安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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静かな年度末、そして職業人生のひとつの区切り

2014-03-31 22:30:26 | 日記
早いもので、北海道に転居してから1年を迎えた。今年は、昨年と異なり静かな年度末を迎えている。

明日、4月1日で、就職してから丸20年になる。ささやかながら、職場で20年勤続の表彰を受けることになっている。よく20年もやってきたものだと思う。就職したときは、自分の職業人生をイメージできず、もっと単調で変化のない20年になると思っていた。しかし、改めて振り返れば、変化に満ちた20年は、あっという間に過ぎ去ったような気がする。20年間で最も大きな出来事を挙げるなら、名古屋勤務時代の2005年に中部国際空港の開港に立ち会えたことと、福島勤務時代の2011年に東日本大震災と福島第1原発事故を経験したことだ。

名古屋勤務時代には妻と出会った。福島勤務時代に起きた福島第1原発事故は、私の人生を大きく変え、脱原発運動に自分自身が踏み出す契機になった。そうした意味でも、5年半の名古屋勤務時代と、6年にわたった福島勤務時代は生涯忘れ得ぬ思い出になるだろう。

私が就職した1994年からの20年は、日本が「失われた20年」と呼ばれていた時期とぴったり重なる。就職した94年は、古き良き時代といわれた最後の時期で、まだ職場に家族的な雰囲気が色濃く残っていた。私の職業人生としての20年は夢中で走っているうちにあっという間に過ぎ去ったが、その間、日本社会は大きく、それも厳しい方へと変わった。非正規労働とブラック企業がはびこり、若者と女性は「非正規労働者のほうが当たり前」の状況になった。働くことは命がけになり、ブラック企業によって多くの命が奪われた。若者、女性をこのような状態に追い込んだ者たちの責任を問わねばならない。

20年は確かに長いが、それでも、私の職業人生の中ではようやく折り返し点といったところだろう。私の諸先輩方は60歳で定年退職を迎えていったが、年金支給年齢が引き上げられた結果、60歳定年後に5年間の再雇用を受ける人が多くなった。おそらく、私が60歳を迎える頃には定年は65歳になり、5年の再雇用を経て70歳でようやく引退という時代になるだろう。1円も年金を受け取れずに世を去る人も増えていくはずで、年金は「長生きした人だけの特権」という位置づけになると思う(よく、高齢化で国の年金は崩壊すると言われるが、年金財政が厳しくなればこのような「やらずぼったくり」に制度を変えていくことで、「形の上では」いくらでも維持できる)。

「若者の就労機会を奪っている」として、再雇用にはなにかと批判や怨嗟の声も聞こえるが、高齢者と若者が限られたパイを奪い合う状況はいいことではない。パイ自体を増やしていく努力が求められているが、どうやら政治や行政にはその意思も能力もないようだ。

それ以上に、戦後日本という枠組み自体がその頃まで残存しているとはとても思えない(当ブログ管理人はそのことを過去ログでも指摘している)。「希望は戦争」と主張した赤木智弘氏のように、若者の間にある種の破壊願望のようなものも出てきている。おそらく私が現役のうちに、国の財政破綻か諸外国との紛争により、戦後日本体制が崩壊し、その後の「国体」が大きく変わることはもはや不可避ではないか。

引き続き、職業人生を全うしながら、来るべき新しい時代に生き延びることができるよう準備をしていくのが、私の人生後半の課題だと思っている。

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関越道バス事故、運転手に異例の実刑判決

2014-03-26 22:44:36 | 鉄道・公共交通/安全問題
関越道バス事故:運転手に懲役9年6月 前橋地裁判決(毎日新聞)

2012年4月、乗客7名が死亡した関越道バス事故で、業務上過失致死罪で起訴された運転手に対し、前橋地裁は懲役9年6月の実刑判決を言い渡した。遺族にとってはもちろん納得できない判決であろうが、当ブログと安全問題研究会が数々の公共交通、公共施設の事故に関する裁判を見てきた限りで言えば、故意犯でない過失犯で、しかも初犯の被告に対し懲役9年6月の実刑というのはかなりの重罰で、前例のないほど重いものといえる(もっとも、執行猶予は懲役3年までの刑罰にしか付加できないことになっている)。

当ブログと安全問題研究会は、誰も責任を問われなかった日航機墜落事故や、これまで誰も責任を問われていないJR福知山線脱線事故に比べれば、運転士が罪に問われただけでも有意義と考えるが、最も肝心な企業責任が問われなかったという意味では、この判決に納得することはできない。「代わりはいくらでもいる」弱い立場の末端労働者だけが裁かれ、またも会社が不問に付されたのだ。JR福知山線脱線事故も、高見運転士が死亡せず、生きて起訴されていたら、必ず今回と同じ結果になっていただろうと思えるだけに、当ブログと安全問題研究会は複雑な感情を抱くのだ。

誤解を恐れず言えば、末端労働者だけが裁かれる現行の法制度では、企業は痛くも痒くもなく「トカゲのしっぽ切り」で逃げ切って終わりである。やはり責任追及、再発防止の両面から、企業が裁かれる制度の導入を急がなければならないと思う。

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【管理人よりお知らせ】「JR北海道の安全問題と労働運動の課題」を安全問題研究会サイトに掲載しました

2014-03-22 22:15:00 | 鉄道・公共交通/安全問題
管理人よりお知らせです。

月刊「地域と労働運動」誌161号(2014年2月号)に掲載された川副詔三編集長の論考、「JR北海道の安全問題と労働運動の課題」を安全問題研究会サイトに掲載しました。PDF版のみで、こちらから見ることができます。

