我が家はマンションなので、加湿器を使わない日でも結露がひどいです。冬は窓の結露ふきから一日の家事が始まりますが、今日は結露がほとんどありませんでした。こんなことからも春を感じて嬉しくなります。そういえば、昨日すごい風がふいていましたが、春一番だったのですね。
プリムラメラコイデスのつぼみも次々開いてきています。
前回の続きで詩篇23編を読んで気づかされたことを書きます。
「羊飼いを信頼する勇気は、獣と闘うことよりより多く勇気を必要とする」と書かれたものを読みました。確かに獣が襲ってきたら、自分を守るために闘うことより、羊飼いを信頼して草を食べ続けることのほうが難しい気がします。
闘ったとしても、勝てないことは明らかなのに、自分の力でなんとかしようと思ってしまいます。
「たとい、死のかげの谷を歩くことがあっても、
わたしはわざわいを恐れません。」
なんという強い信仰でしょう。恐れませんと断言しているのです。
わたしにはそのような強さがありません。起こるかどうかわからないことであれこれ心配し、恐れを抱いてしまうことがあるのです。
3週間ほど前から関節痛などの副作用の危険がある薬を飲み始めました。同意書にサインまでしたので、どんな痛みがくるのだろうかと緊張していましたが、今のところたいしたことはありません。
3週間経ってもたいした副作用が出ないということは、ずうっと大丈夫なんだろうと思っていましたが、薬を飲んで3.4か月目に痛み止めを飲まなければ耐えられないほどになった人の話を聞いて、また恐れが出てきてしまいました。そんなにひどい痛みが出たら、薬をやめればいいのですが、やめたら再発転移が起こるのではないかと、そちらの方が怖いのです。
恐れを取り除くにはどうしたらよいのでしょう。
「あなたがわたしとともにおられますから。」
と詩篇23篇の作者(ダビデ)が言っています。
でも、神様がともにおられることが実感できなくなるときがあります。そんなとき、恐れに取りつかれます。
バンズバウナーは「神は恐れが存在するより前にここにおられた」と言ったそうです。その通りですね。
人が神の視点からものを見ることができたら、いかに恐れが根拠のないものだとわかるそうです。
でも、目の前で起こってくるものを見ているわたしたちが神様の視点からものを見るというのはとても難しいことです。
聖書には「恐れるな」という言葉が42箇所にも書かれています。
神様がわたしたちが恐れを抱く弱い者であることをご存知な証拠ですね。
「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスのかぎをもっている。(黙示録1:17.18)」
最初であり最後であるお方を信頼し、恐れないで歩んでいきたいです。
*わたしのHP久々に更新しました。生かされて・・・土筆文香をご覧ください。
つづく