祈祷会でヨナ書を学びました。ヨナ書の粗筋は前回(2/5)に書いていますので、ご存じない方はその箇所をご覧ください。
次に「神様がニネベの人々が悔い改めた様子をごらんになって、彼らに下そうとした禍を思い直されました。人の悔い改めによって思い直される神をあなたはどのように思いますか?」という質問がありました。
このことについても3.4人のグループに分かれて話し合いました。
『神が思い直される』とはどういうことなのか? と意見が飛び交いました。日本語に訳すと「思い直す」という言葉になるけれど、へブル語ではニュアンスが違うのではないか?
神様は人間の常識内にはまらない。神はそもそも最初からニネベの町を滅ぼすつもりはなかったのではないか? 神が思い直すなどということはありえないという意見が出ました。
わたしは、「『祈りが神の御手を動かす』ということがあるのだから、ニネベの人たちの悔い改めたようすをご覧になって、神様が思い直されたというのはあり得ることだと思う」と言いました。
話し合っているうちに「神が思い直す」というのは、「人間が思い直す」のとは少し違うかもしれないと考えるようになりました。どのように違うか説明できないのですが…・・・。
牧師先生は、「神が思い直す」というのは、「摂理」ということだと言われました。
『神はいっとき、いっときにわたしたちの思いにこたえて下さる方です。わたしたちが努力していることをご覧になるかたです』
最初から神のご計画があり、人の思いや祈り、努力などに関係なくその計画が遂行されるのならば、それは運命という考え方になります。
でも、神様はわたしたちの思いや努力していること(努力の結果ではなくてその過程)をご覧になって、応答してくださる方です。このことが節理なのです。
信仰をもってから、この世界が運命ではなく節理によっていることを初めて知ったとき、小躍りするほど嬉しかったのを覚えています。それまではずっと、自分はほど運が悪い人間はいないと思っていたからです。
ところが、運が良いとか悪いとか、そんなこと関係なかったのです。この世界を支配しておられる神様は、わたしたちと人格的にかかわってくださり、応答してくださる方だからです。
南ユダ王国の王、ヒゼキヤは重い病気にかかり、もうすぐ死ぬことを預言者イザヤから告げられました。ヒゼキヤは大声で泣いて神様に訴えます。すると神様はその祈りを聞いていやしてくださり、3日目には主の宮に上ることと15年の寿命を与えることを約束してくださいます。ヒゼキヤがその保証を求めると、「影が十度あとに戻る」と告げ、イザヤが祈るとそのとおりになりました。(Ⅱ列王記20:1~11、イザヤ38:1~8)
すごいことだと思います。神様が愛をもって応答して下さったのです。万物のものを支配し、この小さきものの思いにさえこたえて下さる神様を心からほめたたえます。
今日はこれからヒックンがきます。ママが研修会なので一日預かるのです。午後からわたしは子ども家庭集会で3時間ほど出かけます。その間、おじいちゃんと昼寝してくれたらいいのですが…・・・。
おわり