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<北海道から>核のごみ処分地応募問題 寿都町では住民投票条例否決 一連の問題から見えてきた「核と共存する戦後史」の最終局面

2020-11-23 11:11:03 | 原発問題/一般
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2020年12月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。なお、管理人の判断で「原発問題/一般」カテゴリでの掲載としました。)

 寿都町、神恵内村の核のごみ処分地問題は、両自治体が応募に踏み切ったことで新たな局面を迎えた。事業実施主体のNUMO(原子力発電環境整備機構)は経産省に文献調査を申請。11月17日に許可されるとその日のうちに都内の事務所で文献調査を開始した。核のごみをめぐって実際に調査が始まるのは史上初めてとなる。8月13日、寿都町長による応募表明から3ヶ月。そのあまりの手際の良さには、応募推進派からも戸惑いの声が上がるほどだ。今、この3ヶ月を振り返ってみると、国は2006年、高知県東洋町での応募「取り下げ」による失敗を踏まえ、10年以上かけて周到に準備を進めてきたのだということに改めて気づかされる。

 ●寿都町内はじめ道内で闘い続く

 「子どもたちに核のゴミのない寿都を! 町民の会」が「町長の“肌感覚”ではなく民意を確認してほしい」として、法定数の3.5倍に当たる署名を添え、住民投票条例制定を求める直接請求を10月23日に行ったことは前号で報じた。条例には応募の張本人、片岡春雄町長が住民投票について「現時点では行う必要がない」として反対の意見書を付けて議会(定数10)に付議。11月13日の採決では議長除く9人のうち賛成4、反対4、棄権1の可否同数となり、町長派の議長が否決した。せめて住民の意思を聴くよう求める反対派の最後の要求も葬り去られた。だが、反対派がいても1人か2人、残る大多数の原子力推進派は賛成討論すらせず原子力ムラの要求や請願を追認するだけという原発立地地域の「議会の死」をさんざん見せつけられてきた筆者にとって、この日の寿都町議会が可否同数、議長裁決による否決だったことは、両派の勢力が拮抗していることを意味するものでもあり、今後への展望ものぞかせた。応募反対派は漁協関係者を中心とする漁業者や共産党議員で、原子力ムラの切り崩し工作には屈しない固い決意を持った人たちだ。

 町民の会は、住民投票条例否決に当たって「町長リコール(解職請求)を目指す」と早くも次を見据える。全有権者の50分の1の署名で可能な住民投票条例制定のための直接請求と異なり、全有権者の3分の1の署名という高いハードルが課せられるリコール。人口3千人の寿都町で千筆の署名は困難との見方もあるが、応募表明を受け、8月、漁協が中心となって集めた反対署名は1ヶ月足らずで700筆を集めた。今後、調査が進むことに伴う町民の危機感と「片岡独裁」への反感が強まれば、下馬評を覆して法定数を突破することもあり得る。リコール署名が不成立に終わった場合でも、前回選挙(無投票)が2017年だった町長は来年(2021年)に改選を迎える。町民の会はリコールと並行して、この間、無投票が続いてきた町長選への候補者選定を進める構えだ。

 来年、反対派から候補者が現れる可能性はあるのか。筆者は10月25日、札幌市内で開催されたシンポジウム「核のごみ、受け入れていいの?」に取材を兼ねて参加したが、パネリストによる討論終了後、客席から中年男性が声を上げた。「私は寿都町出身で、今札幌で仕事をしている。話を聞いているうちに、札幌で仕事などしている場合ではないと危機感を持つようになった。このまま核のごみが来たら、私には帰るべきふるさともなくなる。そうなる前に仕事を辞めて寿都に戻り、町長選に立候補する方がいいかもしれない」。