労働組合にとって、JR北海道の安全問題に取り組むことが「義務的課題」であるとする論考に、当サイトは全面的に同意します。すでに、JR北海道に対して、JR会社法に基づく監督命令が出され、レール検査データの改ざんについて、国交省から鉄道事業法違反で刑事告発を受け、北海道警による強制捜査が行われています。是非この問題について考えていただきたいと思います。

なお、現時点ではまだ詳細を明らかにできませんが、JR福知山線脱線事故を受け、地元・尼崎市で毎年開催されている「ノーモア尼崎」集会が、今年も4月19日に開催予定となっています。今年の集会では、JR北海道の安全問題について安全問題研究会が報告を行うことになっており、現在、レジュメ等の資料を鋭意作成中です。時期が近づいてきましたら、また改めてお知らせします。

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水樹奈々さん、芸術選奨(文部科学大臣新人賞)を受賞

2014-03-20 21:58:13 | 芸能・スポーツ
芸術選奨文科大臣賞に是枝監督ら 水樹奈々さんに新人賞(朝日)

水樹奈々、芸術選奨受け「アニメの素晴らしさを伝えていきたい」(サンスポ)

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数々のアニメソングを歌ってきた水樹は「昨年初めて海外(のツアー)でマイクを握り、日本のアニメが世界中で愛されていることを肌で感じた。これからもアニメの素晴らしさを、私らしく伝えていきたい」と喜びを語った。(共同)
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声優・歌手の水樹奈々さんが芸術選奨(文部科学大臣新人賞)を受賞し、3月19日、都内で授賞式が開催された。芸術選奨は、各分野において「顕著な活躍を見せた人物」に文部科学大臣賞、また各分野において「新興勢力として活躍が認められた人物」に文部科学大臣新人賞がそれぞれ贈呈されるもの。新人賞は、1968年から始まったとのことだ。

水樹奈々さんの受賞は「NANA MIZUKI LIVE CIRCUS 2013」によるもので、大衆芸能部門での受賞。文化庁ホームページによれば「贈賞理由」は次の通りである。

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 将来,日本の“声優史”を振り返った場合,水樹奈々氏を境に時代がくっきりと分かれたことに気付くだろう。声優をめぐることごとくを変えた,それほどまでに画期的な存在である。声優として活躍する一方,アニメソングを広く一般に浸透させ,歌手としてドーム球場を満員にするほどの人気を示し,海外公演も成功させた。クールジャパンのコンテンツの一つとしてアニメの輸出が盛んだが,国内での人気の高まりがなければ,そうはならなかった。氏は“切り開く者”として,その一端を担った。
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また、「選考経過」は次の通り。

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 第一次選考審査会では文部科学大臣賞において選考審査員から6名,推薦委員から6名(グループ)の計12名。文部科学大臣新人賞については選考審査員から8名(グループ),推薦委員から6名の計14名が挙げられた。全ての候補者の討議の結果,文部科学大臣賞は7名に,文部科学大臣新人賞は8名に絞り込まれた。

 そして第二次選考審査会では文部科学大臣新人賞がまず決まった。声優・歌手の水樹奈々氏の音楽的あるいはイベントも含めての活動の数々が圧倒的に評価され,「NANA MIZUKI LIVE CIRCUS 2013」ほかの成果が対象となった。・・・(中略)・・・流行歌からジャズなど,また落語,漫才,浪曲など贈賞対象候補者が多岐にわたる大衆芸能部門は,それだけに選考審査員各氏の担う責務は大きく,ときに激しい意見の応酬もあったが実りある贈賞者決定と自負している。
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昨年11月、初の台湾ツアーを成功させ国際デビューも果たした。紅白出場も4回目となり、安定した人気ぶりを見せる。今後も実力を高め、ますます第一線での活躍に期待している。

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3月14日未明の伊予灘地震について

2014-03-15 21:54:46 | 気象・地震
平成26年3月14日02時07分頃の伊予灘の地震について(気象庁報道発表)

14日未明、伊予灘を震源とする地震は、15名の負傷者を出した。すっかり「地震慣れ」した東日本と異なり、3.11以降も地震慣れしていない西日本だけに、多くの人が不意打ちを食らい、眠れない夜を過ごしたのではないか。

とはいえ、この地震の震源は、日本でも最大級の活断層である「中央構造線」の少し北側。ここから宮崎県沖の日向灘にかけては日頃から地震の巣と呼ばれている場所であり、驚くには当たらない。

発生日時 3月14日02時06分
マグニチュード 6.2(暫定値)
場所および深さ 伊予灘、深さ78km(暫定値)
発震機構等 東北東-西南西方向に張力軸を持つ型 (速報)

報道発表による地震の概要は上の通り。M6.2は、阪神・淡路大震災(M7.2)よりマグニチュードで1小さいから、地震のエネルギーは阪神・淡路大震災の約30分の1と考えてよい。雪の多い東日本と比べ、脆弱な作りの家屋が多い西日本にもかかわらず、大きな被害がなかったのは、震源が78kmと比較的深かったことも理由のひとつだろう。ただ、震源が深かったため、揺れの伝わった範囲はかなり広かったように思われる。

