なぜ人は苦しい目にあうのでしょうか。
イエスさまをメシアだと信じた犯罪人は、苦しみの中で平安が与えられました。イエスさまの愛を知ったので、苦しみを超越する平安があったのです。
もし、この犯罪人が十字架につけられなければ、イエスさまを信じるに至らなかったかもしれないと牧師先生が言われました。
苦しまなければ、神の本当のめぐみを見い出すことができないのだそうです。
旧約聖書申命記には次のように書かれています。
気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。
あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群がふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。(8:11-14)
あなたの先祖達の知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。―(8:16)
モーセが120歳のとき、遺言のように書いたのが申命記です。エジプトを出てから荒野で苦しみながら40年かかって約束の地にたどりついたイスラエルの民。最短距離で行けば、数ヶ月で着くはずなのに、神さまはなかなか約束の地に導き入れませんでした。
聖書には、神さまが40年間もイスラエルの民を苦しい目にあわせた理由が示されています。
立派な家、豊かな食べ物、家畜、財産が与えられると、心が高ぶって神を忘れてしまうというのです。何もない荒野で、神さまの降らせて下さるマナを食べることによって生かされた人々。神のめぐみなくして1日も生きることのできない存在であることを教えるために苦しめたというのです。
ついには、あなたをしあわせにするためであった。と記されています。しあわせが仮名で書かれているのは、人間が考える世俗的な幸せではなく、神さまの考えるしあわせを意味するからです。それは、状況や環境に左右されない、心の底から沸き上がってくるしあわせです。
イエスさまをメシアだと信じた犯罪人は、十字架につけられていながら、しあわせだと感じたのです。それは、主にあって感じるしあわせです。
肉体的には極限状態の苦痛の中にあっても、しあわせを感じられるのでしょうか?自分の場合はどうだったか、次回書きます。
つづく
しかしまた、何回経験しても大きな岩が立ちはだかるたびに一生懸命です。主に泣きつきます。その都度、立ち向かう力を頂くのです。だから感謝なのですね。
毎日、裕子さんのブログで励まされています。
今年も春になりましたね。チューリップがグングン伸びてきましたよ。
でも、そのたびに力が与えられて、耐えられることが不思議です。
今年の我が家のチューリップは例年より綺麗な花を咲かせそうです。咲いたら写真アップしますね。
わたしは具合が悪いとき「息ができるだけでもうけもの」って思います。
励まされました。おおきに。