 町民の会にも、槌谷和幸さん(前号参照)のように、臆せず名前と顔を出して活動を始めた人もいる。対抗馬が立つ可能性はそれなりにありそうだ。

 ●小泉元首相、前東洋町長講演会も

 その後も道内では断続的に核のごみ反対の闘いが続いている。10月29日、道内で原発訴訟に取り組んできた山本行雄弁護士を招いて札幌市内で開催された講演会では、「小さな地元自治体と国がタッグを組めば、受け入れ拒否条例を制定している道庁と道議会の頭越しに応募を決めることができ、止める手段もない。法律を住民本位に変えなければならない」として、原子力推進ありきの法体系を変える必要性が指摘された。山本弁護士はまた「北海道開発予算は国が編成し、事業を実施する各省庁に直接配分する。道庁は道のことなのに予算編成にすら関与できず、原子力に頼らないまちづくりをしたくてもできない」と述べ、予算編成自主権を取り戻すことも北海道の脱原発実現のために必要なことだと指摘した。

 この開発予算方式は、全国でも北海道と沖縄にだけ採用されている特殊なものだ。かつて北海道開発庁、沖縄開発庁があった時代の名残とされるが、沖縄ではこの方式のために基地関連予算が国によって勝手に編成され、地元が基地反対を続けても基地建設が止められない原因と指摘されている。要するに北海道、沖縄を「外地」「国内植民地」扱いし、予算編成自主権を制限するための方式なのだ。北海道の原子力脱却のためには、沖縄の基地脱却とともに、日本の両端に位置する両道県が「本土並み」の予算編成自主権を取り戻さなければならないという新たな課題も浮上した。

 寿都町内では、住民の会の招きで訪れた小泉純一郎元首相が11月3日に講演。「日本は地震や火山が多く、最終処分場の適地はない。処分場が作れない日本で原発を動かしてはならない」「自分の首相在任中は原発が絶対安全だと説明に来る経産省にだまされていた。自分が誤りだとわかったら改めることに躊躇してはならない」と訴えた。小泉元首相が推進した郵政民営化や派遣労働全面解禁などの新自由主義的規制緩和に対しては、筆者は今なお言いたいことは山ほどある。ただ原子力政策に対してだけは、福島原発事故後ぶれずに一貫して「即時全原発廃炉」を訴える活動を続けている。講演会に参加した黒松内町の主婦成田志津代さん(72)は「首相まで務めた人が原発政策の間違いに気付き、それを正そうとする思いに共感した」と振り返った。

 これに先立つ11月2日には、核のごみ処分地への応募を取り下げた沢山保太郎・前高知県東洋町長が札幌市内で講演し「核のごみの危険性を知ってほしい。単なる産業廃棄物とは違う」と訴えた。

 それにしても、相変わらず解せないのは片岡町長の姿勢だ。応募に当たって「私も核のごみのことには詳しくないので、応募して一緒に勉強しましょう」と町民に呼びかけながら、町民の会が行った町営施設での小泉元首相講演会のチラシ配布に圧力を加え中止させようとした。町民からの抗議を受けてチラシ配布を認めたものの自身は不参加。一方で、道議会の自民党会派が行った応募推進側の勉強会には多忙な公務の合間を縫って出席するなど一方的な姿勢を続ける。反対派の「勉強」は認めず、自分だけせっせと推進側と勉強にいそしむ。推進の勉強しかしたくないと言うのであれば、住民全体の奉仕者であるべき町長として不適格だからリコールを待たず今すぐ辞職すべきだ。くどいと言われるかもしれないが、筆者は町長が辞めるまで、何億回でも辞職勧告を発し続けたいと思う。

 北海道内の反原発運動団体の中心的存在である「Shut泊」「泊原発の廃炉をめざす会」のほか、自然保護団体、護憲団体、労働組合など約70団体で構成する「泊原発を稼働させない北海道連絡会」は11月14日、札幌市内で会合を開き、「核ごみ問題を考える北海道会議(仮称)」を設立することで合意した。今後、核のごみ問題を活動の中心に据えるため名称も「泊原発を稼働させない・核ゴミを持ち込ませない北海道連絡会」に改称する。「子どもたちに核のゴミのない寿都を! 町民の会」もメンバーとなり、今後の調査阻止のため連携していくことを確認した。

