空が晴れるかどうかははなはだ心許ないと思う。だが私の今の気持ちは晴れ晴れとしている。1~2日くらいは勝利の美酒に酔ってもいいし、疲れているなら休んでもいいと思う。疲れが取れたらまた歩き出そう。7年8ヶ月ぶりに取り戻したこの解放感を、権力者に渡してしまわないように。

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【管理人よりお知らせ】ブログ名変更等について

2020-08-27 21:22:02 | 運営方針・お知らせ
管理人よりお知らせです。

1.当ブログの名称を「人生チャレンジ20000km」から「安全問題研究会」に再び変更しました。

当ブログは、今年3月から「安全問題研究会」の名称を開設当時の「人生チャレンジ20000km」に戻して運営してきましたが、色々と検討した結果、再び「安全問題研究会」に変更することにしました。

開設当時の名称への「先祖返り」は当分の間に限った一時的なもので、いずれ「安全問題研究会」に再度変更の予定でした。開設当時の名称に先祖返りさせた理由は、3月1日付け記事での説明の通りです。「今年は昨年までと異なり、公共交通と原子力問題に絞らず、もっと幅広く思いを吐露するブログとして運営したい」「2020年代に入り、はっきり時代の転換点に来たという思いがあり、公共交通と原子力問題にこだわっていては時代の小さな変化の兆候を見落としてしまう」ことから「ここしばらくは、安全問題研究会としての立場にこだわらず、気楽に書いてみたい」と考えたからです。

にもかかわらず、ブログ名を再度「安全問題研究会」に戻す決意をしたのは、時代認識が変わったからです。コロナ禍でもっと時代が急速に転換すると当ブログ管理人は若干、希望的に見ていましたが、その予測は残念ながら外れつつあります。時代は急激に変わりそうにないどころか、これまでの勝者を更なる勝利に、これまでの敗者を更なる敗北に導くような悪い方向への変化のほうが顕著になり始めています。コロナを通じた時代変化に対し、まったく希望が持てなくなりました。

一方、JR日高本線の廃線が公然と議論され、また寿都町で放射性廃棄物最終処分場計画が急浮上するなど、当ブログ管理人をこれまで取り組んできた公共交通や原発問題という「日常の戦線」に引き戻そうという動きが強まってきています。私自身は新しい課題に取り組みたくても、周囲がなかなかそうさせてくれない現状もあります。肝心の新型コロナに関しても、ここしばらくは大きな動きはないでしょう。人類とウィルスとの一進一退の攻防が、あと数年続くと思います。

緊急事態宣言が解除されて2か月半を過ぎ、当ブログ的にはコロナ禍に伴う非常事態から通常モードに復帰したとの認識です。わずか半年でのブログ名称の再変更は早すぎるような気がしますが、時代はコロナによっても、少なくとも当ブログ管理人が願う方向には変化しないと判断し、通常モードに完全に戻すことにしました。

なお、明日(8月28日)午後5時から安倍首相の記者会見が予定されています。健康不安説が取り沙汰され、反安倍派からは退陣への予測も出ていますが、当ブログ管理人は明日の辞任表明はないと判断しています(この程度のことで辞任するなら、今まで10回くらい辞めていると思います。安倍首相の権力への異常なまでの執着、そして安倍首相の本当の怖さを、当ブログは反安倍派だからこそ「安倍信者」などよりよく知っています)。こうしたことも、ブログ名を通常モードに戻そうと決めた理由のひとつです。

2.ブログ「ベラルーシの部屋」をブックマークに追加しました。

先日行われた大統領選挙の後、ベラルーシ共和国(旧ソ連「白ロシア共和国」)では不正選挙が行われたとしてデモや抗議行動が起きています。旧ソ連を構成する共和国のひとつとして、一党独裁の社会主義体制が続いた後、ソ連崩壊後は欧州最後の独裁者といわれてきたルカシェンコ大統領による強権政治に変わったベラルーシでは、もとより公正な選挙は望むべくもありません。選挙のたびに反政府勢力が不正を訴えるのは「お家芸」のベラルーシですが、最近政府への不満が強まっている背景として、原発を導入したことも指摘する必要があります(参考記事:チェルノブイリ事故で被ばく ベラルーシが原発導入 来月初稼働 現地で戸惑いも(「東京新聞」7月29日付))。日本のメディアで報じているのはリンク先の東京新聞くらいですが、チェルノブイリ事故で最も深刻な被害を受けたベラルーシで、原発導入という愚かで最悪の政治判断が行われたことは、間違いなく反政府運動の「最後の引き金」を引いたと思います。

