
昨日は、教会の最初の受洗者のSさん(91歳)の葬儀でした。Sさんは、寝たきりになる7年前までは毎回欠かさず礼拝と祈祷会に出ておられました。
お子さんが生後一か月のとき、ご主人を亡くされ、戦中戦後の激動の時代を生きてこられた方です。女手一つで娘さんを育てていくのは大変だったと思いますが、信仰を持ってからは、教会第一の生活をされ、よく奉仕もされていたそうです。
Sさんの娘さんやお婿さん、三人のお孫さんはまだ信仰をもっていませんが、お話を聞いて一同がSさんの信仰に敬服していることがわかりました。そして、これから教会に通いますとおっしゃっていたことを大変うれしく思いました。
これは、わたしにとっても希望です。わたしの主人や息子は、決して教会に行こうとしませんが、わたしが天に召された後、求めるようになるのではないかと思えたのです。そのためにも、まっすぐに信仰に生きる姿をみせておくことだなあと思いました。
文通しているK子さんから「なぜ『わたしに注いだ光は消えることがない』と言い切れるのですか?」という質問がありました。
それは以前わたしが「イエス様を信じたとき、私の心に光が注がれました。そしてその光は決して消えることがないのです」と書いたことに対する質問です。
そのお返事を紹介します。
まず、光というのはイエスキリストがもたらしてくれた希望のことです。わたしの努力で、注がれた光を保っていくというのなら、きっと失ってしまうでしょう。順調なときはよいのですが、何かあると気持ちが大波のように揺れます。気持ちがふさぐこともあり、硬く決心しても、明日には決心がゆらぐような弱く、不完全な者だからです。
この光を決して離すまいと決心したとしても、それはあてになりません。
でも、神様が光を保って下さるのなら、絶対に消えることがありません。
どんな人格者だと言われる人でも完全な人間はひとりもいません。そして、どんな人間にも罪があります。また、人間には限界があります。
でも、神様は何もないところから天地万物を造ることができるほどのお方です。その力は想像をはるかに超えます。
神様は、わたしたち人間を造られましたが、造りっぱなしにされているのではありません。ひとりひとりを大切に思い、愛しておられるのです。(この愛というのは男女の愛ではありません)
どれくらい愛しておられるかというと、神様のひとり子、イエス・キリストの命をわたしたちに与えて下さるほど愛しておられるのです。
わたしたちは、罪を持っているので、このままでは神様と正しい関係を持つことができません。このままだと魂が滅びてしまいます。でも、そうならないようにわたしたちの身代りにイエス様が十字架にかかって罰を受けて下さったのです。
神様は十字架につけられるという目的のために愛するひとり子のイエス・キリストを地上に送ってくださいました。イエス様は最も低く貧しいところ(家畜小屋)でお生まれになったのですよね。このクリスマスの出来事を思うと、心が震えます。
イエス様が地上にきてくださったこと、イエス様が十字架にかかってわたしの罪をゆるして下さったことが希望の光です。
キリストが生まれたこと、十字架にかかってくださったことは事実なのです。だから、見えないときにも空に太陽があるようにキリストの光は、たとえその人が見失ったとしても決して消えることはないのです。
「あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。 (イザヤ60:20)」
このクリスマス、キリストの光を心に迎えられますようにお祈りしています。
明日はクリスマス。心からイエス様の誕生をお祝いします。メリークリスマス!!
ありがとうございました。
クリスマスの行事が終わっても、クリスマスの喜びはずっと続いていますね。
ニコさんのうえに神様の祝福が豊かにありますように。
わたしたちクリスチャンは伝えるという使命を担っているのですね。