生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

判決は無罪です

2010-02-25 11:34:06 | 教会

急に暖かくなりました。昨日、いつものように防寒セット(マフラー、手袋、帽子)をつけて自転車で教会に行くと、着いた時には汗をかいていました。今日はもっと気温が上がるそうです。
また寒さが後もどりする日もあるでしょうけれど、ようやく春になった実感がして喜びがあふれてきます。

春といえばイースター(復活祭)が待ち遠しいです。

イエス・キリストが十字架にかかったことは信じるけれど、復活は信じられないという人は多いですね。
30年ぐらい前になりますが、友人と劇団四季のミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター」を観に行きました。教会へ行き始めたころだったと思います。
イエスを青年として描き、スーパースターとして祭り上げられたのですが、最後は十字架で死を遂げるという内容だったと思います。
物語はイエスの死で終わっていました。

「なぜ復活がないの?」と思いました。
「これで劇が終わってしまうなんて・・・。イエスさまは復活されたのに」
と、ショックでした。楽屋に乗り込んで、復活まで演じて下さいと言いに行きたい衝動にかられました。

当時の私はまだ洗礼は受けていませんでした。十字架の意味もよくわかっていませんでした。でも、イエス・キリストが死んでからよみがえったことは素直に受け入れていたようです。


昨日、水曜礼拝でイスラム教について学びました。イスラム教の神様はAllah(アッラー)ですが、それはキリスト教の神観と共通しています。コーランは聖書の内容を含んでいます。旧約聖書だけでなく福音書も含まれていると聞いて驚きました。でも、パウロの手紙は入っていないそうです。

イスラム教では、イエス様は預言者のひとりで、神の子ではありません。なので、十字架の死の事実は認めても復活は認めないそうです。

イエス様の復活は、十字架の死がわたしたちの身代わりだったこと。十字架の死によってわたしたちの罪が赦され、義とされたことの証拠です。
イエス様の復活を認めないということは、罪の赦しがない。つまり、救いがないということです。
 

日曜の礼拝メッセージでは、裁判を例にしてキリストによる救いの意味が語られました。
神様が裁判長で被告は人類です。判決は死刑。

(わたしたちは、律法を守り通すことができないのでみんな罪人です。「罪から来る報酬は死です。(ローマ 6:23)」と聖書に書かれているので、死という裁きが待っています)


当然人類は死刑になるところでしたが、裁判長は人類に刑を下さず、裁判長の一人息子に刑が施行されました。そのため、人類は無罪になりました。
裁判長の一人息子とは、イエス様のことです。


「こういうわけで、今はキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)」

という素晴らしいニュースをパウロはいのちがけで伝えて歩きました。


わたしも大きな声で叫びたいです。
「イエス様は確かによみがえったのです。だから、イエス様のおかげでわたしたちは無罪になったんですよ! ハレルヤ!」


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