T姉の葬儀に参列して思ったことは、人の命は神さまに握られていることと、人は一瞬先のことさえ予測できないということでした。突然の死は、今日我が身に起こることかもしれませんし、誰にでも可能性はあるのです。
まだまだ続くと思っていた人生に突然終止符が打たれたとき、周囲の人はとまどい、驚き恐れます。病気で余命を宣告されていたり、高齢の方が召された場合と悲しみは同じでも、ショックの度合いが違います。
でも、キリストを信じている者は、地上での生涯を終えたのち、天国で永遠に住まうことができるのです。ですから、クリスチャンの死には天国での再会の希望があります。
T姉がいま天国で安らいでおられることは確かなのです。
身近な人が突然召されたとき、人間はみな死ぬのだという当たり前のことを知らされます。どんなに立派な人生の計画をたてていても、死によって計画は中断してしまいます。予期せぬ出来事や、病気で変更せざるを得ないこともしばしばあるでしょう。
人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。(箴言19:21)
のみ言葉を思います。
予期せぬ災難にあうと、神さま、どうしてですか? と神さまを恨みたくなることがあります。けれども、答えはすぐにはわかりません。
詩編37:5には
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。
と書かれています。
ゆだねよという言葉は、ガラール(ころがす)というヘブル語が使われているそうです。道を主にころがしていきなさいという意味になります。「道路はころがせませんが、あなたの道をころがすことはできます」とOBIで教えていただきました。
37:7には
主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。
とあります。
耐え忍んでというのは、原語では『苦しむ』という意味の再帰動詞が使われているそうです。お産の苦しみのときに使われている言葉というので、かなりの苦痛を表しますね。つまり、「まな板の鯉のように主の前で黙って苦しみなさい」といっているのです。
それは非情なことのように思われますが、苦しみに耐えて待つ期間が必要だと神さまがおっしゃっているのですね。それは、患難が忍耐を生み出し忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 (ローマ5:4)とあるようにその期間に、練られた品性が生み出されることを示しているのだと思います。
アブラハムは子孫が与えられる約束を聞いてから、イサクが生まれるまで25年も待たなくてはなりませんでした。モーセはエジプトを出てからカナンの地に導くまで40年耐えました。ダビデはサムエルに油注がれてから、王となるまで長い間逃亡生活をしなければなりませんでした。
苦しみの意味やその答えは、長い忍耐の後にわかるものなのでしょう。
予期せぬ苦難が訪れたとき、黙って苦しむことができますようにと祈りました。神さまは耐えられないような苦しみにはあわせないと約束して下さっているのですから。