橋下徹市長は教師評価システムをつくるべき

共通の中間・期末試験を 橋下市長、市教育委員に提案


 大阪市の橋下徹市長は10日、2月議会で市長提案を目指す「教育基本条例案」などをめぐり、市教委の委員6人と市役所内で直接討論。議論がかみ合わずすれ違いとなる場面も目立った。討論の中で橋下市長は、学力の学校間格差を解消するため、現在は市内の学校ごとに個別に作成している中間、期末試験の問題を統一化することの検討を教育委員側に提案した。

 討論で橋下市長は、教育委員が従来、市長との意見交換や市民との意見交換をしてこなかったことを問題視し、「これが形骸化の最たる例。これで、どうやって保護者の感覚を感じるのか。保護者の感覚を教育委員に注入するのが、条例案の肝の部分だ」と詰め寄った。さらに「教育委員が設定している教育目標の、正当性の根拠は何か」と質問を投げかけた。

 委員側は「クラスをみれば、子供の様子は分かる。そこは評価してほしい」「市民の意見も間接的に頂戴し、生かしている。市民の期待や要望に外れてはいない」などと反論した。

 また、条例案では最低評価を2回連続で受けた教員を分限免職の対象とするとしていることについても、委員側は「排除や性悪説の仕組みは先生のモチベーションを下げる」と反論。橋下市長も「では、具体的に(最低評価の)D評価の教員をどうするのか」と再反論するなど、意見のすれ違いもみられた。

 さらに、橋下市長は教育基本条例について「教育目標を知事が設定して責任を持つ部分は政治マター。この部分は条例から切り離す」と発言。府教育委員らの理解を得やすくするため、首長による教育設定の部分を盛り込んだ条例と、学校のマネジメント面を定める条例の2条例に分割する考えもあると説明した。

産経新聞 1月10日(火)15時24分配信

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 橋元市長が大阪市教育委員6人と真っ向勝負の討論したことに大拍手だ。政治家で真摯に教育に取り組んでいる人間は橋下市長以外にいない。

 橋下市長の「教育委員が設定している教育目標の、正当性の根拠は何か」という質問に教委は
「クラスをみれば、子供の様子は分かる。そこは評価してほしい」の答えているが、教委の答えを信用するべきではない。橋下市長だけでなく維新の会の議員も直接学校に行き、現場調査をするべきだ。教育委員のその場しのぎの弁解を許してはならない。

 委員の「市民の意見も間接的に頂戴し、生かしている。市民の期待や要望に外れてはいない」いいわけであり、信用できる話ではない。橋下市長は「間接的に頂戴し」とは具体的にどんなことなのかを追求したほうがいい。
 教育委員が考えている「市民の期待や要望」とはなにかも具体的にはなんなのかを確かめるべきだ。実際は「市民の期待や要望」を調査はしないで、教育委員の都合のいいように勝手につくってしている可能性が高い。

 条例案が最低評価を2回連続で受けた教員を分限免職の対象とするとしていることに対して、委員側は「排除や性悪説の仕組みは先生のモチベーションを下げる」と反論しているが、それは嘘だ。むしろ、その程度でモチベーションが下がる教師は分限免職の対象にするべきである。
 教師職は競争率が高く、ペーパーテストで高い点数を取る人間が教師になる。しかし、生徒を教えるのにペーパーテストで高い点数を取る学力は必要ない。精神的にたくましく、陽気で生徒とのコミニケーションが得意な人間のほうが教師に向いている。

 日本のシステムは教員に向いている人間を採用するようにはなっていないし、不適格な教師を排除するシステムもない。橋下市長は不適格な教師を排除するシステムをつくってほしい。
「では、具体的に(最低評価の)D評価の教員をどうするのか」に対する有効な答えを教育委員が出せなかったら、教育委員が的確な方法を提案するまでは維新案を条例にしたほうがいい。

 フィンランドでは厳しい教育実習を徹底して行う。七人前後の小学一年生に個人指導する教育
実習で、Aの子どもを学習指導しているときに、Bの子どもが手を上げた。ところが実習生はA
の子どもにうまく教えることができなくて、Bの子どもを教えることができなかった。授業が終
わるとBの子どもは実習生を非難し、実習生は自信喪失をして嘆いていた。

 フィンランドの授業は個人指導が中心であり、生徒が納得できる授業をしなければ一人前の教師とはいえない。小学一年生から徹底した生徒中心の教育をしている。
 橋下市長が、最低評価を2回連続で受けた教員を分限免職の対象とする目的をフィンランドでは個人指導を徹底してやることと、子どもが教師を評価することで実現している。

  教師の評価は絶対にやるべきである。学習塾や私立学校はすでにやっている。  




橋下市長「不適格教員、保護者に申し立て権を」


 大阪市の教育委員と意見交換する橋下徹市長(奥)=伊東広路撮影 大阪市の橋下徹市長は10日、2月議会に提案する教育基本条例案に盛り込む予定の5段階の相対人事評価について、保護者が指導力不足の不適格教員を申し立てる制度を作れば、見直す考えを明らかにした。

 教員全体の5%を相対的に最低ランクに振り分けるやり方には教育現場の反発が強く、代替案を示した形だ。

 市役所で報道陣の取材に答えた。大阪維新の会がまとめた同条例案では、5段階の相対評価を明記し、2年連続最低ランクで改善の見込みがない教員は分限免職対象。橋下市長は「教委が不適格教員を判断する決定権を独占しているのが間違い。保護者サイドに調査権、申し立て権を与えるなら、最低ランクの5%は理由がなくなる」と述べた。

