今週は受難週です。毎年受難週には早天祈祷会に何回か出ていたのですが、今年はまだ行っていません。朝起きたとき、関節痛がひどいので起き上がるのに時間がかかってしまいます。また、昨日から体調不良なので無理はできません。
今年は4月12日がイースター(復活祭)です。イースターとはイエスさまが十字架で殺されたあと、3日目によみがえった日を記念する祭りです。
イースター前の1週間を受難週といいます。
前回の祈祷会でイエス様と共に十字架につけられた2人について考える機会が与えられました。イエス様は罪がないのに十字架につけられてしまいましたが、他の二人は犯罪人でした。どのような犯罪だったのかわかりませんが、極刑に値するほどの重罪だったのでしょう。
そのうちのひとりはイエス様に向かって 「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え(ルカ23:39)」と悪口を言います。これは『救えるなら、救ってみろ、救えやしないだろう』と言うのと同じです。
この人は以前からイエス様のことを知っていたようです。実際に会っていたかあるいはうわさ聞いて、イエスさまがどんなことをされたかわかっていたようです。そのうえで罵倒しています。救い主だなんて言いながら、なんて無力なんだ!とばかにしています。
「私たちもこの人のようなことをするときがないでしょうか?」と牧師先生に問いかけられてドキッとしました。
前々回の記事(苦しみの理由)に書いたように間違った神観を抱いていたとき、神様を恨んでいました。神様がこの世界を支配しているというのに、なぜこんな辛いことが起こるのか・・・と問いかけていました。
自分のことを棚に上げて勝手な神観で、神様を批難していました。「勝手な神観が問題なのです」と聞いて、わたしはこの犯罪人のようなことをしていたのだと思いました。
もうひとりは 「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。(23:40,41)」と言ってたしなめます。
イエス様をののしることは、神をおそれない行為だと言っています。この人も、以前からイエス様のことを知っていたようです。この人はイエス様が神様と等しいと考えていました。罪のないお方だということも知っていました。
考えてみると、当時のほとんどの人がイエス様が神様だとわからなかったのに、この人がわかっていたということは驚きです。
「自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。」と言って、自分の罪を直視しています。「自分の罪を直視することができて初めてイエス様のことがわかるのです」と聞いて、その通りだなあと思いました。
二人目の犯罪人は 「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。(23:42)」と言っています。これは『救われる資格のないわたしですが、一方的な憐れみによって私を救って下さい』という意味だそうです。それはわたしの祈りでもあります。
それに答えてイエス様は「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます(23:43)」と言ってくれます。この人は、どれほど嬉しく思ったことでしょう。
『きょう』といっているのは、 これからパラダイスに行くというのではなく、今、イエス様といっしょにパラダイスにいるという意味だと教えていただきました。十字架につけられていて、肉体は苦痛の限界まできているのですが、イエス様が一緒にいてくださるので、この人には最高の喜び、平安があったのです。
ふたり目の人のような信仰を持ちたいと思いました。
写真は今日の桜川。ほぼ満開です。
いつも裕子さんの穏やかさにキリストの香りを感じます。ヒソプの花のようです。
関節痛のために起き上がるのに時間がかかるのは薬の副作用なんですか。
心配で胸が痛みます。裕子さんの健康を強くして下さるように祈り続けます。
私共のことではいつもいつも尊いお祈りをありがとうございます。どんなに力づけられているかわかりません。主と共に参ります。
お大事になさって下さい。
イースターの朝には元気に教会へお出かけになられますようにお祈りしています。
(文香の香はキリストの香りを意味していますので……)
関節痛は、薬の副作用です。朝は特に痛むのですが、耐えられないほどではなく、昼間はたいしたことありません。
いつもお祈りありがとうございます。
最近、救いの意味が分からなくなってました。神様の臨在も感じられなくなってました。
そんな時、示された御言葉です。
十字架の隣の犯罪人も、主の御手が短いと思ってたことでしょうね。
さわちんさんのうえに働いておられる神様の臨在を感じました。
祈っても何の答も示されなれないとき、主の御手が短いのか、それとも主の耳が遠くて祈りが聞こえないのかと思ってしまうことがありますね。
でも、決してそのようなことはないのです。神様は「とき」を定めてくださっており、それは自分にとって最善なときだったと後からわかります。