ベラルーシを含む旧ソ連地域について、日本のメディア報道に多くを望むことは困難と思います。そもそもこの地域の事情に明るい記者が日本メディアにほとんどいないからです。2014年、ソチ冬季五輪直前に、ウクライナで親ロシア勢力が武装蜂起した際も、クリミア半島の奪取を狙うロシアが背後から反政府勢力をけしかけ騒動を起こしているという情勢判断をきちんとした上で報道につなげるメディアはありませんでした。

クリミア半島は有名な保養地として、旧ソ連時代は政府や党幹部の休暇中の滞在場所に使われましたが、ソ連崩壊でウクライナ領となっていました。クリミア半島は天然資源に恵まれているわけでもなく、豊かな土地でもありませんが、それでもソ連時代に政府・党幹部が保養地としていたのはここが戦略上極めて重要な場所にあるからです。プーチン政権はクリミアの奪還を長年、虎視眈々と狙っていました。そういう歴史をきちんと知り、報道につなげられる記者が日本メディアにほとんどいないのです。

しかし、福島で原発事故を経験した当ブログ管理人にとって、ベラルーシやウクライナは同じ境遇を持つ「遠くて近い国」です。反原発運動にかかわっている人の中には、これらの国の行く末を本気で心配している方も少なくありません。そこで、ベラルーシの首都ミンスクに1995年から在住し、現地の「日本文化情報センター」代表を務める傍ら、日本人向けに日本語でベラルーシの情報を発信してきた辰巳雅子さんのブログ「ベラルーシの部屋」を、当分の間の措置としてブックマークに追加することにしました。さすがに現地からの直接発信とあって、情報は早く正確です。

パソコンから当ブログにアクセスされた方は、左フレーム内のブックマークから飛ぶことができます。タブレット端末やスマホでご覧の方はブックマークは表示されないため、必要に応じて「ベラルーシの部屋」をブラウザのブックマークに登録してください。年内いっぱいくらいはブックマークに置いておこうと思います。

なお、当ブログ管理人は原発事故翌年の2012年秋、福島県内の放射能汚染状況を調査するため来日した辰巳雅子さんと一度だけお会いしています。会話を交わすほどの時間はなく、挨拶だけで終わりましたが、当時の状況についてブログで次のように報告しています。

『日本人の私は今までやっぱり甘いことを夢見ていました。ついつい「チェルノブイリより福島のほうがましだろう。ましであってほしい・・・」と心の中で願っていたのです。しかし福島へ行ってきて、現実が見えた気がしました。日本はとても危険な状態です。被曝対策を真剣にしないといけません』(「ベラルーシの部屋」2012年10月23日付け記事「日本からベラルーシへ戻ってきました」より)

当ブログの認識は今も当時と変わっていません。開沼某などの「安全派」は「福島が危険だと騒いでいる人たちは認識が事故直後のままで止まっているだけだ」などと宣伝していますが、放射性物質の中には半減期が何十年という物質もあります。国も県もまともな除染すらしていないのに、わずか10年程度の時間の経過で状況が好転するような性質のものではありません。間違っているのは彼らのほうであり、開沼博、林智裕、服部美咲らの一派は根拠のない宣伝をやめるべきです。

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日航機墜落事故から35年目の夏 真相究明求め市民団体発足 事故調報告と外務省公文書が示唆する驚きの事故原因とは?

2020-08-25 19:51:42 | 鉄道・公共交通/安全問題
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2020年9月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。なお、管理人の判断で「航空問題・空の安全」カテゴリでの掲載としました。)

 ●事故原因再調査求め、市民団体発足

 1985年、日本航空123便が群馬県御巣鷹山中に墜落、単独機としては史上最悪の520名が死亡した事故から8月12日で35年を迎えた。折からのコロナ禍に加え、昨年の台風被害で事故現場に向かう登山道の一部が崩れたこともあって、今年は例年以上に慰霊登山を控える人が少なくなかった。

 だが、35周年の節目の今年、事故原因追及、真相究明という意味では大きな動きがあった。地元・群馬県の地方紙「上毛新聞」が7月28日付けで次のように伝えている。

 『8月12日で35年となる日航ジャンボ機墜落事故を巡り、遺族や関係者らが国や日航に情報開示などを求めるために任意団体を立ち上げた。事故調査委員会(当時)がマイクロフィルムで保存した事故調査資料や墜落機のボイスレコーダー(音声記録装置)、フライトレコーダー(飛行記録装置)の生データの遺族への開示を要求するほか、相模湾に沈んだままになっている機体の一部残骸の引き揚げと再調査を訴える』

 事故で夫を亡くした吉備素子さん(大阪府在住)が会長を務め、「日航123便 墜落の新事実」(2017年)や「日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす」(2020年7月新刊)などの著書があり、奇跡的に救出された4人の乗客のひとりで元日航アシスタントパーサ落合由美さんの同僚でもあった青山透子さんが事務局を務める。