(2012年1月10日12時37分 読売新聞)

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 橋下市長は「教委が不適格教員を判断する決定権を独占しているのが間違い」と述べたがその通りだ。教委が日教組から完全に独立しているのならいいが、実際は日教組の教委への圧力は強い。だから教委は教師に甘い査定をしてしまう。
橋下市長は妥協案として「保護者サイドに調査権、申し立て権を与えるなら、最低ランクの5%は理由がなくなる」と述べたが、第三者が教師の的確性を判断するシステムは絶対につくるべきだ。
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沖縄戦体験者は沖縄戦から一歩も外に踏み出さない




 若い頃、沖縄戦の悲惨さを語り、戦争は二度とあってはならないと主張する沖縄戦体験者に対して、この人たちは本当に戦争に反対なのかと疑問を持ったことがあった。
 彼らは沖縄戦の悲惨なことを語るが、進行中のベトナム戦争についてはなにも語らなかった。ベトナム戦争ほど映像やカメラに収められた戦争はなかった。戦争の残酷な画面が次々とテレビや新聞で報道された。戦争のむごたらしさを文章ではなく映像と写真で報せたのでベトナム戦争の反響は大きく、ベトナム反戦の運動は日本・アメリカだけでなく世界中に広まった。しかし、沖縄戦体験者は沖縄戦の悲惨を訴えるだけで、ベトナム反戦団体と連帯したり、ベトナム反戦を主張することはなかった

 沖縄戦は終わった五年後の1950年に朝鮮戦争が起こっている。朝鮮戦争の犠牲者は全体で300万から400万人といわれ、民間人の犠牲者は100万~200万人といわれている。沖縄の民間人の犠牲者は10万人といわれているが、朝鮮戦争の犠牲者は沖縄戦の10倍以上であった。朝鮮戦争が残酷で悲惨な戦争であったことは容易に想像できる。しかし、沖縄で朝鮮戦争反対の運動は起こっていない。

 1960年に入るとベトナム戦争が始まった。沖縄の戦争体験者は自分の体験から朝鮮戦争やベトナム戦争の悲惨さを予想して、声を大にして朝鮮戦争やベトナム戦争に反対するのが当然であると思ったが、彼らは沖縄戦で体験したことしか話さないし、隣の国で起こっている戦争を無視しながら、戦争は二度とあってはならないと主張した。

 沖縄戦の体験から生まれた反戦・平和主義は、本当に反戦・平和主義なのか。若い頃の私は疑問を持った。沖縄戦はアメリカ軍の圧倒的な軍事力に負けた戦争だった。沖縄戦=負け戦だった。負け戦だったから悲惨な体験をしたといえる。
 伊禮進順さんは「戦は惨めだ」と言っているが、厳密にいうと「戦は惨めだ」ではない。「負け戦は惨めだ」である。「非常、むなしい、人が人じゃ無くなる」のも負け戦だったからである。負け戦だったから伊禮進順さんは「戦争を二度とやっちゃいけない」と思うようになったのである。

 戦争はなぜやるのか。日本の起こした戦争はなにが目的だったのか。なぜ。日本はアメリカに戦争を仕掛けたのか。朝鮮戦争、ベツナム戦争はなぜ起こったのか・・・伊禮進順さんは沖縄戦を体験したが、「戦争を二度とやっちゃいけない」の反省で彼の思想は戦争問題に決着をつけた。
 これでは沖縄戦の体験から戦争の本質を追求し、戦争がなくなるためにはどうすればいいのかという肝心な問題に発展させることはできない。

 沖縄戦体験者は自分の戦争体験から一歩も外に出ることをしない。沖縄戦の内側に閉じこもり、普遍的な反戦・平和主義になりきれていない。
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襲い来る名無き者らに恐怖して・1030句~1031句

1030句





1031句






小学生の時から
和歌、短歌、俳句を学校で習う。
中学になると
短歌や俳句を作ったりする。
五七五七七は短歌で
五七五が俳句で、
指を折りながら
字数を数えて
短歌や俳句をつくった。

しかし、
短歌、俳句だけでなく詩などを詠んで
感動することはなかった。
なにも感じなかった。

ところが、
高校一年の時、

山路来て なにやらゆかし すみれ草

という松尾芭蕉の俳句が
すうっと胸に入ってきた。
生まれて初めて俳句に感動した。

近くの山に遊びに行くのが
私は好きだった。
夏に道なき道を歩き回り、
疲れ果て
松の木の下で休憩をしていると
さあーっと風が吹いてきて、
松の枝葉がさわやかに鳴り
気持ちがくつろいでくる。

その体験のイメージが、

山路来て なにやらゆかし すみれ草

を読んだ時に、
さあーっと蘇った。
私が歩いた山路は
俳句の山路とは全然違う山路であり
すみれ草もない。
しかし、この俳句を詠んだ瞬間に
自分の体験が蘇って、
あの時の快感が蘇ったのである。

快感とは なにやらゆかし である。

それから松尾芭蕉に興味を持った。
俳句もちょくちょく書いた。
本当にちょくちょくである。

一年も俳句を書き続けたのは初めてである。
ブログに掲載したからだろう。
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