なぜイエス様が十字架につけられて死んだのかわかったけれど……、それは2千年も前の話。しかもイスラエルという国での出来事。自分とどういう関わりがあるの? と思われた方もあるでしょう。
わたしも最初、十字架の話を聞いたとき、遠い昔の遠い国の出来事で自分と関わりがあるなんてとても思えませんでした。
だいいち、わたしは自分が罪びとと呼ばれるような悪い事をした覚えはないと思っていました。自分は人一倍繊細で傷つきやすい性格だから、色々な人から傷つけられてきた。意地悪もされた。……と被害者意識を抱き、わたし自身が人を傷つけることがあるとは思いもしませんでした。
また、自分の考えはいつも正しいと思っていました。友人や両親と議論して、口では言い負かされても、『でも、わたしは正しい』と心の中では思っていました。
そんなわたしが、『自分は間違っているかもしれない』と思ったのは、三浦綾子の小説「積木の箱」を読んだ時でした。HP「生かされて…土筆文香」のエッセイの部屋「心のすき間が埋められて1」に書いていますので、ここでは詳しく書きませんが、小説を読んだとき、このままではいけない、わたしは教会に行かないとダメになると思って教会の門をくぐりました。
三浦綾子さんが祈りをこめて書いた小説のうえに神様が働いて、読者のわたしの目を開かせ、罪の自覚をするようにしてくださったのです。
罪に気づきはじめると、思い当たることはいくらでも出てきます。
アダムとエバが罪を犯して以来、人間は罪を犯すようになったことを最初に書きましたが、たとえアダムとエバが罪を犯さなくても、エデンの園にわたしがいたら、やはり実を食べてしまったような気がします。禁止されるとやってみたくなるという、どうしようもない思いを持っていることに気づかされます。
友人が悲しんでいるときは同情するけれど、何もかもうまくいって喜んでいるときは一緒に喜ぶことができなくて、羨ましいと嫉妬してしまう……。
自分のことを棚に上げて、人の悪口を言ってしまう……。人の成功を喜ばずに失敗を喜んでしまう。
そんな自分を顧みると、生まれてから今までの間、どれだけ多くの罪を犯してきたことかと思います。気づかずに犯した罪もあるのですから、それらを目の前に並べられたら恐ろしくなります。
罪のために苦しんでいたわたしは、洗礼を受ければこれまでの罪が赦されると知って、教会へ通って半年ほどしたクリスマスに洗礼を受けました。
信仰の学びもせず、聖書もろくに読まず、クリスマス礼拝の当日の朝、受けると決めて受洗したのでした。
わたしは洗礼を受けたらもう罪を犯さない者になると誤解していたので、洗礼を受けてからも罪を犯し続けることに苦しみました。
十字架の赦しとは、洗礼を受ける前の罪も後の罪も、これから犯す未来の罪に対しても有効なのですが、そのことが理解できていなかったわたしは、教会を離れてしまいます。
でも、神様は、また戻ってくるようにしてくださいました。そして、新しく通い始めた教会で真理を教えていただいたのです。人は洗礼を受けてからでも罪を犯すのです。罪の自覚ができているので、洗礼を受けた後のほうがかえってたくさん罪を犯しているように感じるようになります。でも、そのつど心から悔い改めて祈れば、その罪をイエス様は赦して下さいます。自分の罪がわかればわかるほど、赦されたことの喜びも大きくなります。
罪が増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ5:20)
本当はわたしが罪のために死ななければならなかったのです。でも、イエス様が代わってくださったのだと心から思いました。
なぜそこまでしてくださったのでしょう?
