暑いですね……暑いけれど気を付けて……この暑さを乗り切りましょう……
友人からの便りやメール、そしてわたしが出すものにも「暑い」という言葉が必ず使われています。それほど暑い夏ということなのですね。夏生まれでも暑さに弱いわたしは、フーフー言っています。
一昨日の礼拝ではマタイ18:21~35の箇所からメッセージが語られました。
ペテロがイエス様に兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきかと尋ねています。イエス様は7度の70倍するまでと言われますが、それは490回まで赦すという意味ではありません。7は完全数なので、無限に赦すという意味です。
そのあとでイエス様は次のようなたとえ話をされます。
王のところに一万タラントの借金のあるしもべが連れて来られました。しもべは、返済できなかったので、その主人は、自分も妻子も持ち物も全部売って返済するように命じました。しもべが主人に猶予を求めると、主人はかわいそうに思って彼を赦し、借金を免除してあげました。
ところが、そのしもべは百デナリ貸していた仲間に出会ったとき、借金を返すように言い、返せないと牢屋に入れてしまいました。そのことを知った主人は、怒って借金を全部返済するまでしもべを牢屋に入れてしまいました。
という内容です。
一万タラントというのは、6千億円にあたるそうです。百デナリは百万円です。
百万円ならわかりますが、6千億円というのはどれぐらいのお金なのか、ちょっと想像がつきません。ふつうの人が個人で借金する額ではありませんね。
このたとえは何を語っているのでしょう。
「人の罪を赦せないと、天国に入れませんよ。」、とか「クリスチャンは、どれほど神様から赦されているかわかっているはずなのに、人を赦せないのはおかしいですよ」という意味にとられることがあります。そうではありません。
主人がしもべを赦したのは、しもべが心からあやまったからではありません。あやまり方がよかったからでもありません。
主人がしもべのことをかわいそうに思った(マタイ18:27)からです。それは、主人による特別な計らいによる赦しです。
何をかわいそうだと思ったかというと、しもべがこれから自分も妻子も持ち物全部売って悲惨な状況になることを知って、かわいそうと思ったのです。
かわいそうとは、憐れむことです。憐れむはギリシャ語でスプランクニゾマイといいます。それは「内臓」を意味する言葉だそうです。内臓が揺れ動くほどの思い……断腸の思いというような感じでしょうか。
かわいそうに思うということは、赦す方に痛みが伴うということです。
主人はしもべの借金を背負うことになり、また世間から責められるかもしれないのに赦しました。
それは、神様がわたしたちのことを赦してくださったことと同じです。
赦しがたい人を「赦しなさい」と言われると、『あんな人、赦せるか!』という憤りを感じます。神様はあなたを赦すとき、それよりも大きな憤りを感じたのですが、赦してくださいました。神様がわたしたちをどれほどの思いをもって扱ってくれたかを感じ、神様のすごさを知り、神様をほめたたえることが信仰生活の目的です。
わたしは、どれほど神様の内臓を痛めたことでしょう。洗礼を受ける前もその後も神様に逆らって神様を悲しませてきました。
いままで何度赦されてきたのでしょう。そのつど、神様はこんなに痛みを感じてくださっていたなんて……。もう、悲しませたくないです。みこころにかなった歩みができるように助けてください。
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ペテロがイエス様に兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきかと尋ねています。イエス様は7度の70倍するまでと言われますが、それは490回まで赦すという意味ではありません。7は完全数なので、無限に赦すという意味です。
そのあとでイエス様は次のようなたとえ話をされます。
王のところに一万タラントの借金のあるしもべが連れて来られました。しもべは、返済できなかったので、その主人は、自分も妻子も持ち物も全部売って返済するように命じました。しもべが主人に猶予を求めると、主人はかわいそうに思って彼を赦し、借金を免除してあげました。
ところが、そのしもべは百デナリ貸していた仲間に出会ったとき、借金を返すように言い、返せないと牢屋に入れてしまいました。そのことを知った主人は、怒って借金を全部返済するまでしもべを牢屋に入れてしまいました。
という内容です。
一万タラントというのは、6千億円にあたるそうです。百デナリは百万円です。
百万円ならわかりますが、6千億円というのはどれぐらいのお金なのか、ちょっと想像がつきません。ふつうの人が個人で借金する額ではありませんね。
このたとえは何を語っているのでしょう。
「人の罪を赦せないと、天国に入れませんよ。」、とか「クリスチャンは、どれほど神様から赦されているかわかっているはずなのに、人を赦せないのはおかしいですよ」という意味にとられることがあります。そうではありません。
主人がしもべを赦したのは、しもべが心からあやまったからではありません。あやまり方がよかったからでもありません。
主人がしもべのことをかわいそうに思った(マタイ18:27)からです。それは、主人による特別な計らいによる赦しです。
何をかわいそうだと思ったかというと、しもべがこれから自分も妻子も持ち物全部売って悲惨な状況になることを知って、かわいそうと思ったのです。
かわいそうとは、憐れむことです。憐れむはギリシャ語でスプランクニゾマイといいます。それは「内臓」を意味する言葉だそうです。内臓が揺れ動くほどの思い……断腸の思いというような感じでしょうか。
かわいそうに思うということは、赦す方に痛みが伴うということです。
主人はしもべの借金を背負うことになり、また世間から責められるかもしれないのに赦しました。
それは、神様がわたしたちのことを赦してくださったことと同じです。
赦しがたい人を「赦しなさい」と言われると、『あんな人、赦せるか!』という憤りを感じます。神様はあなたを赦すとき、それよりも大きな憤りを感じたのですが、赦してくださいました。神様がわたしたちをどれほどの思いをもって扱ってくれたかを感じ、神様のすごさを知り、神様をほめたたえることが信仰生活の目的です。
わたしは、どれほど神様の内臓を痛めたことでしょう。洗礼を受ける前もその後も神様に逆らって神様を悲しませてきました。
いままで何度赦されてきたのでしょう。そのつど、神様はこんなに痛みを感じてくださっていたなんて……。もう、悲しませたくないです。みこころにかなった歩みができるように助けてください。

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