忙しい先週が駆け足で通り過ぎていきました。
土曜日の子ども家庭集会では、お話しし始めようとしたときに地震があって、震度3ぐらいだったらしいのですが、動揺しました。子どもたちは落ち着いて机の下にもぐったりしていました。
地震がお話の途中でなくてよかったです。もし途中だったら頭の中が真っ白になってしまっていたでしょう。20分間という長いお話でしたが、一年生の子どもも静かに聞いてくれました。終わったとき、みんな足がしびれたと言っていました。
先日の家庭集会の学びを紹介します
聖書にはイエス様にほめられた人が何人か出てきます。ルカの福音書7章1-10に出てくる百人隊長は、イエス様に絶賛されています。
この百人隊長は、当時イスラエルを支配していたローマ側の人です。百人隊長は、自分のしもべが病気で死にかけていたとき、イエス様に助けに来てほしいとユダヤ人の長老を通して伝えました。
百人隊長は人格者であり、ユダヤ人に尊敬されていたようです。ユダヤ人のために会堂(礼拝する場所)を建てました。長老たちは、イエス様に百人隊長の願いをきいてやってほしいと頼みました。
しもべとは百人隊長の配下にあった兵士の一人かそれとも百人隊長に仕えていた奴隷かわかりませんが、百人隊長はしもべを大切に思い、何とか助かってほしいと思っていたのです。
イエス様は百人隊長の家に向かいます。すると、百人隊長は友人を遣わして「主よ、わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」と伝えます。
百人隊長はイエス様のことを「主よ」と言いました。ローマ皇帝に仕える身で、皇帝崇拝の行われていたローマで、皇帝以外の人を主と呼んでいることが知れたら大変なことになるのに、危険をも顧みずそう呼んだのです。
そして「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます」と言いました。
来てくださいと頼んでおきながら、わざわざおいでくださいませんようにと言うのは矛盾しているようですが、イエス様が百人隊長の願いを聞いて出向いてくださったことに感激して、それだけでじゅうぶんだと思い、また、イエス様を自分の家に入れる資格のない者だと思ってそう言ったのでしょう。
イエス様は「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と言って百人隊長をほめました。
もちろん、しもべは癒されました。
百人隊長はイエス様がどんなお方なのか知っていたのですね。イエス様はことばだけで病を癒すことができると信じていたのですね。
わたしだったら、イエス様を無理にでも自分の家に連れてきて「癒してください」と頼み込んだかもしれません。
ことばだけでいやされると信じた百人隊長の信仰はすごい、わたしもそのような信仰を持ちたいと思いました。
イエス様が十字架で息を引き取られたとき、そこに居合わせていた百人隊長が「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言っていますが、この百人隊長と同一人物だったのではないかという人がいるそうです。そんな気がしてきました。
同じ光景を見て、犯罪人が十字架刑で息を引き取ったとしか思わなかった人、悲しみにくれた人、罪のない正しい人が十字架につけられたと確信した人……人々はさまざまな思いを抱いてイエス様の十字架を目撃したのですね。
現在もイエス・キリストを歴史上の人物のひとりととらえている人、キリスト教の教祖としてとらえている人、自分には関係のない人だと思っている人……とさまざまです。
でも、イエスを「主よ」と呼ぶ人たちは幸いです。イエス様を主と見上げて従う人生は祝福あふれ、輝いています。

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