平敷氏の「文芸時評」批判・上




 平敷氏の文芸時評はいつも社会時評から始まる。いや、社会時評というより政治時評といったほうがいいのではないだろうか。

 書き出しは「日米地位協定の運用改善・・・」である。日米地位協定とは日本政府とアメリカ政府の条約である。どのような条約文が書いてあるのだろうか。

 平敷氏氏は1月の交通事故の遺族や県民が声をあげたから運用改善ができたと述べ、普天間問題、孝枝のヘリバット工事再開、自衛隊の先島配備と書き並べ、それらと連動するのが八重山の教科書採択問題であると延べた後に、八重山教科書問題の核心はさまざまな理不尽を目撃しても声をあげようとしない現場教師にあると結論づけている。その内容は反育鵬社の運動をしているベテラン教師の発言と同じである。

 平敷氏の政治に関する文章は沖教祖などの革新系運動家とまったく同じだ。「なお大半の教師が声もあげずにいる」と述べているのは、若い教員が沖教祖離れしていく現状を嘆いている沖教祖のベテラン幹部のようだ。文芸評論家なら革新政治思想と距離を置いた独自の政治思想があってほしいものであるが、平敷氏はどっぷりと革新政治思想につかった人間のようだ。「いったん採択されたらその教科書をまじめに教え込むのであろう姿を想像するとぞっとする」を読むと、平敷氏が政治的な被害妄想に陥っているのを感じる。

沖縄の詩人、小説家、歌人、評論家は教員や公務員出身が多い。革新政治は文学にも深く浸透している。

 新城兵一氏の詩を紹介している。新城兵一氏は琉大文学出身の詩人である。昔から知っている詩人であるが正直にいうと私は彼の詩が理解できない。彼だけではない。彼の先輩に清田政信という詩人がいて、新城兵一など琉大文学出身の詩人に大きな影響を与えた有名な詩人がいるが、私は清田政信や新城兵一など琉大文学の詩人の詩が理解できない。理解しようと努力したが駄目だった。彼らの詩は難しい。私は琉大文学部に入りたかったが、彼らの詩が怖くて入部することができなかった。

 日本や外国の詩は理解できたのだが、琉大文学の詩人の詩だけは理解できなかった。平敷氏は新城兵一の詩を「東日本大震災について、もっとも根源的かつ原理的な視点から書いた詩である」と述べているが、新城兵一氏の詩が東日本大震災について書いてある詩であると私は感じないし、「根源的かつ原理的な視点」というのがどういうものであるのかさっぱりわからない。

 「大震災をテレビ画面で目にした時、あまりの惨状に絶叫するばかり。そして、一瞬後に襲ったのは、自然の猛威に対する人間の無力と自然へのきょうくであり、次に来たのは、人間はあまりに自然を甘く見すぎた、痛めつけたという、人間の『原罪』にも似た罪への疼きであった」と平敷氏は大震災に対する思いを述べ、「新城が『人間すべからく同罪であり』『文明の病根から・・・自由なものはない』と書くのもそれであろう」と新城氏の詩の解説をしている。

 大震災をテレビで見た時、私は「自然の猛威に対する人間の無力」を感じたのではなく、ただひたすら大震災の猛威のすさまじさに言葉を失った。大震災をテレビで見た人がパニック障害になった人がいると報道していたが、私もどちらかというとパニック障害に陥ったほうである。

 大震災の大津波は想像を絶するものであり現実のものと信じられないがしかし現実であると呆然とするだけで、「人間はあまりに自然を甘く見過ぎた」と考える余裕なんてなかった。
 あの大津波に襲われたら死は避けようがない。しかし、多くの人が生き延びた。私は「人間の無力」よりあの大津波と戦って生き抜いた人間の生へのたくましさのほうを感じた。人間は本能的に死を避け生のほうに目を向ける。

 なぜ、大震災が「人間の『原罪』にも似た罪への疼きであった」のかわからない。人間の「原罪」とはなんだろう。わからない。

「詩は時に、根源を問うことで抽象化し、現実の悪を冤罪する」と新城氏の詩の紹介を締めくくっているが、やはり意味がわからない。「根源を問う」というのはどういうことなのだろう。「根源を問う」の意味がわからないから「根源を問うことで抽象化する」ということが全然わからない。「現実の悪」とはなんだろう。「現実の悪」の意味がわからないから「現実の悪を冤罪する」の意味はますますわからない。
 このような詩は本当は言葉に深い意味はなく、難しい言葉を使って言葉遊びをしているのではないだろうかと思ってしまう。

 平敷氏の政治思想は革新政治思想の昔からのパターン通りの思想であり、平敷氏のオリジナルティーは感じられない。そのような人間が理解している新城氏もまた平敷氏と同類の人間ではないかと思う。
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橋下教育改革に警鐘 池田氏が緊急出版

