生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

めぐみの理解

2010-02-08 12:08:48 | 教会

昨日は礼拝でホセア書から神様の熱い想いを語られたメッセージを聞きました。
*青字が牧師先生の言葉、緑字が聖書の言葉、茶色字がわたしの感想です。


エフライムよ。わたしはどうして
あなたを引き渡すことができようか。
イスラエルよ。どうして
あなたを見捨てることができようか。
どうしてわたしはあなたを
アデマのように引き渡すことができようか。
どうしてあなたをツェボイムのように
することができようか。
わたしの心はわたしのうちで沸き返り、
わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
わたしは燃える怒りで罰しない。
わたしは再びエフライムを滅ぼさない。
わたしは神であって、人ではなく、
あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。
わたしは怒りをもっては来ない。
(ホセア11:8~9)


エフライムとは、イスラエルのこと。アデマ、ツェボイムはソドム、ゴモラの町と一緒に滅ぼされた町の名です。
神様は、イスラエルを選び、救いを与えてくださいました。でも、イスラエルの民は罪を犯しました。神様は、その罪をそのままにしておくことはできないので罰しましたが、神様は、親が我が子を愛するように、いつくしみと慰めと愛を示してくださいました。
神様は、イスラエルがどんな罪を犯しても、イスラエルは神の選びの民であることは変わらないと言っています。

エフライム、イスラエルを自分に置き換えて読んでみると神様の愛が実感できます。


「神様の恵み」は最も理解できないものです。
と牧師先生が言われました。
果たして、わたしは正しく理解しているのでしょうか?


罪を犯してそれに気づいたとき、謝罪の祈りをします。ここまではいいのですが、そのあとで、「これからは、このようなことをしないように努力します」と祈ったとしたら、それは神様が望んでおられることではありません。
自分が努力して、自分の力で罪を犯さないようにするという決心は、高慢な思いです。

自分の力に頼り、自分の努力で何かができると思っていることが間違えだと気づき、自分の力ではどうにもならないと思って神様に全面降伏したとき謙遜になれます。

自分には自慢できることがあるけれど、それを人に言わず隠していることが謙遜だと思う人がいますが、それは「よく包装された高慢」
と聞いてドキッとしました。

人は、ほかの人の心の奥底まで見ることができません。信仰深い人、謙遜な人、と人から言われたとしても、本当は『見せかけの謙遜』という名の包装紙にくるまれた高慢な心を持っている者かもしれません。


ルカの福音書18章9~14節には、取税人とパリサイ人の祈りのたとえ話が書かれています。パリサイ人は自分が律法を守り、断食もし、献金もしていることを誇って祈っています。一方取税人は自分の胸をたたいて『神様、こんな罪人のわたしをあわれんでください』と祈っています。神様は取税人の祈りを義(正しいもの)と認めてくださいました。
この取税人のような祈りこそ謙遜な祈りなのです。

神の前で、これができる、あれができると思っていたら恵みはわかりません。
何もできないものを養ってくださる神様のいつくしみと慰めと愛がわかったとき、神様の恵みがわかるのだ
と聞いてその通りだと思いました。

わたしは先週一週間CSメッセージ準備をしていて悩んでいました。難しい箇所(マタイ16:13-20)で、自分の信仰が試され、心が探られるような思いをしました。どうやって子供に伝えたらいいのか……。とても自分の力ではできないと思いました。

「神様、わたしには語ることができません。どうか力を与えてください。私の知恵ではなく、神さまの力によって語れるようにしてください」と祈っていたのです。子どもたちの前で語った時、確かに神様が力を注いでくださっていることを感じました。そのあとで、礼拝メッセージを聞いたのでした。

わたしは、子どもたちにお話しをする資格のない者ですが、神様はそんなわたしを用いてくださっています。そのことが恵みだと思いました。

もうだめだと自分に絶望することがあっても、帰って行くところ(神様のふところ)があって感謝です。

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