 ●私たちはどこにいるのか? ~「総合的、俯瞰的」に考える

 筆者は数年前、小泉元首相の講演会を札幌市で聴いたことがある。原発推進への反省とともに、元首相が必ず口にするのが次のような疑問だ。「廃棄物処理法の規定によって、一般産業廃棄物は処理業の許可申請する事業者があらかじめ処分場を確保し、その事実を証明する書面を添えて初めて事業認可が下りる。それなのに、最悪の危険物である核のごみを稼働のたびに生み出す原発が、なぜ処分場の確保もしないまま建設や運転を許可されているのか」。軽視はできないものの、核のごみと比べれば危険性は「子ども騙し」レベルである一般産業廃棄物でこれだけ厳重な規制体制が採られているのに、最悪の核のごみを生む原発が事前の処分場確保もないまま運転を許可されているのはあまりに不公平との指摘には説得力がある。実際、福島原発事故から間もない時期、筆者が原発関連の講演を行うと、決まって上がるのはこうした疑問の声だった。

 結論から先に言ってしまえば、「原発それ自体が核開発の後始末として始まったもので検討するだけの時間的猶予がなかったから」である。核兵器の開発は早くも第2次大戦中から始まっており、最も有名なのが米国のマンハッタン計画であろう。戦後に入ると、ソ連、英国、フランス、中国などが相次いで核実験に成功。東西冷戦を背景とした東西両陣営の核開発競争は、1963年のキューバ危機を契機に人類を滅亡寸前に追いやった。同じ年、大気圏内核実験を禁じる部分的核実験禁止条約が発効する。核実験で出る放射性物質が、人類はじめ地球環境にとって破滅的であるとの認識が広がったためだ。

 核開発の過程で出るウランやプルトニウムは、加工すれば核兵器の原料になり得るものがいくつもある。戦後早い段階で核保有に成功した国々は、政情不安定で核管理の資質を欠くとみられる国々へのこうした物質の拡散を恐れるようになった。1953年、ドワイト・アイゼンハワー米大統領が国連総会で演説、“Atoms for Peace”(原子力のいわゆる「平和利用」)を訴える。この演説を受け「核物質拡散防止」のためにIAEA(国際原子力機関)が設立される。これにより人類は核兵器の原料となり得る放射性物質を「適切に管理」しつつ、それとの共存を余儀なくされるという新しい局面を迎えるのである。

 こうした放射性物質を減らすための一方法として各国が導入を推進したのが原子力発電だった。原子力発電は核兵器開発の後始末として産み落とされたのである。もともとそれ自体が後始末なのだから、さらにそこから出る核のごみの後始末など考える時間的余裕はなかった。これが小泉元首相の疑問に対する筆者からの回答である。

 寿都町や神恵内村で今起きていることは「後始末の、そのまたさらに後始末」という文字通りの最終局面である。核兵器を抱いて眠ることを余儀なくされてきた人類の戦後史が、核からの解放という新しい時代への入口に立ったという意味では楽観はできないが悲観一辺倒でもないのかもしれない。

 しかし、核のごみはいったん受け入れてしまえば、そこが最終処分場となる危険性もはらむ。世界中からありとあらゆるものが持ち込まれ、「ごみの坩堝」となる可能性は否定できない。それがなぜ世界最初の原爆と、世界で3度目の商業用原発の事故という惨禍を経験した日本の、それも辺境の地である北海道でなければならないのかについて、納得のいく回答が示される気配はない。NUMOや応募推進派は「原子力発電の恩恵を受けてきた地域全体で考えていくべきだ」「誰かが責任を引き受けるべきだ」と自分たちの「人類最悪レベルの無責任」を棚に上げて道民を脅しているが、筆者はそんな脅しに屈するつもりはない。

 では核のごみは誰の責任で処理すべきか? ここまで本稿をお読みになった皆さんにはもはや説明など要しないであろう。「そもそも核兵器開発の後始末として始まった核のごみ問題なのだから核兵器開発に手を染めた国々が責任を持つべきだ」が筆者の回答である。世界中の原発から出た核のごみは、核保有国にすべて着払いで送りつければよい。北海道も、そして日本も自分たちだけで背負い込む必要などない。

