*最後に追記あり
わたしは、22歳で洗礼を受けたとき、意味が十分わかっていませんでした。
教会へ通って半年ほどたったとき、「来週クリスマス礼拝で洗礼式があるので、受けませんか?」
と牧師先生から言われました。
わたしの今通っている教会では、洗礼の前に学び会があり、準備の時期があります。また、「救いのあかし」といって、どのように信じるに至ったか書いて提出し、面接を受けてから洗礼を受けます。でも、当時わたしが通っていた教会にはそのようなものはありませんでした。
三浦綾子の小説を読んで、罪に気づいていました。洗礼を受けて罪が赦されるなら受けたいと考え、その当日「受けさせてください」と願い出て、受洗に至ったのです。
洗礼を受けたら、罪を犯さない人間になれると思っていたわたしは、受洗後も相変わらず罪を犯してしまう自分に気づき悩みが深まりました。これは誤解でした。
わたしは癇癪持ちだったので、ときどき自分の感情をコントロールできなくなって、家の中で暴れました。気に入らないことがあると、階段を上って行って、二階でドンドン足を踏み鳴らしました。嫌だと思っていた父と同じようなことをしていました。そのことが罪だと気づいていましたが、受洗後もやっていました。
洗礼を受けると、神様の光に照らされて今まで気づかずに犯していた罪にも気づくようになるので、よけい罪深くなったと感じ、悩みました。そのことを牧師先生や先輩クリスチャンに相談すればよかったのに、引っ込み思案だったわたしはそれができず、誤解したまま教会を離れてしまいました。
神様は、わたしたち人間が罪のために滅びてしまうことがしのびなくて、わたしたちの罪を赦そうとされました。罪が赦されるためには死ななければなりません。それで神様はわたしたちの代わりにご自分の愛するひとり子、イエス様を十字架につけました。イエス様は死にましたが、三日目によみがえられました。
それでイエス様を信じるだけで、わたしたちの罪は赦されるようになったのです。
罪の赦しは一度限りではありません。洗礼を受けても心の中で悪い思いを抱くことがあります。そのときは、神様の前に罪を告白して祈れば、赦してくださいます。何度でもです。
聖書には次のように書かれています。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)」
あのときのわたしは、聖書をよく読んでいなかったのでこの言葉を知りませんでした。
教会を離れてしまったことは残念なことでしたが、洗礼を受けていたからこそまた教会へ行くようになったのでした。
水曜礼拝で、主の祈りにある「わたしたちの負いめをお赦しください(マタイ6:12)」(負いめとは罪)は、日々祈るものだと聞いて、考えたことを書きました。
追記:日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。私のエッセーも掲載しています。ここをクリックしてご覧ください。
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わたしは、22歳で洗礼を受けたとき、意味が十分わかっていませんでした。
教会へ通って半年ほどたったとき、「来週クリスマス礼拝で洗礼式があるので、受けませんか?」
と牧師先生から言われました。
わたしの今通っている教会では、洗礼の前に学び会があり、準備の時期があります。また、「救いのあかし」といって、どのように信じるに至ったか書いて提出し、面接を受けてから洗礼を受けます。でも、当時わたしが通っていた教会にはそのようなものはありませんでした。
三浦綾子の小説を読んで、罪に気づいていました。洗礼を受けて罪が赦されるなら受けたいと考え、その当日「受けさせてください」と願い出て、受洗に至ったのです。
洗礼を受けたら、罪を犯さない人間になれると思っていたわたしは、受洗後も相変わらず罪を犯してしまう自分に気づき悩みが深まりました。これは誤解でした。
わたしは癇癪持ちだったので、ときどき自分の感情をコントロールできなくなって、家の中で暴れました。気に入らないことがあると、階段を上って行って、二階でドンドン足を踏み鳴らしました。嫌だと思っていた父と同じようなことをしていました。そのことが罪だと気づいていましたが、受洗後もやっていました。
洗礼を受けると、神様の光に照らされて今まで気づかずに犯していた罪にも気づくようになるので、よけい罪深くなったと感じ、悩みました。そのことを牧師先生や先輩クリスチャンに相談すればよかったのに、引っ込み思案だったわたしはそれができず、誤解したまま教会を離れてしまいました。
神様は、わたしたち人間が罪のために滅びてしまうことがしのびなくて、わたしたちの罪を赦そうとされました。罪が赦されるためには死ななければなりません。それで神様はわたしたちの代わりにご自分の愛するひとり子、イエス様を十字架につけました。イエス様は死にましたが、三日目によみがえられました。
それでイエス様を信じるだけで、わたしたちの罪は赦されるようになったのです。
罪の赦しは一度限りではありません。洗礼を受けても心の中で悪い思いを抱くことがあります。そのときは、神様の前に罪を告白して祈れば、赦してくださいます。何度でもです。
聖書には次のように書かれています。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)」
あのときのわたしは、聖書をよく読んでいなかったのでこの言葉を知りませんでした。
教会を離れてしまったことは残念なことでしたが、洗礼を受けていたからこそまた教会へ行くようになったのでした。
水曜礼拝で、主の祈りにある「わたしたちの負いめをお赦しください(マタイ6:12)」(負いめとは罪)は、日々祈るものだと聞いて、考えたことを書きました。
追記:日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。私のエッセーも掲載しています。ここをクリックしてご覧ください。
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もし、土筆さんに信仰が与えられていなかったとしたら、今ごろはなんとも付き合いにくい、イヤーなおばさんになっていたかもしれませんね。ああ、そうだ、こんなことを書いたりしたら、「バッカやろう!」といって、どなりつけられそうだ。ああ、こわや、こわや!
でも、わたしは少しずつ変わった、いえ変えられたのです。自分の努力ではなく、神様によって。