安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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【鉄ちゃんのつぶや記 第18号】組織、個人、そして団結

2004-07-01 22:48:07 | 鉄道・公共交通/交通政策
 やや古くなるが、「おじちゃま通信」No.53「経営者よ!団結権を独り占めするな!」を読んでいろいろ考えさせられた。「団結」「連帯」という言葉が、マイナスの響きを持って捉えられることが最近多くなって来た…との指摘はそのとおりだと思う。先日、私が参加した神奈川団結まつりの時も、「何のイベントだろう?」「団結…組合?」と言いながら冷淡に通り過ぎてゆく若い男性2人組を私は見逃さなかった。労働運動など現代の若者にとってはただシニシズムの対象でしかないかのようだ!

 団結、連帯、統一といったスローガンはいつからこんなに貶められるようになったのだろう? なぜこんなにも疎んじられるようになったのだろう?

 私たちが団結といえば、普通は組織を連想する。そして「組織」と聞けば、事務所があって、看板が掛かっていて、扉を開けると机や電話やパソコンがあって、奥から事務員さんが応対に出てくる様子を連想してしまう。だが、そんなに格式張ったものでなくても、人間が2人集まればそれはすでに組織である。家族だって組織だし、友達同士であっても、先生と生徒でも立派な組織である。カップルだって組織だから、デートはいわば「組織活動」ということになる。お互いに愛し合う彼氏と彼女が、カップルという旗の下に「団結」して組織を作っているわけだ。

あるカップルが、「組織活動」の一環として喫茶店に入ったとしよう。そこで彼氏が先にコーヒーを注文する。この時彼女はどうするだろうか?「私もコーヒー」という女性もいるだろうし、「私はミルクティーがいい」と別の物を注文する女性もいるだろう。

 前者の場合は置くとして、私がここで取り上げたいのは後者のタイプである。この時、彼女が彼氏と別の物を注文したからといって、彼女がこのカップルの「統一と団結」を破壊したことになるだろうか? 彼女が「悪辣な組織破壊者であり、分裂主義者であり、敵対分子である」などということがあり得るだろうか? そんなことはあり得ないのであって、お互いが違う物を注文しても、2人に愛がある限り、2人はカップルとして「統一と団結」を維持することができるのだ。

 カップルである以上、デートを楽しむという“運動方針”はしっかり確立されていなければならない。しかし、その方針がきちんと確立されたなら、“組織活動”中にコーヒーを注文するか、ミルクティーを注文するかは個人の意思に基づいて決定されるという“党内民主主義”もきちんと守られる必要がある。しかし、日本の既存の組織はそうではなかった。労働組合も、労働者の解放を目指す革命政党も、すべて指導部がメンバーを官僚的に代行することが日常だった。指導部は、まるで自分が全知全能の神ででもあるかのように、自分がコーヒーを注文したいと思っているのだから相手もそう思っているに違いないと頑なに信じ、ご親切にも彼女の分のコーヒーまで一緒に注文してあげるのだ。彼女はほんとうは別の物を望んでいたのに!

 人間らしく生きること。それには人間ひとりひとりの気持ちをお互いが尊重することに尽きる。何も難しいことではない。好きな物を飲み食いし、好きなことを言い、自分らしい服を着る。自分なりのやり方で輝く存在であろうとする他者を認める。ただそれだけのことなのだが、「それだけのこと」をきちんと実践できている組織がこの国のどこにあるだろうか。組合員の気持ちを考えない労働組合。労働者の気持ちを考えない裁判所。国民の気持ちを考えない政府…。

 しかし、こんな世の中になってしまったのは私たち自身の責任でもある。話を振り出しに戻してしまうようで申し訳ないけれど、実際には人間が2人以上集まったとき、それを組織と呼ぶに過ぎないのだから組織の問題とは結局ひとりひとりの問題である。彼女の気持ちを考えずに勝手にコーヒーを注文してあげる指導部は確かに問題かもしれないが、一方で人間は自分の思考回路の中でしか物事を考えることができない、想像力の欠如した存在でもある。相手が何を考えているのかわからないとき、人は相手を自分に置き換えて自分だったらどうするかを考える。相手がミルクティーを飲みたいと思っていても、それを口に出して伝えなければ相手は自分に置き換えて自分の思考回路の中で考え、そしてコーヒーに決定してしまうのである。

 だから、組織に絡め取られたくなかったら声を挙げよう。異端児と呼ばれようと、変人扱いされようと。しょせん相手は自分ではないのだから、自分の気持ちなんて伝える努力もしないで伝わるわけがない。

 お互いが何でも言いたいことを言ってみて、それでも一緒にいたいと思う相手なら、その愛は本物だから統一と団結を思う存分打ち固めればいい。そんなにしてまで一緒にいたくないという相手だったとしたら、思い切って別れ、またパートナー探しの旅に出ればいい。きっとまた素敵な出会いがあるに違いない。

(2004/7/1・特急たから)

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