(2020年11月22日)

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【転載記事】自死に追いやられた仲間のことを忘れない!〜民営化の旗を振った中曽根康弘氏の国営の葬式

2020-11-01 19:23:36 | 鉄道・公共交通/交通政策
以下の記事は、「レイバーネット日本」に掲載されたもので、執筆者は国労組合員だった久下格さんです。久下さんは、関西出身ですが、上京し国鉄に就職。国労に所属しました。

分割民営化当時、JR本州3社(東日本・東海・西日本)では希望退職への応募者が多すぎ、定員割れでの会社発足となったため、解雇すると決めたはずの国労組合員らを一転して採用せざるを得ない事態となりました。

久下さんも、そのような形でJR東日本に生き残った方です。採用後は国労所属のまま定年まで勤めました。民営化後も、他の組合に所属する労働者との間で不当な差別を受け続けながら、最後まで国労一筋の人生を貫きました。

国策だった国鉄分割民営化に反対した国労組合員らに、どんな残酷な攻撃が仕掛けられたか、内部からの貴重な証言です。こんな残酷な攻撃を伴ってまで強行された国鉄「改革」によって、今も北海道では毎年、赤字路線が消えています。国労組合員へのこの残酷な攻撃は「生産性のない土地に住んでいる者に人権はない」として北海道民にかけられている「生活路線強奪攻撃」と同じなのです。

なお、以下のリンク先(レイバーネット日本)では写真を含む全内容を見ることができます。

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民営化の旗を振った中曽根康弘氏の国営の葬式
久下格(元国鉄労働組合員)

 昨年11月に中曽根康弘氏が死んだとき、朝日新聞の記者から取材を受けた。編集委員のTさんという女性が、わざわざ東京から京都の片田舎まで会いに来てくれたのは、その前年に私が、国鉄分割・民営化のときに車掌の仕事から排除され、本来の仕事から排除されたまま、56歳で死ぬまで30年間働き続けた後輩のことを書いた「品川駅の花壇」という文章を読んでくれていたからだった。その時、彼女は「中曽根康弘氏が亡くなりましたが、どのような感慨をお持ちですか」と私に聞いた。

 中曽根氏が101歳で大往生を遂げたことは大きく報道されており、もちろん私は新聞記事も読んでいたが、実のところ私には、ああ、中曽根氏もついに死んだかという淡い思いは浮かんだけれど、それ以上に大きな感情は湧いていなかった。だから私はT記者から「どのような感慨をおもちですか」と聞かれて少し困ってしまった。「うーん、もちろん死んだという記事は読みましたが、なぜか、そんなに大きな感慨はないですね…」と答えたが、これではT記者の期待したコメントにはならないだろうと、申し訳ない気持ちがした。中曽根氏が国鉄など公営企業の民営化政策の旗を振り、それに反対する国鉄労働組合をつぶすために、国家権力を総動員して攻め込んできたのは1980年代なかば。もう35年まえのことだった。たしかに、中曽根氏はその当時、私たちの人生を大きく狂わせた国家権力の頂点にいた、いわば敵の総大将ではあったが、しかし、私たちは私たちなりにその時代を生き延びて、前を向いて生きてきたのだ。往年の敵の大将が死んだからといって、私の心はもうそんなに揺れなかった。

 北海道や九州で、25年間の解雇撤回闘争を闘った元国労闘争団員のインタビューも新聞に載ったけれど、やはり彼らも「死んでも許せない。憎い。」というようなことは述べていなかった。彼らもまたそれなりに生き延びて、自分たちの人生を前を向いて生きようとしているのだ、と、私には思えた。死んでしまえば、権力者も一介の労働者もない。中曽根は死んだが俺たちはもう少し生きよう…と、私はその時、そう思ったのだった。

 しかし、今から思えば私は甘かったのだ。10月17日に行われた中曽根康弘氏の巨大な葬式の様子を見て、あのとき、私はもっとしっかりした意見をT記者に述べておくべきだったと後悔した。

