昨日は我が家での家庭集会でした。牧師先生と8人の方が来てくださいました。
聖書個所は新約聖書のルカの福音書7:36-50です。
シモンという名のパリサイ人がイエスさまを食事に招待したとき、ひとりの女が香油をもって入って来て、泣きながら涙でイエスさまの足をぬらし、髪の毛でぬぐい、足に口づけをして香油をぬったという出来事が書かれています。
この箇所は2007年7月の家庭集会でも学んだところで、その内容の詳細は7/25、7/26のブログに書いています。
聖書の同じ箇所を学んでも、そのときによって受け止め方が違うこと。毎回初めて気づかされることがあることに驚いています。
今回は女の人が「イエスのうしろで御足のそばにたち」と書いてあったことが心に留まりました。聖書の欄外注釈によると女の人は『不道徳な女』と書かれています。つまり娼婦です。
当時の社会では娼婦は律法に反する罪深い者とされていました。ですから、その女の人はさげすまれ、社会からも疎外されていました。自分でも汚れている、罪深い者だと自覚していました。でも、生きていくためにやめることができなかったのでしょう。
女の人はただ、イエス様がシモンの家にいることを知り、イエス様に自分ができる最高のことをしたくて、香油を持ってきましたが、正面からイエス様に近づくことはできなかったのでしょう。
足を濡らすほどボロボロと涙をこぼし、髪の毛でぬぐい、足に口づけをし、香油をぬったとき、彼女はイエス様の顔を見ることもできずに、じっと下を向いていたでしょう。
その彼女をいとおしくながめるイエス様。
一方シモンは冷めた心で女の人を見下し、女のすることを止めもしないイエス様を心の中で批難しています。
女の人はイエス様を愛してやまなかったけれど、シモンはイエス様のことを愛していませんでした。そして女の人を裁いていました。
わたしの信仰は、女の人のようなのか、それともシモンのようなのか……?と、問われた気がしました。今まで自分は女の人のようだと思っていたのですが、実はシモンのようだったことに気づき、愕然としました。
わたしが彼女だったら、周りの人の目を恐れてイエス様に近づくことさえできなかったかもしれません。
もし、わたしがシモンだったら、遊女がそのようなことをしたら腹を立て、それを受け入れたイエス様をさえ批難していたのかもしれないと思って心がズキズキ痛みました。
でも、イエス様はこのシモンのようなわたしでさえ赦し、愛して下さっているのですね。そのことを感謝します。
昨日の家庭集会は、神様が参加したひとりひとりの心の琴線に触れてくださったように思います。最後の祈りをしたとき、何人かの方が涙を流していました。
学びの後は、みなさんで持ち寄った昼食をいただき、楽しくおしゃべりをしました。
神様のめぐみが満ちあふれた集会でした。