気になるのは発震機構(地震のメカニズム)で、張力軸という用語が使われている以上、正断層型と見られるが、本来、この地域は全体がユーラシアプレート上にあり、フィリピン海プレートによって押される側だから、プレート内での地震は逆断層型になることが多い。実際、2011年7月5日の和歌山県北部地震(気象庁報道資料)、2013年4月13日の淡路島付近の地震(気象庁報道資料)はいずれも逆断層型になっている。

今回の地震には前震が全くなく、発生後も体に感じる余震は全く発生していない。いわゆる前兆の全くない「突発性地震」であり、このまま終息に向かう可能性が最も高いと考えられるが、震源が中央構造線に近いこと、また通常と異なる発震機構の可能性があることなどから、当ブログとしては、しばらく注意深く見守りたいと思う。

それにしても、川内原発が「再稼働第1号」になるのではないか、との報道が流れたとたんにこの地震だ。川内原発も中央構造線の上にあり、伊方と並んで危険であることに変わりはない。福島原発事故を経験した当ブログからすれば、「原発再稼働はするな」という天からの啓示としか考えられない。

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3.11を前に、各地で反原発集会(&北海道集会における当ブログ管理人の発言)

2014-03-09 22:47:52 | 原発問題/一般
<福島県民集会>大江健三郎さん、原発廃止を訴え(毎日)

5300人脱原発集会 全基廃炉など宣言採択 県内3会場(福島民報)

福島第2原発も廃炉求める 県内3会場で脱原発集会(福島民友)

バイバイ原発、再稼働反対 円山公園一帯に2500人集う(京都)

<反原発>大規模なデモ、国会周辺で 坂本龍一さんも参加(毎日)

3回目の3.11を控えた週末の8~9日にかけて、各地で反原発集会が開かれた。このうち、福島県民集会は今年、会場確保の関係から3カ所に分かれて開催となり、5300人(主催者発表)が集まった。昨年は7000人だったから大幅に減少しているが、福島県内の集会としては空前の規模だ。東京での集会も3万2千人を集めており、依然として根強い反原発の世論を感じる。

原発事故の「風化」などあってはならないが、仮にそのように感じさせる状況があるのであれば、月刊「政経東北」誌2014年3月号の社説に当たる「巻頭言」が主張しているように「中央側に共感を求めるだけでなく、県民が自らの思いや生活実態、経済復興の現状などをしっかり発信していく」「原発再稼働に対する懸念、放射性物質への意識や対策など、県民にとっては当たり前すぎて話題に上らないことでも、外部に向けてあらためて伝える」ことが必要だと思う。

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さて、3月8日、札幌でも「フクシマを忘れない!さようなら原発北海道集会」が開催され、約900人が参加した。この集会では、「呼びかけ人あいさつ」「福島からの発言」「大間(青森県・大間原発建設予定地)からの発言」「福島から避難した中学生のアピール」として4人が発言したが、このうち「福島からの発言」を当ブログ管理人が担当した。以下、発言内容を掲載する。

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(以下、当ブログ管理人が担当した「福島からの発言」内容)

 私は、2007年4月からから2013年3月まで、福島県中通り南部、西郷村に住んでいました。皆さんのお手元に配られている資料の中に、福島県の汚染地図があると思います。後ほどご覧いただいてもかまいませんが、一番外側に原発から80km圏内を示す赤い円が描かれています。西郷村は、その80km圏内を示す円の少し外側に当たります。

 福島県最大の都市、いわき市で福島原発告訴団が結成されたのは2012年3月でした。事故から1年間は、事故の大きな衝撃で誰もが茫然自失となり、表だった行動ができないまま過ぎていました。東京で大きな反原発デモが毎週のように起きているのに、福島県民が怒りを表現する場もなく、このままでは忘れ去られるのではないか。福島の怒りを表現するために何ができるのか。熟慮した末にたどり着いたのが、原子力ムラの刑事責任を追及することでした。

 福島原発から恩恵を受けてきた人たち、事故で大きな被害を受けながら、それでも地元に仕事がなく、東電で働かざるを得ない人たちも多くいるのが福島です。原発を巡って複雑な利害関係が入り乱れる福島でも、事故を起こした人の責任追及であれば全県民の要求にすることができると私たちは考えたのです。また、最も大きな被害を受けた福島県民が怒りを表現しなければ、いくら東京の人たちが怒りを表明したとしても、本気と受け止められなくなる恐れもありました。

 2012年6月の第1次告訴には、福島県民1,324人が加わりました。福島県の人口は約200万人であり、第1次だけで県の人口の6%に当たる人々が刑事告訴に加わったのは前例がなく画期的なことです。その後、2012年11月には日本全国に加え、海外からも含めた13,262人が告訴に加わりました。

 第1次告訴をした人の約半数に当たる700人余りの人々が、検察に陳述書を提出しました。陳述書とは、自分がどんな被害を受けたかを申告する書類です。提出が義務ではないにもかかわらず、これだけの人々が提出したことは、福島県民の原発事故への怒りがどれだけ強いかを表すものです。

 私たちは、検察当局に対し、何度も強制捜査(家宅捜索)をするよう要求し、声を上げ続けてきました。しかし検察は私たちの要求に答えることなく、関係者から何度か任意で事情を聞くだけで、ついに強制捜査さえ行わないまま不起訴の決定を行いました。しかも事件を福島地検から東京地検に移送し、移送先の東京地検で不起訴の決定を行うという、信じがたい暴挙です。検察審査会法では、不起訴処分を行った地検を管轄区域とする検察審査会にしか審査申し立てができないと決められており、これは、原発事故への怒りが燃えたぎっている地元、福島の検察審査会で審査ができないようにするために仕組まれたものでした。

