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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

信じるとは……

2009-04-16 16:32:18 | エッセイ

「キリスト教は悪い教えとは思えないけど、処女降誕と復活は信じられない」
と、友人が言いました。
「あなたは本気で信じてるの?」
と聞かれたので。
「信じている」
と答えると、あきれたような顔をされてしまいました。


処女降誕と復活は、確かにどう考えても人間の常識ではあり得ない出来事です。そして実際本当に起こったことかどうか・・・目に見えるような証拠はありません。
処女降誕のことは別の機会に書くことにしますが……

復活のことについては、当時イエスさまと行動を共にしていた弟子たちでも信じられませんでした。イエス様は十字架にかかる前に何度も3日目によみがえることを話しています。また、旧約聖書(キリスト誕生以前に書かれていた聖書)にはキリストについての預言--復活についても書かれています。それでもなお、死者の復活はありえないと考えていた弟子たちは、空になった墓を見ても信じることができませんでした。


復活のイエス様と実際に出会っても、弟子たちは霊を見ているのだと思いました。イエス様の手足の傷を見、魚を食べる様子を見て、初めてイエス様がよみがえったのだとわかったのです。

復活を目撃し、その後聖霊をいただいた弟子たちは、変えられました。
恐ろしさのあまりイエス様を3度否定してしまったペテロは、のちに教会の指導者となりました。イエスさまが十字架につけられていたとき逃げかくれしていた臆病な弟子たちも、迫害や死を恐れずにキリストを伝える者となっていきました。
その弟子たちの変化をみただけでも、復活は本当の出来事だったことがわかります。


もしキリストがよみがえらなかったのなら…・・・とパウロが仮定して書いています。

「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。(Ⅰコリント15:17)」
「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、すべての人の中で一番哀れな者です。(Ⅰコリント15:19)」



キリストの復活が事実でないなら、クリスチャンは一番哀れな者です。
でも、事実なのですからクリスチャンは復活の命に生かされています。
それは、神様の奇跡なのです。人間の常識を超えたものなので理性で理解することはできません。


「信じるということは、疑うことをやめることではない。疑いを越えることである。それは、一種の賭けであり、冒険である。それゆえ、信じるということは決して安易なことではない。」
と榎本保郎師の「旧約聖書一日一章」491ぺージに書かれています。


疑いを越えるとはどういうことでしょう。
わたしは、不信との闘いに勝利することだと思います。
神様だけを頼っていくとき、「本当に大丈夫なんだろうか?」という声が自分の中から聞こえてきます。誰か人に頼った方がいいのではないかと思ったりします。

「神様、いっさいのことをお委ねします」と祈ってからも、迷いの中に落ち込んだりします。待つことができなくて自分のあさはかな知恵や経験をたよりに先走ったことをして失敗することもあります。

不安と恐れの中にあっても、どこまでも神様を信頼していくことが勝利への道でしょう。

イエス様は弟子のトマスに言われました。
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。(ヨハネ20:27)」


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