橋下教育改革に警鐘 池田氏が緊急出版
                    2011年12月1日

 前大阪市教育委員長でジャーナリストの池田知隆さん(62)が、「どうなる!大阪の教育-橋下・教育基本条例案を考える」を緊急出版した。池田さんは、大阪維新の会代表で前府知事の橋下徹氏が進める“橋下教育改革”は管理を強め教育「格差」を助長するとし、「多くの府民に実態を知っていただきたい」と話している。
 「マンガで見る条例案」、精神病理学者で教育に詳しい野田正彰・関西学院大教授へのインタビュー、素朴な疑問を「30のQ&A」方式で解説した「大阪府民のつぶやきにおこたえします」などで構成する。
 さらに「教育委員会は本当にいらないの? 教育の地域性とは何か」をテーマに、教育委員会の政治的な中立性の大切さと重要性を指摘。橋下教育改革の本質は「個人の自由と責任に基づく競争と市場原理を重視する新自由主義的な教育観」との見解を示し、「学校現場に『自由』をもたらすものでなく、むしろ一層の管理・統制と差別化を進めていく」と警鐘を鳴らす。
 資料として「取り返しのつかないことが起きる前に-大阪・教育基本条例案への意見表明」(大阪大学大学院・人間科学研究科・教育環境講座教授・准教授有志一同)「大阪府立高等学校PTA協議会『嘆願書』」「大阪府教育基本条例案(抄録)」などを収録。
 B6判63ページ、定価600円(税込み)。発行は教育出版「フォーラム・A」(大阪市北区兎我野町)。電話06(6365)5606。




 池田氏の視野になくて橋下氏の視野の中にあるのがある。それは生徒と生徒の親の希望である。生徒や親のことを考えない公立の教師が蔓延している事実を池田氏は知らないようだ。

  橋下氏は高校の授業料を公立・私立のわけ隔てなく無料にした。そして、学区制を廃して、どこの高校でも自由に行けるようにした。そして、定員割れが続く高校は他の高校に吸収合併することにした。この制度を一番嫌うのが教師たちである。
今の高校の教師は生徒の成績が悪いのを生徒の責任にする。成績の悪い生徒の学力を上げる気は全然ない。むしろ、邪魔扱いして退学したほうがいいと考えている。
  沖縄の教師は、学力の低い生徒を教えるのは諦めぎみであり、学力の低い生徒は高校に通うよりさっさと社会に出て働いたほうが生徒のためでもあると公言する。草むしりをさせて単位をあげる教師もいるという。学力の低い生徒の成績をあげるのは非常に難しい。大学受験を目指す生徒を教えるより成績の悪いのを教えるほうが難しい。だから、ほとんどの教師は成績の悪い生徒の成績を上げるのに懸命にはならない。なにしろ、公立学校の先生はなまけても一生懸命やっても給料は同じだから、懸命に働くほうがばかばかしいのだ。

  橋下氏は教師の目が生徒に向かわざるをえないシステムをつくった。なにしろ、生徒が気に入らない高校は定員割れしてつぶされるのだ。 池田氏は橋下氏の教育改革を「学校現場に『自由』をもたらすものでなく、むしろ一層の管理・統制と差別化を進めていく」と述べている。池田氏は生徒や親の立場を無視している。生徒や親が厳しい管理と強い統制のある学校に進学したがるだろうか。否だ。いわゆる色々な意味で「いい学校」に生徒も親も行きたいのだ。
教師は生徒や親が気に入る「いい学校」をつくることに懸命になるのであって管理・統制に懸命なるのではない。橋下氏の教育改革は簡単にいえば公立高校を私立高校化することだ。私立高校は入学希望が多い高校にするのを常に心がけている。池田氏は、私立高校ば「学校現場に『自由』をもたらすものでなく、むしろ一層の管理・統制と差別化を進めていく」高校だというのだろうか。池田氏の橋下批判は私立高校、私立大学は悪い学校だと主張しているのと同じである。