 仮に不起訴という結論であったとしても、強制捜査で資料を押収し、証拠を精査した結果であるならば、私たちは不満はあっても希望を見いだすことができます。しかし、強制捜査という最低限の仕事すらしないまま、地元検察審査会での審査の道を閉ざす形での不起訴処分とあっては、私たちは次への希望すら見いだすことができません。

 裁判員制度の開始とともに検察審査会法も改正され、起訴相当の議決が2回続けて出れば、「被告人」は強制起訴されます。刑事責任の追及を何とかして免れようとする国の意思と無関係に、市民が東電関係者を強制起訴できれば、裁判により証拠の提出や関係者の証言が期待できます。被告人が有罪になればもちろん、ならなくても貴重な証言や証拠が法廷に提出されることで、事故原因の究明が進めば、原発の危険性も明らかにでき、脱原発への道筋はより具体的なものになるでしょう。だからこそ私たちは、決してあきらめることなく、起訴相当の議決が出るよう東京で検察審査会に対し、様々な要求や働きかけを行っています。

 大飯原発が再稼働されようとしていた2012年6月、20万人が官邸前を埋め尽くし、6万人が集会に集結した東京都民の良識を私たちは信じています。東京の検察審査会で強制起訴の議決を勝ち取ることができれば、原発立地地域の福島と、その電力の消費地であり、東電本社の所在地でもある東京が責任追及で再びひとつになることができます。原発事故の告訴・告発を東京に移送したことを検察に後悔させられるような闘いの形を、今、再びしっかりと固め直すことが、事故から4年目の私たちの課題です。また、汚染水漏れの刑事責任を追及するための第2弾の刑事告発も福島県警に対して行い、強制捜査を求め続けています。

 今日、この会場で、数は少ないですが、福島原発告訴団のブックレット「これでも罪を問えないのですか」を販売しています。告訴・告発に加わった人々の中から、50人の陳述書を収録し、本にしたものです。この50人の陳述書も、福島県民が受けたおびただしい原発事故の被害のほんの一部に過ぎません。陳述書を書いた人はこの十数倍に上り、その陰には、被害を訴えたくても声も上げられないでいる人がさらにその数百倍、数千倍いるという現実を知っていただきたいと思います。

 これでもなお原発再稼働、輸出などと言っている人たちは本当に狂っています。彼らを同じ人間と認めることさえできないほどの怒りが、事故から3年過ぎようとしている今なお、私の心から離れることはありません。

 今年2月、福島県民健康管理調査検討委員会の最新の発表によれば、福島の子どもたちの甲状腺がん「確定」は33人、甲状腺がん「疑い」は41人で、合計74人になりました。子どもの甲状腺がんは、通常では100万人に1人といわれており、極めて異常な数字ですが、国も県も、健康管理調査を行っている県立医大も、「後で発見されるはずだったがんが、検査機器の性能向上でたまたま早めに見つかっただけだ」と言い張り、決して原発事故との関係を認めようとはしません。もし仮に彼らの主張通りだとしたら、甲状腺がんは放射能と関係がないのだから、北海道でも沖縄でもこの異常な比率で発生するはずであり、全国での調査が必要なはずです。それにもかかわらず、彼ら自身が県民健康管理調査を福島だけでしか行っていません。このこと自体、放射能とがんの間に「関係がある」と彼らみずから告白しているようなものです。

 県民健康管理調査を主導してきた県立医大の山下俊一副学長は、これまで「安定ヨウ素剤は飲まなくてよい」「飯舘村で私の孫を外で泥んこ遊びさせろというならお安いご用だ」などと、県民に安全、安心を振りまいてきました。しかし最近になって、当の県立医大の職員らが、自分たちだけ安定ヨウ素剤を飲んでいたことが、市民の情報公開請求によって明らかになりました。県民には「不安を煽るな」としてヨウ素剤を飲ませないでおきながら、彼らは自分たちだけちゃっかりと、安定ヨウ素剤を飲んでいたのです。

 溺れている一般市民を蹴落として、自分たちだけ最も頑丈な救命ボートに真っ先に乗り込む・・・残念ながら、こういう人たちが日本を支配し、原子力ムラを支配しています。政府や原子力ムラが、どんなに厳しい安全審査をして、1万回「安全」と繰り返そうと、原子力という技術をこのような人々が握り続けている限り、次の事故は避けられないでしょう。日本では、ヒューマンエラー(人為的ミス)こそが最も問われなければならないのに、再稼働に向けた安全審査の項目にヒューマンエラーが含まれていないのです。技術以前の問題であり、このご都合主義的で適当で無責任な「人間」「技術に携わる人たちの倫理」を見つめ直し、問い直すことのできない人たちに原子力を扱う資格はありません。それでも原子力を扱いたいと固執し続ける原子力ムラ住人に対しては「原子力そのものを廃絶する」以外に、福島からの答えはありません。

 国、地方自治体、電力会社、原発メーカー、学者や研究機関、マスコミ、裁判所・・・日本の隅々まで、あらゆる組織が原子力帝国に組み込まれ、がんじがらめにされてきました。その中でも最も醜悪なのは、先ほど述べた医師や学者に加え、裁判所とマスコミだと思います。この3つには実は大きな共通点があります。どれも「戦争責任を全く取っていない」ということです。裁判官は誰1人責任を取らず、マスコミも(当時は民放はなく、新聞とNHKだけでしたが)誰1人責任を取りませんでした。学者、特に医師に至っては、戦後、日本学術会議が発足するとき、戦争に協力した学者の姿勢をまず反省してから組織を発足させるべきではないかという良心的な学者たちの声を先頭に立って潰し、責任など取らなくてよいと主張し続けたことが『科学と技術』という本に書かれています(武谷三男著、勁草書房、1969年)。戦争責任を取るべきだという声を先頭に立って潰した医師たちが、今また先頭に立って「放射能とがんは関係ない」「全ての病気はストレスのせいだ」と主張し、被害をもみ消しているのです。

