寒のもどりで今日も寒いです。土浦、桜川土手の桜は今にも咲きそうです。あともう一息春風が吹いてくれたら・・・待ち遠しいです。
今日はマンションの理事会でした。いつもは主人が出席するのですが、主人が出勤日なのでわたしが代理で参加しました。暖房のないエントランスホールで一時間半椅子に座っていたら、足が凍りつきそうになりました。
先日、祈祷会の学びでイエス様が涙を流された理由を考える機会が与えられました。
カペナウムの町にイエス様が親しくしておられたマルタ、マリヤ、ラザロの姉弟(ラザロは弟ではなく兄かもしれませんが……)がいました。ラザロが病気になって死にかけたとき、マルタとマリヤはイエス様を呼びに使いを送ったのですが、イエス様が来られる前にラザロは死んでしまいます。
ラザロが死んで4日後、イエス様がカペナウムに来られます。マルタはイエス様を迎え出て 「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11:21)と言い、マリヤは迎え出ることもせずに悲しんでいます。
マルタとマリヤ、ともにいたユダヤ人たちがラザロの死を悼んで泣いていたときのこと、
「イエスは涙を流された。(ヨハネ11:35)」と聖書に書かれています。それは、聖書の中で最も短い節です。また、イエス様が涙を流されたと書かれているのはその箇所だけです。
イエス様は、その後ラザロを墓からよみがえらせてくださいます。
「なぜイエスは涙を流されたのでしょう?」という質問がありました。
この質問は、何年か前の家庭集会でもありました。わたしは、最初、イエス様は死んでしまったラザロと、それを悲しむマルタとマリヤがかわいそうで涙を流されたのだと直感的に思いました。
でも、「そのあとすぐイエス様はラザロをよみがえらせるのだから、かわいそうと思うはずがない」という意見を聞いて、それもそうだけど……と納得のいかないままになっていました。
祈祷会でもいろいろな意見が出ました。「霊の憤りを覚え(33節)」と書かれているから、その場にいる人々の不信仰に怒ったのだ。これは怒りの涙だと言った人もいました。死が終わりだと思っている人々を哀れんでという意見もありました。
「聖書にはイエス様が涙を流されたことが書かれているのはこの箇所しかありませんが、実際は何度も泣いておられたのでは? このときは特別激しく泣かれたので、弟子たちの印象に残ったから筆記されたのではないでしょうか」と牧師先生が言われました。
「イエス様は、人の悲しみや痛みに同情されないお方ではありません。ラザロのこと、マルタ、マリヤの悲しみに同調されて涙を流されたとも考えられます」
と聞いて、慰められました。
本当のところはイエス様に聞いてみないとわからないのでしょうけれど、わたしはやっぱりこのときイエス様は、悲しくて泣いたのだと思います。
最近、イエス様がすごく近くに感じられます。なぜだろうと思ったら、腕の関節に痛みがあるからでした。痛みのところにイエス様がいてくださる。共に痛み、涙を流してくださるからだと思えました。
10年ぐらい前、聖書を舞台に童話を書いているとき、「イエス様の目は何色ですか?」とS牧師に尋ねたことがありました。民族学的に考えて何色ですか?という意味で聞いたのですが、S牧師は少し考えてから、 「イエス様の目は涙色」と答えてくださいました。
いっさいの苦しみ、痛みを引き受けてくださったイエス様の目は、きっと涙色なのでしょうね。