生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

愛について

2016-04-19 16:09:48 | 教会
愛というと、男女の愛を思い浮かべる人が多いですね。でも、聖書にはアガペーの愛、つまり神の愛について書かれています。

先日の礼拝では、三段階の愛について語られました。
1)まず、神が人を愛してくださった。
2)私たちは、神を愛する。
3)私たちは、互いに愛する。


この順番が大切なのだそうです。

聖書には「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここ愛があるのです。愛する者たち、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。(Ⅰヨハネ4:10-11)」
と書かれています。

1の『まず、神が私たちを愛した』というのは、『神がわたしたちの罪を赦すため、神のひとり子イエス・キリストを身代わりにして十字架につけるほど愛した』ことです。
このことを考えずに人が神を愛したり、他の人を愛したりできないとわたしは思います。

自分には愛があると思っている人は多いでしょう。殺人犯や強盗犯でつかまった人を、『人でなし』と言い、冷たい態度をとる人に対して『愛のかけらもない人』とののしったりします。

でも、いろいろな事情があったり、追い詰められたりしたら、人を殺したいほど憎しみを抱くこともあるでしょう。実際に人殺しをしなくても、人に対して腹を立てる者は、誰でも裁きを受けなければなりませんと聖書には書かれています。

聖書の一番初めの書、創世記4章には、アダムとエバの息子カインが弟のアベルを殺した人類初めての殺人事件が記されています。
『神が』ではなく、『人間が』主語になると、愛ではなく、憎しみが先行してしまうような気がします。

まず神様が人間を愛したことに注目したいです。罪を犯し、神様の言うことをきかず、自分勝手な道を歩いている人間が裁かれて滅んでしまうことが忍びなくて、神様はひとり子のいのちと引き換えにわたしたちを救ってくださったのです。

その大きな神様の愛に触れたとき、人は神を愛することができ、ほかの人を愛することができるのだと思います。

人を裁くことがあっても、愛することはなかなかできません。ごく親しい友人の事情すら想像できないのです。『私だったらあんなことしないのに』と、簡単に人を裁いてしまいます。互いに愛し合うことは本当に難しいです。

でも、神様が、『わたしの造った、わたしの愛する子どもたちよ。どうかお願いだから互いに愛し合ってほしい。お互いを大切にしてほしい』と懇願しているのです。

わたし自身も愛に欠けた者です。なかなか人を愛せません。
神様、愛をください。あの人、この人、嫌いな人も愛することができる愛をわたしにくださいと、祈っています。


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