 万死に値する重罪を、一度ならず二度までも犯した彼ら医師たちの責任を、私は福島で被曝を経験した元県民、被害者の1人として、今後一生をかけて追及し続ける決意です。これこそが、日本の戦争のために傷付き、倒れていった全てのアジア諸国の人々と、今また傷ついている福島の人々のための私の義務であり責任だと考えます。

 福島で起きていることは、まともな法治国家なら考えられないことばかりです。政府も検察も東電の代理人と化しています。加害者、犯罪者であるはずの東電が平然と賠償を査定し、「お前にはこれだけくれてやる」と居直っているのが福島の実態です。

 この会場で販売している福島原発告訴団のブックレットには、「普通なら罰を受けるはずなのに、何で東電だけ罰せられないのですか。えこひいきじゃないですか」という11歳の小学生の訴えも収められています。11歳の子どもにまでこのように言われてしまう無責任大国ニッポン。被害者だけが泣いて終わる「無責任の日本史」に新たな1ページが書き加えられるだけ・・・そんな歴史を、今度こそ私たちは断固として拒否しようではありませんか!

 北海道の皆さんにお願いがあります。泊原発の再稼働をなんとしても止めてほしいのです。地震が少ないから安全、経済が回らないから仕方ない、ではありません。繰り返しになりますが、福島県民にヨウ素剤を飲まなくていいと言いながら、自分たちだけはさっさとヨウ素剤を飲むような連中が推進する「原子力」などあなたは信じられますか? 厳しいけれど世界中に誇れる豊かな自然を持ち、原発事故の被害をほとんど受けなかった北海道には、福島から避難してきた人たちにとって楽園であり続けてほしいのです。そんな北海道を守り抜くために、これからも皆さんとともに闘っていきたいと思います。

 ありがとうございました。
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<参考記事>安定ヨウ素剤飲んでいた 福島県立医大 医師たちの偽りの「安全宣言」(2014.2.21 週刊「フライデー」)

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大雪続きにつき・・・もう1つ、鉄道名作映画

2014-03-07 21:53:13 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
3月になったというのに、また週明けから季節外れの大雪の予報が出ている。先日の「豪雪とのたたかい」に続き、鉄道名作映画で豪雪がテーマのものをご紹介する。1957(昭和32)年制作の「雪と闘う機関車」である。

この映画、機関車労働組合(機労)が制作したという意味でも貴重なもので、北海道有数の豪雪地帯、音威子府を舞台に鉄道マン・国鉄職員の仕事の大変さもよく描かれた名作である。ちなみに、機労とはその後の動労(国鉄動力車労働組合)、現在のJR総連だ。JR北海道の安全問題に関連し、物議を醸しているあの労働組合である。


雪と闘う機関車 1/2


雪と闘う機関車 2/2

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北陸道SAでまた夜行バス事故 2人死亡、24人搬送

2014-03-06 21:08:58 | 鉄道・公共交通/安全問題
北陸道SAで夜行バスが事故 2人死亡、24人搬送(日経)

北陸道でまたバス事故が起きた。昨年7月、規制強化によりツアーバスが高速路線バスに一本化されたにもかかわらず事故を防げなかったこと、また事故を起こしたのが地方の聞いたこともないようなツアーバス会社ではなく、宮城交通という準大手事業者であったことは今のバス業界を取り巻く深刻な状況を物語っている。背景にあるのは運転手の過重労働問題であり(参考記事)、東日本大震災による運転手不足がバスの運行現場の疲弊に拍車をかけている。安全問題研究会としても、引き続きバス業界の動向を重大な関心を持って見守っていく。

それにしても、2007年、大阪府吹田市で起きた「あずみの観光バス」の事故も2月だった。大きなバス事故はなぜか春、それも2~3月に多い気がするがそれは決して偶然ではない。年末年始の輸送から受験生輸送、スキー客輸送と繁忙期が続き、運転手の疲労が極限に達するのがこの時期なのだ。3月以降も、卒業旅行、転勤などの引越輸送と続き、それが終わる間もなくGWの繁忙期が来る。事実上、高速バスの運転手は上半期の間、ずっと繁忙期が続くことになる。1年の半分が事実上ずっと繁忙期なのだから、バス業界は、この時期を基準として必要な運転手を確保すべきだと考える。

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首都圏の2月豪雪、異常気象に認定

2014-03-04 23:34:24 | 気象・地震
<2月の大雪>「30年に1回の異常な天候」 気象庁検討会(毎日)

2月、国道が積雪と放置車両でふさがれ、山梨県が陸の孤島となるなど大混乱を引き起こした大豪雪について、気象庁検討会が異常気象と認定した。記事にもあるように、異常気象の要件は30年に1回レベルであることだが、今回の豪雪は50年~100年に1回のレベルで十分要件を満たすといえるだろう。

