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歌手の守屋浩さんが19日静岡県内の施設でおなくなりになったそうです。
前立腺がんと書かれています。81歳との事で少し早いのかなーとの気があります。この方も守屋浩さんと聞いただけで「僕は無い泣いちっち」という曲をすぐ思い出しましたから、その頃すごく流行ったのだと思います。
1959年のことだそうです。
偉いなーと思ったのは以下の経歴にもあるように歌手として大ヒットを飛ばしただけでなく、その後ホリプロのホリプロの社員となり「ホリプロ他店とスカウトキャラバン」を発案し、榊原や堀ちえみ(53)らを発掘した。
中々若いころ成功して最後を家族にも取られて無くなる方は少ない気がしています。2年くらい早い気がしますが、98点くらいの人生でしょうか?!
ご冥福をお祈りします。 合掌
写真:若いころの守屋浩さん
スポニチアネックス:
「僕は泣いちっち」などのヒット曲で知られる歌手の守屋浩(もりや・ひろし、本名・守屋邦彦=くにひこ)さんが19日午後7時ごろ、静岡県内の施設で前立腺がんのため死去した。81歳。千葉県出身。大手芸能事務所ホリプロの第1号タレントで、1960年からNHK紅白歌合戦に4年連続で出場。76年の引退後はホリプロの社員となり「ホリプロタレントスカウトキャラバン」を発案。榊原郁恵(61)ら多くのアイドルを輩出した。 守屋さんは2年ほど前から前立腺がんと闘っていた。関係者によると、約1カ月前に静岡県内の施設に入り、19日夜に家族にみとられて静かに息を引き取った。翌20日は82歳の誕生日だった。22日に同県伊東市内で家族葬が営まれ、荼毘(だび)に付された。 守屋さんのデビューはホリプロの歴史でもある。1957年、ロカビリーバンド「スウィング・ウエスト」にバンドボーイとして入ったが、翌58年にボーカルが退団。リーダーの堀威夫氏(87)が代役として日劇ウエスタンカーニバルのステージに立たせたところ、女性客から大歓声を浴び、一気に正式メンバーとなった。 59年にソロデビューし、翌60年に堀氏が設立した堀プロダクション(現ホリプロ)の第1号タレントとなった。芸名の「守屋浩」は堀氏の提案。当時、井上ひろし、水原弘と「ひろし」が活躍していたためで、後に「3人ひろし」と呼ばれるようになった。 長い脚の爽やかなルックスに独特のハスキーボイス。代表曲は「僕は泣いちっち」(59年発売)。上京した恋人への思いを、♪僕の恋人 東京へ行っちっち――とユニークな表現で歌い大ヒット。昭和を代表する作詞作曲家の浜口庫之助さんの出世作にもなった。翌60年には映画化され、80年代後半になっても志村けんさん(今年3月他界)がフジテレビ「志村けんのだいじょうぶだぁ」で替え歌を披露するなど、長く愛されている名曲だ。 NHK紅白歌合戦には4年連続で出場。守屋さんは歌手が芝居をする草分けでもあり、59年のフジテレビ開局ドラマ「陽のあたる坂道」をはじめ、映画も計25作出演した。 76年、芸能活動に見切りをつけ、37歳で引退してホリプロに入社。スカウト担当として今も続くオーディション「ホリプロタレントスカウトキャラバン」を発案し、榊原や堀ちえみ(53)らを発掘した。 86年に勤続10年で退社。歌手活動を再開し、その後は伊東市に移り住み、カラオケ教室を開いていた。10年以上前に脳梗塞で倒れたが、リハビリを経て復帰。後遺症にも負けず、テレビの音楽番組ではイスに座って歌うなど活動を続けた。 ◆守屋 浩(もりや・ひろし)本名守屋邦彦。1938年(昭13)9月20日生まれ、千葉県出身。63年に島倉千代子さんとのデュエット曲「星空に両手を」が70万枚を売り上げた。引退後はホリプロで宣伝部長、文化事業部長などを歴任。私生活では67年に歌手の本間千代子と結婚。75年離婚。76年に一般女性と再婚し1男1女をもうけた。 (引用終わり)
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