 『調査資料開示を巡っては、国や日航が遺族による情報公開請求に応じず、一部遺族の不信感につながっている。世界の航空・船舶事故では数十年たってから新事実が判明する例もあるとされ、吉備会長は「35年たった今だからこそ、事故直後には難しかった情報の開示や(相模湾からの)残骸引き揚げを実現して、真相を明らかにしてほしい」と話した』

 上毛新聞記事はこのように続けている。事故機、123便に最初の異常が起きたのは1985年8月12日午後6時24分35秒ごろ。「ドーン」という衝突音のような異常音の発生だった。このとき、同機は相模湾上空を飛行中で、崩壊した垂直尾翼の大半が相模湾内に沈んでいることが明らかであるにもかかわらず、政府はこの間何回、いや何十回も行われてきた垂直尾翼引き揚げの要求を頑なに拒み続けてきた。この政府の頑なな姿勢の裏に「何かある」と感じる市民も多く、航空機事故調査委員会(現在の運輸安全委員会の前身)が公表した「後部圧力隔壁崩壊説」への疑問を持つ人も今なお少なくないのが現状だ。

 ●当研究会も疑問 矛盾だらけの「圧力隔壁崩壊」

 当研究会も、圧力隔壁崩壊説には大きな疑問を持ってきた。今から6年前、2014年の8月に「レイバーネット日本」に発表した論考を、かなり長くなるが再掲しておこう。

〔「レイバーネット日本」に筆者が2014年に公表した「日航機事故から29年~フジテレビ特番を見て やはり解明されなかった「疑惑」」より〕

 ミサイル撃墜説、自衛隊「無人標的機」衝突説を初めとして、この間、ありとあらゆる言説が流されてきた。この事故のことを卒業論文のテーマにしようと考えた学生が教授に相談したところ「君の命が危ない。悪いことは言わないからやめなさい」と言われた、またある大物政治家が「私が首相になったらすべての真相を明らかにする」と漏らし、そのために政権中枢から遠ざけられた、など事故から数年は事実とも嘘ともつかない風説も乱れ飛んだ。だが、そのどれもが決定的な証拠を欠いたまま、事故原因に納得できない人たちが独自の真相究明を今なお続けようとしているのが、この事故の特異なところなのだ。

 日航乗員組合の組合員で、同社の航空機関士(当時)だった芹沢直史氏は、事故の真相究明に取り組んでいたジャーナリスト角田四郎氏に対しこのように答えている。「過去、日航では自社機事故の後、返還されたボイスレコーダーは必ず乗務員に公開され、その一部は訓練に供されています」「通常なら〔事故原因の〕調査中にボイスレコーダーを聴かされ解読する手伝いをすることさえあったのに、今回は一切ノータッチです。組合からも再三、公開を要求してきましたが、今だ応じていません」。

 1985年午後6時24分35秒頃に「ドーン、ドーン」という異常音が響き、警報が鳴動を始めた直後、ボイスレコーダーに記録された高浜正巳機長の声がどのように聞こえるか。事故調が発表したこの部分の筆記録は、1985年8月27日の第1次中間報告では「何かわかったの」だったのが、翌86年6月3日の「聴聞会報告」では「なんか・・・・」になり、87年6月の最終報告では「なんか爆発したぞ」になるなど二転三転している。

 事故調が航空工学の「専門家」を揃えながらこの程度の解析もできないという事実に驚かされた。後に、「なんか爆発したぞ」との筆記録の記載に対し、疑問の声が上がり始めた。この時点では、123便はまだ「スコーク77」(いわゆる非常事態)も宣言しておらず、この時点で「ドーン」音がなぜ「爆発」とわかるのか、というもっともな疑問だった。2005年に放送されたTBS「ボイスレコーダー~残された声の記録」による生音声の放送で、この部分が「なんかわかったの」であることがはっきりした。インターネット上に流出した生音声を拾って私は何度も聴き直したが、「なんか爆発したぞ」に聞こえたことは一度もない。

850812JAL123便ボイスレコーダー


 事故直後、事故調委員の間で、また「圧力隔壁崩壊説」に批判的な有識者の間で最も鋭い論点になったのがこの部分の聞こえ方だった。「初めに爆発が起こって圧力隔壁が壊れ、続いて垂直尾翼が崩壊。与圧がなくなって急減圧が起きた」という事故調の描いたストーリー通りであるためには、この部分はどうしても「爆発したぞ」でなければならなかった。だが実際には何度聴き直しても高浜機長の声は「なんかわかったの」にしか聞こえなかった。だからこそ、ボイスレコーダーは隠されなければならなかったのだ。