池田氏は「教育委員会の政治的な中立性の大切さと重要性を指摘」と述べているが、日教祖が旧社会党系の団体で、高教祖が共産党系の団体であるのを知った上で述べているのだろうか。日教祖、高教祖は政治団体の中でも最強の政治団体である。沖縄では、八重山採択地区協議会が無償給付の教科書を育鵬版に決めただけで、色々な団体の抗議集会を立ち上げて新聞紙上を賑わせ、あっという間に県民集会まで開催して石垣市、与那国町の教育長に猛烈な圧力をかけた。県教育庁にも圧力をかけて、文科省が八重山採択地区協議会の採択が有効であると発表しても、県教育庁は9月8日の全協議が有効であると文科省の指導をはねて、文科省と対立している。
池田氏は沖教祖、日教組の政治力の強さを知らないから「教育委員会の政治的な中立性の大切さ」なんて悠長なことをいうのだ。実は池田氏の主張する「教育の政治的な中立性」を戦後ずっと掲げ続けているのが沖教祖、日教組である。沖教祖、日教組は「教育の政治的な中立性」を盾にして国の教育界への介入を防いて、自分たちの思想を教育に浸透させようとした。そして、政治思想が同じである旧社会党や共産党をバックアップした。民主党の輿石幹事長は日教組のドンと呼ばれた男であるように日教組出身の国会議員は多い(旧社会党、現民主党&社民党)。

橋下氏が目指している教育制度は政治思想に熱心になる教員よりも税金をもらっている公務員という自覚を持たせて市民の要求に応える努力をする教員を増やすことだ。

 正直にいうと、橋下氏の教育改革は暴走気味で不安はある。しかし、今の教育制度より、日教組・高教組が政治介入と呼んで介入を拒絶している「民意」を教育の聖域に投入するべきだ。
 日教祖・高教組が強い地域として沖縄、大阪、北海道が有名である。橋下氏による「民意」の教育改革が成功するかどうか。注意深く見守っていくつもりだ。
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竹盛洋一委員長は憲法26条と教育の良心への裏切り者

八重山地区の公民教科書問題で、東京書籍版の採択を要求する「竹富町の子どもに教科書無償給付を実現させる郡民大会」が29日夜、石垣市健康福祉センターで開かれ、約130人が参加した。

主催者で、竹富町の子どもに真理を教える教科書採択を求める町民の会の仲村貞子世話人代表は「どうして一方は有償で一方は無償なのか。こういうことは絶対に許さない。法の下の平等をこの機会に考えてほしい」とあいさつ。

竹富町の竹盛洋一委員長は、育鵬社版を採択した八重山採択地区協議会の答申に法的拘束力はないと主張、「答申に従わないことに違法性はない。今後もぶれずに初心を貫く」と述べた。教科書選定では、事前に5人の教育委員全員で選定方針を確認し、協議会に代表の委員を送り出していたことも明らかにした。

公開された会議録をもとに、八重山採択地区協議会の審議を再現して批判する寸劇も演じられた。


八重山日報



 竹富町の竹盛洋一委員長は、育鵬社版を採択した八重山採択地区協議会の答申に法的拘束力はないと主張しているがそれは嘘だ。八重山採択地区協議会の答申には法的拘束力ある。
 教科用八重山採択地区協議会が正式な呼称であり、八重山採択地区協議会は無償給付する教科書を採択する機関である。八重山採択地区協議会の採択した教科書だけが石垣市、竹富町、与那国町の無償給付対象の教科書である。
 八重山採択地区協議会で採択した公民の教科書は育鵬社版である。だから、石垣市、竹富町、与那国町の使用する教科書は育鵬社版の教科書だけが無償給付される。育鵬社版の教科書以外は無償給付しない。
八重山採択地区協議会の答申の拘束力とは無償給付する教科書が一種類に限定するという拘束力である。

 竹富町の竹盛洋一委員長のいう「八重山採択地区協議会の答申に法的拘束力はない」というのは竹富町が採択する教科書への拘束力はないという意味である。各市町村が教育を採択する権利は地方教育行政法にあり、無償措置法は無償給付する教科書を決めることであり、地区の各市町村は採択地区協議会が採択した教科書を採択する義務はない。

 竹富町の竹盛洋一委員長は「答申に従わないことに違法性はない。今後もぶれずに初心を貫く」と堂々と主張しているが、竹盛洋一委員長の両親を疑わざるをえない。確かに答申に従わないことに違法性はない。しかし、「答申に従わないことに違法性はない」からといって答申に従わないで別の教書を採択するのは憲法の精神、教育の良心に唾を吐くことである。

 確かに無償措置法には各市町村の教科書採択を拘束する権利はない。しかし、「答申に従わないことに違法性はない」を根拠にして八重山採択地区協議会で採択した無償給付対象の育鵬社の教科書を採択しないで無償給付対象外の東京書籍の教科書を採択したのは、憲法26条「義務教育は、これを無償とする」の精神に背いたことになる。それに、八重山地区内で転向した生徒が同一の教科書を使えるという思いやりの精神も放棄したことになる。

 竹富町が東京書籍の教科書を選んだということは憲法26条「義務教育は、これを無償とする」の精神と生徒への思いやりへの裏切りである。
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せつなくてあてなく歩くなあ月よ・九百四~九百六句

九百四句





九百五句





九百六句




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