 「本日ここに、従一位大勲位菊花章頸飾(けいしょく)、元内閣総理大臣、元自由民主党総裁、故中曽根康弘先生の内閣・自由民主党合同葬儀が行われるに当たり、謹んで追悼の辞を捧げます。…」

 コロナ禍のために半年延期された中曽根氏の葬式が、国と自民党の合同葬として東京・高輪のグランドプリンスホテル新高輪で行われ、菅総理大臣の弔辞が厳かに読み上げられた。巨大な祭壇には巨大な遺影とともに、天皇から親授された最高勲章をはじめとする勲章の数々が並べられていた。当初、4千人と計画された参列者はコロナ感染を予防するため大幅に縮小されたが、それでも1400人が参列すると報道されていた。葬儀にかかる費用、1億9千万円は政府と自民党で折半され、9600万円が国費から支出された。

 葬式はけっして死者のためのものではない。それは死者を葬る生者のためにある儀式だ。首都東京のもっとも格式あるホテルで、巨費を投じて行われたいわば国営の葬式は、この国が誰のものであるのか、この国を支配する者たちが、国家をどのような道に導こうとしているかを内外に厳かに宣言する、中曽根康弘氏の後継者たちによる一大セレモニーだった。

 「…先生は次世代に向け、全身全霊を傾けて新しい道を切り開かれました。…行政の肥大化を抑制し、民間の自由な創意を発揮させるとの観点から、日本国有鉄道の分割・民営化や、日本専売公社及び日本電信電話公社の民営化を断行されました。
 また、増税なき財政再建の基本理念の下、行政経費の節減、予算の効率化を図るなど、経費の徹底的な節減合理化と財政の健全化を強力に推し進められました。」

 弔辞のなかで菅首相はこのように述べて、国鉄の分割・民営化を中心とする民営化政策が中曽根康弘氏の最大の功績であったことを誇示し、「改革の精神を受け継ぎ、国政に全力を傾けることをお誓い申し上げて、お別れの言葉といたします。どうか安らかにお眠りください。」と弔辞を締めくくった。

 中曽根康弘氏の巨大な葬式の様子が報道されたとき、私は、今から35年前に行われたある国労組合員の葬式を思い出さずにはいられなかった。1985年、31歳の私は働いていた駅から引き剥がされて、国鉄当局が作った隔離職場に収容されていたが、元の職場の山手線の駅で働いていた仲間の葬式のことだ。当時、中曽根政権下では国鉄当局による凄まじい組合攻撃が吹き荒れていた。行方不明の売上金3万円を横領したと疑われた気の優しいS先輩は、身に覚えがないといくら弁明しても受け入れられず、出札の仕事から外され、連日、監禁されて事情聴取と称する取り調べを受けた。監禁を解かれるためには「横領を認める」しかS氏には道がなかった。「いくら言っても信じてくれない。疲れた」という弱々しい一言だけを残してS氏は自殺したのだった。当局は当時、隙があれば、どんな手を使っても国労組合員を恫喝し、屈服させ、切り崩そうと躍起になっていた。

 自死した者の葬式は、生き残った者には耐えがたいものだが、国労はS氏の葬式を組合の手で行うことを決めた。小さな葬式だった。山手線の駅を組織する国労新橋支部は、通夜と告別式の両日、黒い喪章を制服につけて勤務する「喪章闘争」を組合員に指令した。当局の切り崩しで喪章をつけられない駅も多かったが、まだ過半数を組織している駅では切り崩しを跳ね返して、喪章をつけて働いた職場もあった。

 仲間が殺されたのだ。私たちは負けるわけにはいかなかった。

 組合の手で行われた葬式に、S氏に対して連日の「事情聴取」を繰り返した責任者である駅長と首席助役が来た。「何をしに来た。お前たちが殺したのだ。あやまれ」と組合員に追及されて、彼らは早々に引き揚げたのだが、後日、「管理者に暴言を浴びせた」という理由で、追及の先頭に立った何人かに処分が発令された。