 圧力隔壁崩壊説が間違っていることを、私は、これまでに接したいくつもの証拠を挙げて証明することができる。そのひとつが下の写真だ。遺族の小川領一さんが公表したもので、撮影は事故で亡くなった父の哲さん(当時41歳)。この写真を掲載している「御巣鷹の謎を追う」(米田憲司著、宝島社、2005年)では領一さんによる写真の公表日時を「85年10月13日」としているのに対し、ジャーナリスト角田四郎氏の著書「疑惑 JAL123便墜落事故 このままでは520柱は瞑れない」(早稲田出版、1993年)では「事故の5年後に公表」としているなど、情報に混乱も見られるが、そのこと自体は写真の信頼性に傷をつけるものではないから、ご紹介する。



 この写真で注目すべき点は、なんといっても酸素マスクを着用していない乗客がいることだ。この日の123便は満席で、キャンセル待ちも回って来ず、搭乗をあきらめた人も多かったから、使われていない酸素マスクの座席に「主」がいなかったわけではない。

 この写真が撮影された時間、123便は少なくとも高度6000メートル以上を飛行していた。123便の高度変化は下の図の通りである(事故調発表のデータを基にしており、これも「御巣鷹の謎を追う」に掲載されている)。

 上空で、大気が存在するのは高度約10000メートルまでといわれる。私たちが生活している地上の気圧は、気象条件によっても変化するが概ね1000hPa(ヘクトパスカル)程度。高度1000メートル上るごとに気圧は約100hPaずつ減少するから、高度6000メートルより上を飛行しているこのときの123便の機外の気圧は約350~400hPa程度だ。富士山頂の約半分程度の気圧しかないことになる。こんな状態で、事故調報告通りに圧力隔壁が崩壊、垂直尾翼が機体から離脱して機体後部に大穴が開き、機内と機外の気圧が同じになるほどの急減圧が起きれば、まず酸素マスクなしで意識を保つことは無理だ。それなのに、123便の機内では乗務員はもとより一般乗客の中にさえ、酸素マスクを使用していない人が多くいるのがわかる(丸を付けたのが使われていない酸素マスク)。どうみても急減圧が起きている機内には見えない。

 さらに、これほどの高度を飛行しているにもかかわらず、操縦席では機長、副操縦士、航空機関士のだれも酸素マスクをしていないし、急減圧発生の際は直ちに「デコンプレッション(急減圧)!」と乗務員が称呼しなければならないとされているにもかかわらず、ボイスレコーダーの生音声にはそのような声はなかった。 

 圧力隔壁説が正しいとした場合に、機内で乗員乗客が酸素マスクをつけなくてよいほどの状況と整合性をとれる説明をするためには、少なくとも123便が発表よりかなり低高度を飛行していなければならない。たとえば、高度が3000メートル程度であれば圧力隔壁が壊れ、機体に大穴が開いたとしても、急減圧は起こらずに済むであろうから、矛盾なく圧力隔壁説を事故原因とできるであろう。ただし、今度は事故調が発表している高度図がおかしいという話になり、やはり事故調報告は全く信用できなくなる。


123便の高度図(事故調報告から)


 私は、123便がこうした低高度を飛行していた可能性はほぼなかったと思っている。第一、発表された航路図によれば、123便は富士山のすぐ近くを飛行しており、これほどの低高度を飛行していたら、御巣鷹の尾根に到達する前にどこか他の山に激突していたであろう。そもそも低高度ほど気圧が大きいから空気抵抗も大きい。垂直尾翼を失い、油圧による操舵機能も失われていた123便がそのような大きな気圧に抗しながら飛行するのは困難を極めたはずである。操縦不能に陥りながら、墜落まで123便が30分以上も飛行を続けることができたのは、空気抵抗の少ない高高度だったからだと考えるのが自然である。それでは、急減圧は…? やはり「なかった」と判断せざるを得ない。

 事故調が圧力隔壁説にこだわるのは、事故を起こした機体番号JA8119号機がこの7年前、大阪空港で起こした「しりもち事故」と関連づけたかったからだろう。事故がボーイング社の設計ミスによるものとなれば、日米航空業界の威信に傷がつく。JA8119号機特有の問題であり、ボーイング社の設計ミスでないとなれば、日米航空業界を打撃から守ることができる。不可解な事故調の姿勢、そして「起きていた事実からは全く導き出すことができない」矛盾だらけの圧力隔壁説に対する事故調の異常なこだわりの背景に、やはりこうした「政治決着」の臭いを感じざるを得ないのである。

〔引用終了〕

 ●青山さんの渾身取材が明らかにした事故現場での「ガソリン、タール臭」「事故ではなく事件」外務省公文書、そして「異常外力着力点」とは?

