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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

決して見捨てられない訳

2013-03-05 16:44:37 | 聖書から
前回の記事にたくさんの方々からお祝いのコメントをいただいて、心から感謝いたします。
コメントを読ませていただいて、改めて卒業の喜びを味わっています。


2月28日に書いた「暗やみで叫ぶ」の記事を読まれた方が「イエス様が見捨てられたおかげで私達が見捨てられなくなった……」とは、どういう意味ですか? と質問をくださいました。

神様がイエス様を見捨てられたとはどういうことでしょうか。

以前、聖書学の学びの場で、「愛のお方と言われている神様が、自分の子どもを見捨てるはずがない。」と言われたクリスチャンの方がいました。

そう思える気持ちはわかります。けれども、神様は確かにひとり子のイエスをお見捨てになったのです。

それではなぜ、見捨てられたのでしょう……。
十字架の肉体的苦痛は想像を絶するものですが、イエス様にとっていちばん辛いことは、父なる神様との断絶でしょう。

どんなに苦しくても神様が共にいてくださるなら安心していられますよね。うめいたり叫んだりしたとき、すぐに答えがなくてもその声を聞いて下さっている方がおられると思うと慰められますね。

でも、人間は、アダムとエバが罪を犯して以来、神様とは断絶状態になっていたのです。神様は正しいお方なので、罪に対して何の罰も与えずに「まあいいよ」と言って受け入れることができません。

「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、(ローマ3:23)」と聖書に書かれている通り、罪のない人はいないので、神様との間に隔たりができてしまったのです。
罪の結果、人々はその魂が滅んでしまうことになりました。

でも、神様はご自分が作られた人間をとても愛しておられるので、人の魂が滅びることに対して非常に心を痛められました。それで人に罰を与えるのではなく、人の代わりにご自分のひとり子に罰を与えることにしました。

身代わりになる者は、罪のない者でなくてはなりません。イエス様は神様の子どもなので、罪がありませんでした。
神様は愛する我が子を十字架につけ、見捨てるために地上におくってくださったのです。
イエス様は、十字架の苦しみ、見捨てられた苦しみ、すべての苦しみを背負って死んでくださいました。わたしたちのために……。

愛する我が子を見捨てなければならなかった神様のお気持ちはどうだったのでしょう。心が引き裂かれる思いだったのでは……と思うと涙がこぼれます。映画パッションでは、最後に天から水滴が落ちてくる場面がありました。神様の涙を表しているようで、印象的でした。

イエス様が見捨てられてくださったので、人類の代わりにイエス様に罰を与えるという神様のわざが完了したのです。

イエス様が見捨てられたおかげで見捨てられないですむというのは、イエス様を信じる者が、たとえどんな状態になっても神様に見捨てられることは決してないということです。

イエス様がしてくださったことによって、わたしたちは罪を犯しても神様から罰を受けなくてすむようになったのです。神様と断絶してしまうことがなくなったのです。イエス様の十字架は、過去、現在、未来の人々、全人類に有効なのです。


乳がんになってから常に頭のどこかにあるものは、いつか再発転移して末期癌状態になるのではないかという恐れです。でも、体がどんな状態になっても神様から見捨てられることはないのだから大丈夫。常にわたしに目を注いで下さる神様がおられるから大丈夫と思えるのです。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(ヘブル13:5)」
と、神様は約束して下さっています。



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