ただ、豪雪と聞くと今なお語り草になっている昭和38(1963)年北陸豪雪(通称「サンパチ豪雪」)をしのぐほどの異常かといえば、おそらくそうではないだろう。異常の「桁外れ度」ではこれでもまだサンパチ豪雪のほうが上だといえる。何よりも今回の豪雪が「日頃雪が降らない地域に降ったための社会的混乱」であったのに対し、サンパチ豪雪は「日頃から雪が降り、雪対策はきちんとできていたはずの地域での社会的混乱」だったからである。

念のため、「サンパチ豪雪」がどの程度凄かったのかを当ブログ管理人の文献から検証しておこう。サンパチ豪雪の際は、以下のような現象が見られた、とされる。

・1963年1月16日から27日まで断続的に大雪。北陸4県に災害救助法が適用され、1万人近い自衛隊員が救助活動に。国鉄上越線は1ヶ月近く不通になり、物流がマヒ。

・静岡県の焼津港が結氷、銚子沖でオットセイが群泳。

・茨城、福島県沖で寒流性のスケソウダラやアンコウが獲れ、利根川河口に同じく寒流魚のニシン、相模湾にサケが現れる。

・東京で、数万年に1回レベルの異常低圧を記録。函館では、あまりの異常低圧のため、海水が盛り上がって川を逆流、マンホールから海水が噴き出す。

・冬が終わっても異常続きで、西日本は5月に梅雨入り。記録的天候不順となり、麦が平年の半分以下の収穫しかない凶作。

<参考文献>気象と地震の話(吉武素二・増原良彦 共編著、大蔵省印刷局、1986年)

これに比べれば、まだ今回の豪雪なんて大したことがないレベルといえる。それにもかかわらず大災害になったのは、日頃雪に慣れていない地域を襲った豪雪であったこと、また首都圏独特の「安全バイアス」(根拠なく何とかなるだろうという心理状態)が事態をさらに悪化させた結果といえる。

なお、サンパチ豪雪の際、1ヶ月近く不通になった鉄道各線を復旧させるために奮闘した人々を描いた国鉄の記録映画「豪雪とのたたかい」をご紹介する。40分程度の長さなので割と疲れずに見ることができる。サンパチ豪雪の凄さを体感してほしいと思う。

豪雪とのたたかい(1/2)


豪雪とのたたかい(2/2)

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レイバーコラム「時事寸評」第18回~ソチ五輪とウクライナ動乱、そしてチェルノブイリ

2014-03-01 22:44:59 | 原発問題/一般
(この記事は、当ブログ管理人がレイバーネット日本に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 2週間にわたったソチ五輪が終わった。日本は冬季五輪として過去2番目に多い8個のメダルを獲得。中でも40代のベテラン、葛西紀明選手の活躍が目立った。彼の郷里の北海道では「ソチは葛西のための五輪だった」との評価もあるくらいだ。メダル獲得がベテランと若手に偏り、(メダル獲得だけを「結果」と見るのであれば)最も期待の高かった働き盛りの中堅世代が結果を出せなかった今回の五輪は、盛りを過ぎても居座って引退しない高齢世代と、新しい発想で伸び伸びしている若手との間で中堅世代が苦闘する実社会の反映のようだ。

 五輪期間中、最も心配されたテロは幸いにして起きなかったが、隣国ウクライナでは市民のデモが武装勢力の介入によって衝突に発展。死者を出す争乱となり、ヤヌコビッチ政権が崩壊する事態となった。日本のメディアでは、日米支配層の意向を反映して「EU(欧州連合)かロシアかを巡る綱引き」「親露、反欧米のヤヌコビッチ政権から新欧米の野党への政権委譲は好ましい変化」との報道が目立つが、衛星放送を通じて伝わってくる外国メディアの報道とはかなり様相が違っている(例えば、英BBC放送は「ロシアから欧米に近づくことでこの国が良くなるとは思えず、戸惑っている」との市民の声を伝えている)。例によって、一面的な国内メディアの報道だけに頼ったのでは情勢判断を誤りそうな気配が漂ってきた。日本のメディアがウクライナの地理、歴史をきちんと知ってこれらの報道をしているとはとても思えない。

 ●五輪期間中だからこそ

 そもそも、ソチ五輪期間中にウクライナでこのような騒動が起きていることに対し、多くの日本人は「何もこの時期でなくても」「なんでこんな時期に騒動が起きるのかわからない」という感想を抱いただろうと思う。だが、そのような感想を抱いている人たちは、この地域の地理をどれだけご存じだろうか。



 筆者が地図を示すので見てほしい。五輪が開催されたソチはウクライナ国境に近い場所にあり、ウクライナの首都・キエフとは直線距離で約800kmしか離れていない場所にある。東京を起点にすれば、西は広島県福山市、北は津軽海峡を望む青森県・竜飛岬とほぼ同じ距離だ。旧ソ連時代は、世界の大陸面積の6分の1を1国だけで占めると言われた。そのソ連の広大な国土の大半を引き継いだロシアにとって、800kmは文字通り目と鼻の先である。ヤヌコビッチ政権に反感を抱くウクライナ市民が、「五輪期間中に、開催地の目と鼻の先で騒動を起こせば世界に注目され、ヤヌコビッチを支援するプーチン政権のメンツも潰すことができる」と最大級のアピール効果を狙ったとしても不思議なことではない。誤解を恐れず言えば、この騒動から政変に至る一連の出来事は五輪期間中「だからこそ」起きたのだといえよう。