 青山さんは、元同僚の落合由美さんを瀕死の重傷に追い込んだ事故の真の原因を探りたいとの思いからこの間、取材を継続してきた。当研究会も資料収集・整理や「ボイスレコーダー~残された声の記録」で断片的に放送されたボイスレコーダーの内容分析、御巣鷹山の慰霊登山などに取り組んできたが、真相究明をしたいとの思いとともに、真相に近づくことに対する恐怖感もこの間ずっと持ち続けていた。取材を続ければ続けるほど「この事故の真相を追求すれば、いずれ日米軍産複合体との直接対決という運命が筆者を待ち受けている」との確信が強まったからだ。

 123便は、墜落後御巣鷹山中で一晩中燃え続け、翌13日早朝になってから発見されるが、その間、事故現場が長野県側だというデマ情報を一晩中流し続けたのがNHKと防衛庁だったことはすでに知られている。そもそも、航空機の燃料にはケロシンという軽油に似た物質が使われており、引火点はガソリンよりはるかに高く燃えにくい。また航空機の運航にあたって、短距離便なのに必要以上の燃料を積めば燃費が悪くなる一方、ぎりぎりの燃料しか積まなければ気象条件などで航路を変える際に燃料不足の懸念が生じる。経費節減と安全運航のバランスを考慮し、多くの航空便は実際に必要とされる量の2倍程度の燃料を積むとされる。東京~大阪という短距離を飛ぶ予定だった123便がそれほど多くの燃料を積む必要もなく、事故機が一晩中燃え続けたことに対しては多くの専門家から「あの燃料量でそんなに長く燃え続けるわけがない」との疑問の声が事故当時からあった。加えて、遺体の検視に当たった医師からも「過去の航空機事故でこれほどの黒焦げの遺体を見たことがない」と疑問の声が上がっていたのである。

 ケロシンは軽油に似た燃料なので、軽油や灯油に近い臭いがする。燃料成分の比率が高く、重油に近い性質を持つガソリンと軽油、灯油の臭いがはっきり別物であることは、専門家でない一般の人でもわかるだろう。ところが当時、救助活動にあたった人々の中から現場で「ガソリンのような臭いがした」との多くの証言もあるのだ。

 青山さんの著書「日航123便 墜落の新事実」では、123便事故や御巣鷹山の固有名詞に一切触れず、元軍人や軍事評論家に対し、ガソリンやタールのような臭いがするゲル状の物質としてはどんなものがあるか、と問うている。「火炎放射器の燃料」との回答でほぼすべての取材対象者が一致したと青山さんは記している。異常事態発生後、操縦不能となり迷走飛行を続ける123便の腹部に「オレンジ色の物体」が刺さっていたことや、墜落現場に近い上野村の児童生徒の多くが「123便を追いかけるように2機のファントムが飛んでいた」と証言していたことも紹介している。

 事故当時も現在も、日航機には垂直尾翼部分にあの有名な「ツルマルマーク」の赤色、「JAL」の会社名を示す黒文字が使われているほかは白一色で、オレンジ色の塗装が使われたことはない。このオレンジ色の物体が何かはずっと議論が続いてきたが、「圧力隔壁説否定派」の中で一貫して有力なのが自衛隊の無人標的機「チャカII」であるとの見解だ。当時、自衛隊への納入を直前に控え、受注元である石川島播磨重工で最終テスト中の自衛艦「まつゆき」が「チャカII」とそれを追尾するミサイルの発射実験をしていたとする証言もある。この「チャカII」を追尾ミサイルがまさに撃墜しようとする「交点」に123便が入り込み、撃たれた。それが世にいう「無人標的機衝突説」の要点である。

 青山さんの新刊「日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす」はこの説の検証を試みている。青山さんが外務省に情報公開請求を行った結果、発見されたのは驚くべき公文書だった。事故わずか2日後の1985年8月14日付けでレーガン米大統領から中曽根康弘首相(いずれも当時)に送られた文書に、外務省職員が「日航機墜落事件に関するレーガン大統領発中曽根首相あて見舞いの書簡」と手書きで記載している。外務省は事故でなく事件と認識していたのだ。

 これが単なる外務省職員の書き間違えやミスでないことは、1985年8月22日、事故10日後の別の書類でも同様に記載されていることでよりはっきりする。公文書の件名が「JAL墜落事件(レーガン大統領よりの見舞電に対する総理よりの謝電)」と記載されているのだ。

 外務省をはじめ官公庁では文書台帳と呼ばれるものがあり、文書番号、件名とともに処理経過が記載される。件名は台帳に最初に記載されるため、特に慎重な検討を経て決められる。上層部もこの件名とすることを承認していたことを示すものだ。

