昨日の礼拝では詩篇30編からのメッセージを聞きました。
詩編30篇
1主よ。私はあなたをあがめます。
あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはなさらなかったのです。
2私の神、主よ。
私があなたに叫び求めると、あなたは私をいやされました。
3主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、
私が穴に下っていかないように
私を生かしておかれました。
4聖徒たちよ。主をほめ歌え。
その聖なる御名に感謝せよ。
5まことに御怒りはつかの間、
いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、
朝明けには喜びの叫びがある。
6私が栄えたときに、私はこう言った、
「私は決してゆるがされない。」
・・・・・(略)・・・・・
10聞いてください主よ。
私をあわれんでください。
主よ。私の助けとなってください。
11あなたは私のために
嘆きを踊りに変えてくださいました。
あなたは私の荒布を解き、
喜びを私に着せてくださいました。
12私のたましいがあなたをほめ歌い、
黙っていることがないために。
私の神、主よ。
私はとこしえまでも、あなたに感謝します。
詩篇30編の最初は「主よ。私はあなたをあがめます。」と書かれ、
最後には「私はとこしえまでも、あなたに感謝します。」と書かれています。あがめるとは賛美することですから、賛美で始まって、感謝で終わっています。
これは礼拝にあてはまります。
詩人(詩編の作者)は、いつまでも賛美していたいのに、黙らせるもの・・・つまり礼拝を妨げるものがあると書いています。
それは病と罪と悲しみです。
詩人が死に直面するほど大きな病気をしたことがわかります。大きな病が礼拝の妨げになったのです。
わたしも死に直面するような病気(喘息と乳癌)になりました。具合が悪い時、礼拝を守ることができませんでした。
でも、病気で礼拝出席ができないことは罪を犯すことではありません。
むしろ順調な時のほうが罪を犯しやすいです。
6節には 私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない」
と書かれています。栄えた時・・・つまり体調良好で順調にことがすすみ、何かをなしえたとき、自分の力でなしえたと思います。
でも、それは高慢な思いです。詩人は、思い上がりの中で神を忘れていたと告白します。
その結果、神様が怒り、顔を隠されてしまいます。詩人は嘆き悲しみます。
でも、その嘆きは踊りに変えられるのです。
わたしは、この詩篇30編の中で11節の「あなたは私のために嘆きを踊りに変えてくださいました。」と、5節の「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」の箇所が好きです。
悲しみにおそわれたとき、主を賛美したり、感謝することはなかなかできません。自分で自分の感情がコントロールできなくなってしまう経験を何度もしました。泣いても仕方ないとわかっていても涙が止まらなくなってしまうのです。
そんなとき、祈ることが必要だと牧師先生が言われました。
「神様! 助けてください」とひとこと叫ぶ祈りでもいいのです。
「苦しい!」といううめきでもいいでしょう。
詩人も祈ったのです。「あなたに叫び求める」「あなたを呼び求める」と書いています。
神様は祈りに必ず応えてくださいます。嘆きを踊りに変えてくださいます。
わたしは病気がいやされたとき。また、罪赦されたことがわかったとき、まさに嘆きが喜びに変えられました。
どんなにか細い声で助けを求めても応えてくださる神様を心からほめたたえます。