 ●ロシアと欧米のはざまで

 ウクライナが、大国ロシアとヨーロッパのはざまで分裂の火種を抱えながら翻弄されてきたことは日本メディアの報道の通りだと思う。第二の都市、ハルキウ(ハリコフ)を擁する東部は19世紀に工業化が進み、重工業が急速に発展した。1917年のロシア革命の際、当時のボルシェヴィキの方針は「都市の労働者を組織して農村へ進撃すること」であったから、工業化したハリコフはボルシェヴィキが革命の拠点にするには好都合の場所だった。

 第二次大戦における独ソ戦(旧ソ連では「大祖国戦争」と呼ばれた)では、ソ連軍とナチス・ドイツ軍によって第1次から第4次まで、4回のハリコフ攻防戦が戦われた。1941年には、ソ連軍はハリコフを失い、ボルガ川付近まで大幅な退却を余儀なくされたが、翌42年になると、戦線を広げすぎて消耗したドイツ軍にソ連軍が反攻を開始。ドイツ軍を壊滅させ、ソ連の勝利に向けた転機となる有名なスターリングラード(現・ボルゴグラード)戦を経て、ハリコフもソ連が奪回に成功している。

 ●スターリンによる「第1次ウクライナ懲罰」~壮絶な負の歴史

 一方、ウクライナ南部と西部は、歴史的にも中欧との意識が強く、ロシア革命以前からヨーロッパとの強い結びつきがあった。世界的にも有数の穀倉地帯として、「ウクライナで枯れ枝を地面に突き刺せばそのまま育つ」と言われるほど肥沃な土地に恵まれた。だが、その肥沃な土地を背景にした豊かなウクライナ農業も、硬直した官僚命令式社会主義の下では、単なる穀物の徴発対象としかみなされなかった。

 ソ連末期、ゴルバチョフ政権による「ペレストロイカ」政策により情報公開が進んだ影響を受け、それまでひた隠しにされてきたスターリンによる1931~32年の農業の強制集団化の恐るべき実態が明るみに出た。それによれば、農民には自分が生活していくために最低限の穀物しか手元に置くことが許されず、それ以外はすべて政府に供出させられた。おまけに、現実には対応不可能なほどの厳しいノルマも課せられたという。

 いくら社会主義が人類にとっての理想を掲げていたとしても、「頑張っても頑張らなくても自分の手元に残せる穀物の量が変わらない」のであれば、農民がモチベーションを維持することは難しくなる(歴史に仮定は許されないが、もしこの当時のソ連政府の政策が「収量の○%を供出」というように供出量を割合で定めるものであったり、徴発の代わりに買い付けとして農民に対し穀物代金が支払われる制度であったりすれば事態は全く違っただろう)。ウクライナ農民にとって、肥沃な土地に恵まれ、農地面積あたりでは他地域より多くの生産をあげている自分たちが自分の生活に必要な最低限の量しか穀物を残せない悪平等的制度に対する反感は他の地域より大きかったと思われる。当然の結果として、農民は穀物を隠し供出を渋るようになった。

 これに対し、スターリンは1932年秋になって、極めて非人道的な決定を下す。穀物の供出が特に遅れていたウクライナと北コーカサス地方の農民を「非協力的」として、彼らから「全食糧を徴発する」と決めたのだ。恐るべきことに、この「全食糧」には、農民が自家消費する食糧も含まれていた。部分的に自由市場を認めた「ネップ」(新経済政策)もすでに終了し、闇市場、自由市場も存在していなかったソ連で、自家消費分を含む全食糧を取り上げられることは、農民にとって「死刑宣告」を意味する。ウクライナだけでこの年秋からの1年間で700万人が餓死、住民が全滅して地図から消えた村さえあったという。

 農業強制集団化の過程で起きたスターリンによる「懲罰的飢餓政策」の死者は、1937~38年の「大粛清」死者をも上回るといわれる。旧ソ連ではこの飢餓政策、そして飢餓の歴史に触れること自体がタブーであり、触れれば逮捕の恐れもあるとされたが、ペレストロイカによる情報公開と言論自由化の中で、毎年11月4日を「1932~33年の飢餓の犠牲者の霊を慰める日」とすることが1990年、ウクライナで初めて決められた。ソ連国内で、文芸雑誌「ノーヴィーミール」(「新世界」の意)によってその飢餓政策の全貌が初めて明らかにされたのは1989年のことだ。

 ●「第2次ウクライナ懲罰」としてのチェルノブイリ

 スターリンによる飢餓政策が「第1次ウクライナ懲罰」であるとすれば、「第2次ウクライナ懲罰」に当たるのはなんといってもチェルノブイリ原発事故だろう。現在でも、原発は100%のフル出力で運転するか、全く停止するかのどちらかしかできないが、事故を起こしたチェルノブイリ4号炉は、通常運転中に出力の調整が可能かどうか試すという、極めて危険な「賭け」の末に爆発、前代未聞の大惨事となった。

 事故当時のチェルノブイリ原発の正式名称が「ウラジミール・イリイチ・レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所」であったことは日本でもあまり知られていないが、その名称の由来は「共産主義とはソビエトの権力と全国の電化である」というレーニンの言葉にあるという。ソ連崩壊後、「ウラジミール・イリイチ・レーニン共産主義記念」が名称から外され、単に「チェルノブイリ原子力発電所」と呼ばれるようになった。1986年4月に起きた事故では、折からの南風に乗って、北に位置する隣国ベラルーシ(旧白ロシア)のほうが激しい放射能汚染に見舞われたが、ウクライナも北部の大部分が汚染を受けた。首都キエフの汚染は、福島第1原発事故による東京都内の汚染とほぼ同程度とみられている。早川由紀夫・群馬大教授が作成した福島とチェルノブイリの放射能汚染の比較地図によれば、放射性セシウム134+137の合計で「37000~185000Bq/m2」の地域がキエフ近くにも多くある(日本で「原発事故子ども・被災者支援法」のモデルとなったチェルノブイリ法では、放射性セシウムによる汚染が185000Bq/m2を超えれば希望者に移住の権利が与えられた)。福島県内を初め、首都圏でも東京都東部や千葉県を中心にこの程度の汚染は全く珍しくない。

