生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

傷つき渇いている心に 

2007-01-28 18:00:41 | エッセイ
昨日は、御茶ノ水クリスチャンセンターでのクリスチャン・ペンクラブの例会に出席しました。今年書きたい物をそれぞれが発表したのですが、みなさんがしっかりとした志を持って熱く語られたので、わたしも思いを新たにされました。
今日は礼拝の後、教会学校の父母懇談会が持たれました。教師と父母たちの実りある話し合いの時となりました。感謝。
クリスチャン・ペンクラブで出版した「生かされている喜び」に掲載されたエッセイ
を紹介します。これは「志に生きる」のテーマで書いたあかし文章です。



傷つき渇いている心に           

子供たちに神さまの愛を伝える物語を書きたいと決心してから十四年たちました。最初の九年は、書くことがみ心かどうか確信がもてずに迷い、何度も挫折しました。  
色々なところに応募して30回くらい落選し、そのたびに落ち込んで、(自分には才能がないんだ。もう書くのはやめよう)と思うのでした。
それなのに書き続けてこられたのは、書けなくなったときに帰っていくところがあるからです。それはいままでの人生の中でいちばんつらかった時期、中学2年のときの心です。

自分の存在価値がわからず、生きることに意味をみいだせず、死を願っていたあのころ。もし、あのときのわたしに、イエスさまのことを誰かが教えてくれたら、神の愛を示す本に巡りあっていたら、どんなに嬉しかっただろう……と思うと、書かなければという気持がかりたてられ、心が熱くなります。

一昨年、大阪府岸和田市で起きた中3生の虐待事件のニュースを聞いたとき、大きなショックを受けました。15歳の少年は、逃げることができたのになぜ逃げなかったのか? 父親は、なぜ我が子が衰弱死しそうになるまで虐待を続けたのか? 次々と疑問がわいてきます。一年半にもわたって暴行を受け続けた少年の気持ち、我が子を虐待する父親の気持ちは想像しがたいのですが、耳をすましていると、心の叫びが聞こえてくるような気がします。いちばん愛してほしい親から愛されなかった少年は、どんなに愛を求めていたでしょう。虐待をする親は、自責の念を抱きながらではなかったのでは? 

いけないことだとわかっていても、子供に対して残酷になってしまうのは、心に深い傷を持っているからかもしれません。『無条件で愛されたい』と心の渇きを覚えているのは、親も子も同じでしょう。
虐待事件はその後も次々と起きています。事件として報道されるものはほんの一部で、実際に起きている虐待はどれだけ多いのかと思うと心が痛みます。
 
暴力をふるわなくても、ネグレクト(放置)しなくても、言葉で子供を傷つけてしまうことがあります。それも(広い意味で)虐待というのだそうです。そう考えると、わたしは子供のころ母親から虐待を受けていたことになり、わたしも自分の子供を虐待していたことになります。
親からいわれた言葉がトラウマ(心的外傷)となって劣等感をかかえていました。でも、神さまからのメッセージが心の深いところに届いたとき、キリストによる癒しがはじまりました。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ書43:4)」といって下さる神さまのことを、傷つき、渇いている心に伝えられるような小説を書きたいと願っています。

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