 国鉄の分割・民営化と国労解体攻撃のなかでは、100人とも200人とも言われる労働者が自死している。全国にはたくさんのS氏がいた。中曽根康弘氏の「功績」である「国鉄分割・民営化」と「戦後政治の総決算」が、このようなことを通じて達成されたことを、私は死ぬまで忘れない。

 「民営化の旗を振った中曽根の葬式が国営なんて笑い話ね」と言ったのはある友人だが、本当にその通りだ。コロナ禍で人びとが困窮し、明日の暮らしさえおぼつかない中で、人びとの困難をあざ笑うように、支配する者は1億9千万円をかけた葬式を挙行して人びとを睥睨している。

 「行政経費の節減、予算の効率化を図るなど、経費の徹底的な節減合理化と財政の健全化を強力に推し進められました。」

 菅首相が弔辞の中で述べた「行政改革の理念」は支配階級には適用されないのだ。

 『国鉄労使国賊論』という本がベストセラーになり、国鉄の赤字が国家を破綻させかねないという宣伝が国中を覆っていたとき、中曽根氏の肝いりでつくられた臨時行政調査会は「増税なき財政再建」という旗を振って公営企業の解体を迫っていた。あの時の約束はどうなったのか? 確かに法人税は引き下げられて大企業の税負担は軽減されてきたが、人びとの反対を押し切って導入された3%の消費税は今や10%となり、そして「増税なき財政再建」の旗を振っていた当の本人たちは、今や「消費税をさらに引き上げねばならない」と公言してはばからないでいる。要するに彼らは、自分たちにかかる税が引き下げられればよかったのだ。国家を破綻させると宣伝された25兆円の国鉄累積赤字は、「国民負担」という名目で国家の帳簿に赤く書き込まれて、1千兆円といわれる「国家債務」のなかに紛れ込まされてしまった。いったい、すでに40年間以上続いている「国家財政危機」の宣伝は果たして本当なのだろうか? 市井の人びとから奪い取り、富める者たちがさらに富んでいくための壮大なプロパガンダだったのではないのか?

 われわれが中曽根氏との争いに敗れ、国鉄が解体され、国鉄労働組合が少数に追い込まれた80年代なかば以降、彼らは「国家を危機にさらす敵」を次々につくりだしては、人びとをけしかけて社会を荒廃させてきた。公務員バッシング、「在日特権」バッシング、生活保護バッシング…。そして中国や朝鮮・韓国への排外的宣伝。残念ながら、われわれは、社会に存在する紐帯を次々と破壊し、社会のすべてを市場経済にゆだねる新自由主義と呼ばれる手法を止めることができないでいる。

 鈍色(にびいろ)の外套を身にまとい兵帽をかぶった数百人の兵士が、長く続く葬祭場への道の両側に整列している写真を見て私は戦慄した。ネットメディアだけが伝え、大手マスコミは伝えることのなかったその光景は、まるでSFの世界の帝国のありさまにも見えたが、それはけっして架空ではない2020年の日本国の姿だった。中曽根氏の葬式を警護していた兵士たちは、いったい誰を威圧し、誰から誰を守ろうとしていたのか。私は、今はまだ武器を持たぬ兵列の肩に小銃が担われる日が来ることを心底恐れる。

 目端の利く者は次々と中曽根氏の引いた路線にすり寄っていく。しかし、私はいつも穏やかに笑っていたS先輩を殺した中曽根康弘氏と、後継者たちのやり口を決して忘れないでおこう。私は、兵列に守られた1億9千万円の中曽根氏の葬式に、自死に追いやられた仲間の悔しさを思い、皆が涙したあの小さな葬式の記憶を対峙させよう。

 架空の「敵」に向かって人びとが扇動され、人びとが人びとを追いつめる荒廃した社会はいつか終わる。すべての人びとが、助け合い手を繋ぎ、穏やかに暮らせる日が来る。仲間を信じて、仲間と共に生きようとする人々がいるかぎりその日は必ず来る。

 私は私自身を鼓舞している。

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