 ウクライナ科学アカデミーのイワン・ゴドレフスキー氏らの調査報告書「ウクライナ・ルギヌイ地区住民の健康状態」によれば、ウクライナ・ルギヌイ地区では事故から5年後の1991年以降、健康被害が増えており、甲状腺疾患全体では人口1000人あたり60人にも達している。「規制値を超える体内セシウム137量を持つ人の割合」は、事故8年後の1994年に急増しており、ゴドレフスキー氏らはその理由を「野生のキノコ・イチゴの摂取量がこの年に急増したこと」であるとしている。内部被曝が環境中の放射性物質の量よりも生活習慣に大きく依存していることを示唆しており、福島第1原発事故以降の日本の市民にもいえることだが、内部被曝への警戒を怠ることこそが最も危険だということを示している。

 ●ウクライナは今後どこへ?

 福島第1原発事故が起きるまで、筆者にとってウクライナは「遠くて遠い国」だった。だが筆者自身が事故当時福島県に住み、間近で原発事故の被害を受ける中で、ウクライナやベラルーシに対し、「遠くて近い国」として急速に親近感を抱くようになった。ウクライナやベラルーシがチェルノブイリ後の四半世紀で蓄積してきた多くの経験は、近い将来、日本の市民を助けることになるだろう。

 EUとロシアが虚々実々の政治的駆け引きを続ける中で、ウクライナが今後どこへ向かうか予測するのは難しい。日本のメディアはウクライナに新欧米政権ができるとして歓迎ムード一色だが、冒頭に紹介したBBC放送内での市民のコメントが示すように、ウクライナ市民は歓迎一色ではない。

 農業地帯の西部・南部がEU編入を求め、工業地帯の東部・北部がロシアとの協調を望んでいるのは、前述したような歴史的経緯が大きく影響していると筆者は考えている。工業地帯としてロシア社会主義革命のウクライナにおける根拠地となり、「革命に貢献」した東部・北部に対し、農業地帯として社会主義政権から「征服」対象とされ、スターリン時代には穀物供出に非協力的として意図的な飢餓政策の刃が向けられた西部・南部。放射能汚染による被害は工業製品よりも農産物に大きく表れる(工業製品は放射能汚染されていても「口に入れるわけではない」からある程度割り切ることもできる)ため、チェルノブイリ事故の政治的「懲罰」としての効果も西部・南部でより大きなものとなった。こうした歴史が繰り返されれば、「ソ連時代は迫害されるだけで何もいいことがなかった」という感情が西部・南部の住民に芽生え、今回の混乱を機にロシアから離れようとする遠心力として機能するのは不思議なことではない。

 新欧米の野党が政権を担った場合、ヤヌコビッチ氏の政敵であり、野党「祖国」の指導者であったユリア・ティモシェンコ氏が首相に返り咲く可能性がある。この人物は、親露政権が倒れ、新欧米政権に変わった2004年の「オレンジ革命」の象徴としてもてはやされたが、ソ連崩壊に乗じてガス会社の利権に関与し、莫大な富を築いたとも言われており、お世辞にも潔白とはいえない。「腐敗したヤヌコビッチ強権政治」から「腐敗したティモシェンコ新自由主義政治」に変わることが市民に利益をもたらすとは思えない。新欧米政権の下で格差が拡大し、数年後か数十年後に「いま振り返れば、経済格差が少なかっただけヤヌコビッチ時代のほうがましだった」などと総括されることにもなりかねない。

 日本としては、ウクライナの市民が自分で決めることであり、当面、静観すべきだろう。日本国内ではあまり報道されていないが、ソチ五輪と前後して日本とロシアの関係は比較的安定的に推移している。原発事故を受けて日本のエネルギー危機を感じ取ったのか、サハリン~北海道間に天然ガスのパイプラインを通すよう求める提案のほか、サハリンから北海道に電力線を通し、ロシアから電力供給をしてもよいとの提案もあり、北海道では道庁に勉強会が設けられる方向だという。サハリンのアイスホッケーチームから北海道のチームに「親善試合」の申し入れがあるなど、民間交流も活発になってきている。

 こうしたロシアとの関係に配慮しながら、原発事故の被害の克服に取り組んできた「先達」として、ウクライナ、ベラルーシとの交流を進めていくことも必要だ。日本、ウクライナ、ベラルーシの市民が手を携えて、国際原子力ムラと闘っていくことが、いま最も求められる課題である。

<参考資料・文献>
 本稿執筆に当たっては、文中に紹介したイワン・ゴドレフスキー氏らによるチェルノブイリ健康被害の調査報告書「ウクライナ・ルギヌイ地区住民の健康状態」のほか、「ソ連経済の歴史的転換はなるか」(セルゲイ・ブラギンスキー、ヴィタリー・シュヴィドコー共著、講談社現代新書、1991年)を参考にしました。

(黒鉄好・2014年3月1日)

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