朝起きると雪が積もっていました。北国に住む方は、これくらいは積もったうちには入らないのでしょうが……。降っているので、もっと積もったら車が大変と心配になりました。
ニュースをつけると、「関東地方は茨城県を中心に雪が降っています。」といっていました。
慎重派の主人は、車ではなくバスで出勤していきました。今はもう雪はやんでいます。
わたしは、子どものころ、自分がこんな人になりたいという理想を描いていました。
明るく積極的で決断力があり、聡明で皆から愛される人。大体こんな感じの理想です。
実際の自分は……というと、正反対で、暗く消極的で決断力に欠け、愚かで皆から嫌われる人(実際は嫌われていた、というより存在感のない子どもでした)
理想と現実とのギャップに苦しみ、どう逆立ちしても理想に近づくことさえできないことを知り、自己嫌悪に陥るのでした。
理想に近づくために努力しなければならないのだったら、絶望するしかありません。どんなに努力しても無理だからです。
でも、自分の力で理想に近づくのは不可能だと降参して神様に自分を変えていただくように願った時、それは可能になります。だから、理想は高いほうがいいと思います。
今のわたしの理想は、以下の聖書の言葉に表された言葉に示されています。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛の章ともいわれるⅠコリント13章からの言葉です。
教会学校の今年の暗唱聖句大会の課題にもなっています。
愛の代わりに自分の名を入れて読むと、とても無理だということがわかってつらくなります。
でも、「神は愛です(ヨハネ4:16)」と聖書に書かれていますので、愛を神様と置き換えて読むとどうでしょうか……。神様の素晴らしさに圧倒されます。
まさに神様はこのようなお方だからです。神様は御子イエス・キリストによってこの愛を示してくださいました。こんなに素晴らしい愛が存在することに感動です。
榎本保郎先生の本(旧約聖書一日一章)に「神の言葉は、人間の言葉でないから、わたしたちの判断力や能力をこえたものである。自分の状況とか能力にふさわしいものとは限らない。だから神の言葉を聞く者にとっては恐れが生じてくる。自分の可能性を超えたものだからである。躊躇するのである。」と書かれています。
わたしも初めて愛の章を読んだとき、躊躇しました。でも、『努力してこのような愛の心を持ちましょう』というわけではないので躊躇することはないのです。
これを理想として、いつかはこのように変えていただけると信じて歩んでいきたいです。
愛を神さまに置き換えて読む・・・御言葉の力に圧倒されますね。
いつも、新しい視差を教えてくださってありがとうございます。
努力して・・ではなく、神さまに引き上げていただけるのですから幸せです。
私は文香さんとの出会いから心を変えていただけ、神さまの不思議を体験させていただいています。
きっと、私のような体験を文香さんとの出会いでたくさんの方がされていらっしゃると思います。
お働き、お祈りしています!
愛の章を完全に覚えるために何回もそらんじていたら、神様の素晴らしさに圧倒されました。
御言葉には力があります。チャキさんが変えられたのでしたら、それは御言葉の力だと思いますよ。