 運輸安全委員会に引き継がれている事故調文書の情報公開にも青山さんは取り組んでいるが、その中にも注目すべき資料があった。事故報告書の「別冊」に位置づけられる資料「航空事故調査報告書付録――JA8119に関する試験研究資料」だ。JA8119とは事故機123便の機体番号であり、自動車のナンバー同様、機体固有の番号として国交省で登録される。そこには1985年8月12日午後6時24分35.07秒に「異常外力」が発生したとの記載がある。それはまさに「ドーン」という異常音がボイスレコーダーに記録されているのと同じ時間だ。垂直尾翼のほぼ中央部、異常外力が発生した場所を「異常外力着力点」として図示までしている。この日、123便の垂直尾翼中央部、事故調が図示した「異常外力着力点」で何らかの異常外力が発生したことを、事故調報告の「別冊」が認めているのである。

 ●最も恐れていた「結論」

 「ああ、やっぱりそうだったのか……」

 「日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす」を読み終えたとき、筆者の首筋には冷や汗が出ていた。この嫌な冷や汗に最初に見舞われたのは、「疑惑 JAL123便墜落事故 このままでは520柱は瞑れない」(角田四郎著、早稲田出版、1993年)を読んだ時だった。おそらくこの事故、いや「事件」に関し、無人標的機衝突説を本格的に世に問うた初の著書だったと思う。そんなことはありえない、いやあってほしくないとの筆者の気持ちを打ち砕いたのが「疑惑」だった。

 事故原因について調査し真相に近づけば近づくほど、圧力隔壁説から遠ざかり、最もたどり着いてほしくない結論に近づいていくことの苦しさを筆者はずっと抱きながらこの30年以上を生きてきた。ボイスレコーダーに記録された「ドーン、ドーン」という2回の衝突音声の1回目はJAL123便に「チャカII」が衝突する音で、2回目は追尾してきたミサイルが「異常外力着力点」に衝突する音。この音とともに垂直尾翼は破壊され、油圧によるコントロールを失った123便は迷走飛行に入る。事態が事故ではなく「事件」であることをいち早く察知した自衛隊は直ちにファントム2機を差し向け、123便を追尾。目撃者のほぼいない御巣鷹の深い山中に123便が墜落するのを確認した(ミサイルを発射し撃墜した可能性も残る)。事故の真相を隠すため、救助隊が夜のうちに事故現場に入らないよう、12日は一晩中防衛庁みずから、またNHKを使って「事故現場は長野県側」との偽情報を流し続け、その間に現場に入った自衛隊員らが遺品や事故機の破片、遺体などあらゆるものを火炎放射器で焼き尽くし証拠隠滅を図った――。

 反軍備主義、平和主義の立場を守り、自衛隊に賛成でない筆者とて日本国民の一員である。「同じ日本国民によって構成される組織の一員として、災害救助などに出動し、顔の見える存在である自衛隊員たちがそんなことに手を染めるわけがない」「防衛庁・自衛隊という組織とは別に、個々の自衛隊員たちに疑いはかけたくない」という気持ちは常にこの間、どこかにあった。しかし青山さんの新刊は、「疑惑」で一度、打ち砕かれかけていたそんな筆者の気持ちを最終的に粉砕するものとなった。コロナ禍で遺族さえ自由に慰霊登山をできない異例の夏。35年目を迎えた2020年夏はこれまでになく重苦しく筆者の前を通り過ぎようとしている。

 ●今後の「会」の活動は?

 最後になってしまったが、青山さんたちが結成した会の名称は「日航123便墜落の真相を明らかにする会」という。事故関係者や遺族のほかに、情報公開制度に詳しい弁護士らを擁しているのが特徴だ。個人情報保護法制定や森友・加計学園問題を受けた2017年12月の公文書ガイドラインの改定に関わり、「桜を見る会」をめぐる公文書破棄問題でも安倍政権を批判する三宅弘弁護士、地元の群馬県弁護士会所属の赤石あゆ子弁護士らも加わり、政府が頑なに拒み続けている関係公文書の公開に挑む。「30年もたてば全てをオープンにするというのが歴史公文書の利用についての基本原則。理由を付けて開示しないのはおかしい」と三宅弁護士は指摘する。制度本来の趣旨に基づいた適切な運用を国や日航に求めるという。過去30年間、ずっと御巣鷹問題にかかわってきた筆者も、可能ならこの会に関わり、真相究明の一助になりたいと考えている。その結論がどんなに恐ろしいものであったとしても、不思議とこの事故に関する限り、何が来てもそれほど恐ろしいとは思わない。 

<参考文献>
・「疑惑 JAL123便墜落事故 このままでは520柱は瞑れない」(角田四郎著、早稲田出版、1993年)
・「日航123便 墜落の新事実」(青山透子著、河出書房新社、2017年)
・「日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす」(青山透子著、河出書房新社、2020年7月新刊)

(2020年8月23日)

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【訃報】渡部恒三元衆議院議長死去 会津出身 原発推進謝罪せず逝く

2020-08-24 23:44:14 | 原発問題/一般
渡部恒三氏死去 88歳・南会津町出身、衆院副議長など歴任(福島民友)

