「なぜですか、神様?」「こんなに辛いことがあると、この地上で生かされている意味がわからない」「神様はどうしてこんな目に合わせるのかしら」と友人が言いました。
次から次へと大変なことが起こり、今もまだ大きな試練の中にいる友です。
何て言ったらいいか励ます言葉も、慰めの言葉もみつかりませんでした。
試練のまっただ中にあって意気消沈している人に聖書の言葉を持ってきて 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ 8:28と聖書に書いてあるから、あとで考えればきっとよかったと思えるよ」などと言えば、かえってその人を傷つけることになります。
その人が、自分でそのように気づく場合はいいのですが、他の人に「聖書にこう書いてあるから」と言われたら辛いでしょうね。それはヨブの友人のようです。わたしは、以前ヨブの友人のような過ちを犯したことがあります。
ヨブの友人は、苦難の中にあるヨブを慰め、見舞うために来たのにひどい言葉でヨブを責め立ててしまいます。
因果応報を解き、ヨブに罪があることを指摘します。友人にそう言われるとヨブはやっきとなって自分の潔白を証明しようとします。
ヨブの苦しみは、なぜ自分がこのような不幸に見舞われたのかという理由がわからないところにありました。理由なく災難に見舞われたヨブはすっかりいじけてしまって、自分の生まれた日をのろうようにさえなります。
わたしはその気持ちがよくわかります。わたしもいじけていました。若者言葉で言うと、やさぐれていました。
洗礼を受けたものの、教会を離れていたころのことです。長男を出産した後、喘息になりました。(子どものころ小児喘息だったのですが、16歳のとき漢方薬で治っていました)
喘息の癒しを願ったのに治るどころか、年々症状が重くなってくるので、神様を恨みました。この病が治らなければ生きていも仕方ないと思うほどでした。
不信仰な私は、神様がどのようなお方か知りませんでした。
わたしが喘息で苦しんでいることをあるいは神様は知らないのかもしれない。それとも知っていて癒そうとしているけれど、神様でもできないのかもしれないと思ったりしました。
そして、なぜこんな苦しい思いをしなくてはならないのかという理由を問いかけていました。
再び教会に導かれ、礼拝メッセージを聞き、聖書を真剣に読むようになって、自分の神観が間違っていたことに気づきました。 『全知全能なる神』『創造者である神』と聞いても、最初は具体的にどういうことかわかりませんでした。神様は、ことばによって世界を創造され、わたしのことも造って下さった。そして、神様にできないことは何もないのだとわかったとき、ヨブが神の臨在に触れてひれ伏したように、わたしも降参し、自分の思い上がりを悔いたのでした。
地上で起こることの理由はぼんやりとしかわかりません。でも、天国に行った時には顔と顔を合わせてみるようにはっきりわかるのだそうです。だから、いまはなぜと問うのはやめましょう。
ほんとうは理由が知りたいのではなくて、心からの慰めを求めていたのかもしれません。わたしの友人もたぶんそうなのでしょう。
ヨブの友人のようにではなく、悲しむ者と共に悲しみ、喜ぶ者とともに喜べるような人になりたいです。
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