昨日は主人の実家のお墓参りにいってきました。電車4回乗り換えて片道3時間の長旅でした。
今日はヒックンが熱を出したから預かってほしいとの電話がありました。午前中に病院へ連れて行ってから来るというので待機中です。
再び新美南吉のことを書きます。南吉は人間の究極の悲しみを知っていたのだと思います。
悲しみにはいろいろな種類がありますが、究極の悲しみは存在そのものにあるとわたしは考えています。
自分の存在が悲しいのです。なぜでしょう……。
人間は本来愛されるために生まれました。人は神によって造られ、神に愛されたからです。
最初の人、アダムとエバは神様と共にエデンの園という楽園で暮らしていました。そこには苦しみも涙もありませんでした。
ところが、神様が食べてはいけないと命じていた木の実をへびにそそのかされてエバが食べ、アダムも食べてしまいました。そのとき、罪が人類に入ったと聖書には書かれています。
その時以来、人間は労苦して糧を得なければならなくなり、やがては年老いて死ぬ者になりました。
アダムとエバは楽園から追放されてしまいますが、神様はふたりに皮の衣を着せました。皮の衣は後に来てくださる救い主イエス・キリストを表しているそうです。
エデンの園から追放したときに神様は人類を救済する計画を立ててくださっていました。
聖書は人類の救済史だと言われています。
人間は生まれながらの罪を持っていること。やがては死んでしまう存在だということが究極の悲しみなのです。死で終わってしまう人生はなんとむなしいものでしょう……。
南吉はそれに気づいて、「でんでんむしのかなしみ」をかいたのでは?と考えます。
でも、それには救いがありません。
わたしが「でんでんむしのよろこび」を書いたのは、この究極の悲しみがなくなる道があると読者に伝えたかったからです。
イエス・キリストの十字架の死によって人類の罪が赦され、永遠の命をいただくことができるようになったのです。これを福音(ふくいん)と言います。
「でんでんむしのよろこび」後半にジョイジョイさんというかたつむりが出てきますが、キリストをイメージして書きました。
さきほど「でんでんむしのよろこび(2)」を「生かされて・・・土筆文香」のHPにアップしましたので、読んでいただけると嬉しいです。
「でんでんむしのよろこび」は4パターン書きました。日本クリスチャン・ペンクラブ提出用と児童文学者協会提出用と、紙芝居用。そして今回HP用に新しく書きました。HP用に書いたのがいちばん書きたかった作品です。
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今日はヒックンが熱を出したから預かってほしいとの電話がありました。午前中に病院へ連れて行ってから来るというので待機中です。
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悲しみにはいろいろな種類がありますが、究極の悲しみは存在そのものにあるとわたしは考えています。
自分の存在が悲しいのです。なぜでしょう……。
人間は本来愛されるために生まれました。人は神によって造られ、神に愛されたからです。
最初の人、アダムとエバは神様と共にエデンの園という楽園で暮らしていました。そこには苦しみも涙もありませんでした。
ところが、神様が食べてはいけないと命じていた木の実をへびにそそのかされてエバが食べ、アダムも食べてしまいました。そのとき、罪が人類に入ったと聖書には書かれています。
その時以来、人間は労苦して糧を得なければならなくなり、やがては年老いて死ぬ者になりました。
アダムとエバは楽園から追放されてしまいますが、神様はふたりに皮の衣を着せました。皮の衣は後に来てくださる救い主イエス・キリストを表しているそうです。
エデンの園から追放したときに神様は人類を救済する計画を立ててくださっていました。
聖書は人類の救済史だと言われています。
人間は生まれながらの罪を持っていること。やがては死んでしまう存在だということが究極の悲しみなのです。死で終わってしまう人生はなんとむなしいものでしょう……。
南吉はそれに気づいて、「でんでんむしのかなしみ」をかいたのでは?と考えます。
でも、それには救いがありません。
わたしが「でんでんむしのよろこび」を書いたのは、この究極の悲しみがなくなる道があると読者に伝えたかったからです。
イエス・キリストの十字架の死によって人類の罪が赦され、永遠の命をいただくことができるようになったのです。これを福音(ふくいん)と言います。
「でんでんむしのよろこび」後半にジョイジョイさんというかたつむりが出てきますが、キリストをイメージして書きました。
さきほど「でんでんむしのよろこび(2)」を「生かされて・・・土筆文香」のHPにアップしましたので、読んでいただけると嬉しいです。
「でんでんむしのよろこび」は4パターン書きました。日本クリスチャン・ペンクラブ提出用と児童文学者協会提出用と、紙芝居用。そして今回HP用に新しく書きました。HP用に書いたのがいちばん書きたかった作品です。

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☆☆【みなさ~ん、ぜひお読み下さい!】☆☆
「泣かなくていい……。わたしは……、きみたちのかなしみを背負うために……いるのだから」とジョイジョイさんが言いました。
でんでんむし達は福音に満たされて、究極の悲しみがなくなる道があったことを知りました。
読後感は、ただ感謝でした!!
書いて下さってありがとうございます!
実は、読んでくださる方がおられるのだろうか・・・と少し不安でした。
福音を十分伝えられたとは思っていませんが、童話を通して読者の方が本当の喜びを味わうことができるようにと願っています。
最近
私の娘がパソコンに興味を持っており、私が使っていると横で画面を眺めます。
「でんでんむしのよろこび」も興味を持って、2回目の続きを楽しみにして
おりました。 読んだ後、感想を聞きましたが、「ナイショ」だそうです。
中学生でムツカシイ年頃なので、話してもらえば書き込みますね。
新美南吉といえば「牛をつないだ椿の木」を思い出します。
その話を読んで、「おいしそうな井戸水を一度飲んでみたいなぁ」
と思った事があります。
そういえば、「ごんぎつね」は学芸会で、魚屋のおやじの役をしたなぁ。
中学生の娘さんも「でんでんむしのよろこび」を読んで下さったとは……とても嬉しいです。
「牛をつないだ椿の木」は大好きな作品です。
主人公の海蔵さんが自分の罪を正直に告白したため、かたくなな老人の心がやわらかくなったというストーリーは、キリスト教的だなあと思いました。
「牛をつないだ椿の木」が好きだとは嬉しいですね。 (子供の頃読みました)
キリスト教的と言われれば確かにそうですね。思いつきませんでした。
正直に告白する事は関係を元に戻す為に必要な事だと思います。
そしてその告白は、人の心に響く、強さがありますね。 うんうん。
しかし、娘はなかなか感想を話してくれまへんなぁ。
でも、口には出したくないのでしょう。その気持ちよくわかります。
無理に聞き出さなくていいですよ。時期が来ればたくさん話すようになると思います。