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 元衆院副議長で通産相などを務めた渡部恒三(わたなべ・こうぞう)氏は23日午前2時8分、死去した。88歳。

 渡部氏は南会津町(旧田島町)出身、会津高、早大第一文学部卒。内閣官房副長官などを務めた八田貞義氏の秘書や県議を経て、1969(昭和44)年の衆院選で37歳で初当選。14回連続当選を果たした。83年に第2次中曽根内閣の厚生相として初入閣し、自治(国家公安委員長)、通産の各相を歴任した。92年には通産相として本県での四極通商サミットの開催に尽力。96年から2003年まで衆院副議長を務めた。

 無所属での初当選となったが、幹事長を務めていた田中角栄氏の計らいで自民党に追加公認。党内では国会対策委員長などを務め、竹下派七奉行の一人と目された。93年に自民党を離党し、羽田孜、小沢一郎両氏らと新生党を結党。後に新進党、民主党でも要職を務め、2012年に政界を引退した。

 「平成の水戸黄門」「政界のご意見番」と親しまれ、歯に衣(きぬ)着せぬ「恒三節」で存在感を示した。国民民主党県連の最高顧問を務めていた。03年に勲一等旭日大綬章受章。佐藤雄平前知事の叔父。
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渡部恒三元衆院議長が死去した。政治家時代、原発を推進し、みずからが誘致に奔走した福島原発の事故で県民を塗炭の苦しみに陥れながら、一言の謝罪もなく逝った。死去に際し、哀悼の意は表しつつもその罪を許すことはない。

渡部氏の過去の言動に関しては、当ブログで過去2回にわたって取り上げている。その際の記事、当時の新聞報道を再掲しておきたい。

●書き残しておきたい原発推進派の暴言 渡部恒三「原発作れば作るほど健康増進、国民長生き」(当ブログ記事2015年12月19日付)

●予告通り、渡部恒三氏の過去の失言を「発掘」してきました(当ブログ記事2016年2月27日付)

当時の新聞記事はこちら。

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【訃報】岐阜環境医学研究所長・医師 松井英介さん死去

2020-08-23 22:17:35 | 原発問題/一般
原発事故の影響、世に問う 松井英介さん、82歳で死去(中日)

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 岐阜環境医学研究所長で医師の松井英介さんが十九日、骨髄異形成症候群のため死去した。八十二歳。東京電力福島第一原発事故で放出された放射性物質の子どもたちへの影響を調べる取り組みなどで知られた。

 三重県鳥羽市出身、岐阜県立医科大(現岐阜大医学部)卒業。岐阜大病院で肺がんの予防や早期発見、治療に携わった。二〇〇二年には岐阜環境医学研究所を設立した。

 長良川河口堰(ぜき)の建設反対運動や、岐阜市椿洞の産業廃棄物の不法投棄問題で撤去を求める運動にも参加。専門の放射線医学の見地から、福島第一原発事故では、骨や歯にたまりやすい放射性物質ストロンチウム90の子どもへの影響を懸念していた。

 自然に抜け落ちた乳歯の提供を求める団体「乳歯保存ネットワーク」を有志の研究者と一五年に結成。乳歯の放射性物質を分析する民間の測定所を一八年、岐阜市内に開設した。全国から約五百人分の乳歯を集めて、内部被ばくの可能性を調べた。

 測定所の運営に協力する愛知医科大の市原千博客員教授(中性子工学)は「調査の結果をもとに、原発事故の影響を世に問おうとする信念を持っていた。六月に会って議論を交わしたので、こんなに早く亡くなるとは」と惜しんだ。
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岐阜環境医学研究所長で医師の松井英介さんが逝去された。当ブログ管理人は、深くはないものの、福島原発事故よりはるかに前から松井さんとは交流があり、原発事故後も大変お世話になった。謹んで哀悼の意を表する。

普段、岐阜にお住いの松井さんと初の出会いは名古屋勤務時代、2003年頃にさかのぼる。アフガニスタン、イラクの両戦争で劣化ウラン兵器を使用し、多くの被ばく者を出したアメリカ・ブッシュ政権の責任を問うために、アフガニスタン国際戦犯民衆法廷を開催する際、当ブログ管理人は事務局員を務めた。名古屋で開いた公聴会で「国際法違反の新型核兵器「劣化ウラン弾」の人体への影響」と題して講演をいただいた。

松井さんの当時の講演内容は記録集としてまとめられている。劣化ウランを中心にしながらも、広く放射性物質一般が人体に与える悪影響について、わかりやすく説明されている。ICRPやECRRといった用語は当時は難解で読み飛ばしていたが、3.11で恐るべき放射能事故が現実になった今、改めて読み返してみると、これらの言葉が当時とは異なった重みと力で迫ってくる。