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
この聖書の言葉の「世」という字の代わりに自分の名前を入れて読むと神様の愛がわかります。
神様の熱心、神様の圧倒的な愛を感じます。
ご自分のひとり子を差し出すまでしてわたしのことを愛して下さった神様。わたしはこの神様の愛に感動し続けているので、心は喜びでいっぱいです。だから、辛いことや悲しいことがあっても、この喜びに呑み込まれてしまうのです。
新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。(詩編98:1)
最後まで読んでくださってありがとうございました。まだ書き足りない気がしますが、いちおう終わります。
おわり
わたしも最初、十字架の話を聞いたとき、遠い昔の遠い国の出来事で自分と関わりがあるなんてとても思えませんでした。
だいいち、わたしは自分が罪びとと呼ばれるような悪い事をした覚えはないと思っていました。自分は人一倍繊細で傷つきやすい性格だから、色々な人から傷つけられてきた。意地悪もされた。……と被害者意識を抱き、わたし自身が人を傷つけることがあるとは思いもしませんでした。
また、自分の考えはいつも正しいと思っていました。友人や両親と議論して、口では言い負かされても、『でも、わたしは正しい』と心の中では思っていました。
そんなわたしが、『自分は間違っているかもしれない』と思ったのは、三浦綾子の小説「積木の箱」を読んだ時でした。HP「生かされて…土筆文香」のエッセイの部屋「心のすき間が埋められて1」に書いていますので、ここでは詳しく書きませんが、小説を読んだとき、このままではいけない、わたしは教会に行かないとダメになると思って教会の門をくぐりました。
三浦綾子さんが祈りをこめて書いた小説のうえに神様が働いて、読者のわたしの目を開かせ、罪の自覚をするようにしてくださったのです。
罪に気づきはじめると、思い当たることはいくらでも出てきます。
アダムとエバが罪を犯して以来、人間は罪を犯すようになったことを最初に書きましたが、たとえアダムとエバが罪を犯さなくても、エデンの園にわたしがいたら、やはり実を食べてしまったような気がします。禁止されるとやってみたくなるという、どうしようもない思いを持っていることに気づかされます。
友人が悲しんでいるときは同情するけれど、何もかもうまくいって喜んでいるときは一緒に喜ぶことができなくて、羨ましいと嫉妬してしまう……。
自分のことを棚に上げて、人の悪口を言ってしまう……。人の成功を喜ばずに失敗を喜んでしまう。
そんな自分を顧みると、生まれてから今までの間、どれだけ多くの罪を犯してきたことかと思います。気づかずに犯した罪もあるのですから、それらを目の前に並べられたら恐ろしくなります。
罪のために苦しんでいたわたしは、洗礼を受ければこれまでの罪が赦されると知って、教会へ通って半年ほどしたクリスマスに洗礼を受けました。
信仰の学びもせず、聖書もろくに読まず、クリスマス礼拝の当日の朝、受けると決めて受洗したのでした。
わたしは洗礼を受けたらもう罪を犯さない者になると誤解していたので、洗礼を受けてからも罪を犯し続けることに苦しみました。
十字架の赦しとは、洗礼を受ける前の罪も後の罪も、これから犯す未来の罪に対しても有効なのですが、そのことが理解できていなかったわたしは、教会を離れてしまいます。
でも、神様は、また戻ってくるようにしてくださいました。そして、新しく通い始めた教会で真理を教えていただいたのです。人は洗礼を受けてからでも罪を犯すのです。罪の自覚ができているので、洗礼を受けた後のほうがかえってたくさん罪を犯しているように感じるようになります。でも、そのつど心から悔い改めて祈れば、その罪をイエス様は赦して下さいます。自分の罪がわかればわかるほど、赦されたことの喜びも大きくなります。
罪が増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ5:20)
本当はわたしが罪のために死ななければならなかったのです。でも、イエス様が代わってくださったのだと心から思いました。
なぜそこまでしてくださったのでしょう?
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
この聖書の言葉の「世」という字の代わりに自分の名前を入れて読むと神様の愛がわかります。
神様の熱心、神様の圧倒的な愛を感じます。
ご自分のひとり子を差し出すまでしてわたしのことを愛して下さった神様。わたしはこの神様の愛に感動し続けているので、心は喜びでいっぱいです。だから、辛いことや悲しいことがあっても、この喜びに呑み込まれてしまうのです。
新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。(詩編98:1)
最後まで読んでくださってありがとうございました。まだ書き足りない気がしますが、いちおう終わります。
おわり