3.11の福島事故の際、「次に起こること」を察知して、当ブログ管理人が早い段階で的確な行動をとれたのも、このときに松井さんの話を聞いていたことが大きい。

福島の事故後は、一貫して被ばくの悪影響を訴える活動を続けてきた。共産党系の一部学者、とりわけ福島市の民医連「渡利病院」の斎藤紀(おさむ)医師らが、「100ミリシーベルトの被ばくでも福島で生活できる」などと山下俊一・福島県立医大副学長顔負けの誤りを犯す中、その誤りを正す活動も続けてきた。福島に残る人々を礼賛する「新婦人しんぶん」(「新日本婦人の会」機関紙)の誤った記事(2015年3月5日付)に対して、松井ご夫妻が連名で提出した批判の内容は、「ちきゅう座」ホームページに掲載されている。

中日新聞記事が紹介している「乳歯の放射性物質を分析する民間の測定所」とは、乳歯保存ネットワークと一体運営されている「株式会社はは」である。同社のサイトに社名の由来は記されていないが、乳歯保存の取り組みを行う団体らしく「歯」の複数形に、子どもの健やかな成長を願う母親を掛け合わせる形で命名されたと考えられる。

もちろん21世紀もすでに5分の1を過ぎたこの時代、子育ては母親だけのものではないからいささか時代遅れの感もある社名だと思われる方もいるだろう。だが、松井さんはそうしたこともあらかじめ織り込んだ上で、あえてこの社名にしたのだと思う。福島で、夫の理解を得られず、幼い子どもを連れて母子だけで「自主的避難」の苦難を背負わなければならなかった母親たちへの連帯メッセージとして。そして同時にこの社名には、「イクメン」など軽くてキャッチーだが本質的には無内容な言葉で表面的な「理解」を装いながら、子育て、子どもを守るという他の何物にも優先すべき「大義」を女性、母親だけの狭い領域に押し込め無関心を決め込んでいる日本の男性優位社会への告発の意味も込められている。この社名を当ブログはそう解釈している。

「株式会社はは」の設立に関しては、当時の朝日新聞岐阜版が詳しく報じている(関連記事:内部被曝を乳歯で調査 岐阜に来月、民間測定所)。当ブログ管理人も出資し協力している。ストロンチウム90の半減期は30年。本当の影響は福島で生まれた子どもたちが大人になったときに初めてわかるだろう。その子どもたちが原発事故を起こした大人たちを告発する勇気を持てるか、それとも福島で生まれたことを隠して生きなければならなくなるかは、今、私たちの世代の大人たちひとりひとりがどのような行動をとるかにかかっているのである。

私が当ブログのキャッチフレーズを「理想に近づくため毎日をより良く生きる」にしているのは、良心に恥じることなく生きたいという決意を示したかったからである。どんなに微力であろうと、今後もこの私の生き方が揺らぐことはないと思っている。このような生き方をしようと決意させてくれたひとりが松井さんである。それだけに当ブログ管理人は今、深い悲しみと喪失感の中にいる。

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2020年 六ヶ所村ピースメッセージ

2020-08-23 22:00:57 | 原発問題/一般
青森県六ヶ所村の使用済み核燃料再処理施設に反対する行動として、1986年から始まった六カ所ピースサイクル行動。全国各地を自転車で回りながら核燃サイクル反対を訴える行動も今年で35年目に入った。

当ブログ管理人に、行動主催者からメッセージの依頼が来るようになったのは、福島原発事故が起きて以降だ。福島県で被災したという事情もあり、以降、毎年、六ヶ所ピースメッセージとして思いを伝えてきた。今年、当ブログ管理人が寄せたメッセージをご紹介する。

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六ヶ所ピースメッセージ

 六ヶ所村村長 戸田 衛 様
 青森県知事 三村 申吾 様
 日本原燃株式会社 社長 増田 尚宏 様

 福島第1原発事故から約9年半が経過しました。今年5月、原子力規制委員会は再処理施設に関し、審査基準「適合」の判断をしました。しかし、それから3か月もたたない8月に入り、日本原燃は25回目の稼働延期を決めました。完成も稼働もできないとわかっている施設に対し、ずさんな審査で合格を認めた規制委に改めて怒りを感じます。

 規制委がこの5~6月に行ったパブリック・コメントにおいて、私も合格とすることに「反対」の意見を送りました。その内容は別紙のとおりですので、よくお読みいただきたいと思います。原子力政策はすでに破綻しており、世界の電力政策は原子力にも火力発電にも依存しない再生可能エネルギー中心のものに向かっています。このままでは日本は世界の潮流から取り残されてしまいます。

 私は、福島第1原発事故当時、福島県西郷村で事故を体験したもののひとりとして、関係者が直ちにこの無責任で未来のない電力政策を変え、原子力推進から撤退へと勇気ある決断を下されるよう強く求めます。

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