アンネの日記(完全版)を読みました。
アンネの日記は、中学生のとき読みましたが、内容はほとんど覚えていませんでした。
今回読んで、14歳にしてこれだけ深く物事を考えていたのか・・・・・・と驚きました。
アンネの日記が公表された当時、本当に14歳の少女が書いたのか、捏造ではないかという疑いさえもたれたそうです。
切迫した戦況下で、いつ見つかるかわからないという危機的状況にありました。見つかればホロコーストの犠牲になってしまいます。そのような中でアンネは精神的に高められていったのでしょう。
隠れ家に暮らしていたのは、アンネとアンネの家族4人。ペーター一家3人。そしてデュッセルさんの8人でした。
その中でのアンネからみた人間模様はとてもおもしろいです。大人に対して厳しい眼差しを向け、非難する気持ちを正直に書き記しています。
とくにアンネは母親に対して反感を抱き、非難していました。
日記には
「もしも神さまの思し召しで生きることが許されるなら、わたしはおかあさんよりも立派な生き方をしてみせます。つまらない人間で一生を終わりはしません。きっと世の中のため、人類のために働いて見せます」と書かれています。
アンネは、信仰とユダヤ人としてのアイデンティティーをしっかりと持っていました。
「いったいだれがこのような苦しみをわたしたちに負わせたのでしょう。だれがユダヤ人をほかの民族と区別させるようにしたのでしょう。だれが今日までわたしたちを、これほどの難儀にあわせてきたのでしょう。
わたしたちを、いまのようなわたしたちにしたのが神さまなのは確かですが、いつかふたたびわたしたちを高めてくれるのも、やはり神さまに違いありません。わたしたちがこういったもろもろの苦難に耐え抜き、やがて戦争が終わったときにも、もしまだユダヤ人が生き残っていたならば、そのときこそユダヤ人は、破滅を運命づけられた民族としてではなく、世のお手本として称揚されるでしょう。(略)わたしたちはつねにユダヤ人であるしかなく、またそれを望んでもいるのです。」
同じ日の日記に「戦後、ほんとうのオランダ人になりたい」とも書かれていますが、みつかるかもしれないという恐怖の中でのことなので、それは本心ではないのだと、わたしは思います。
戦争に対するアンネの考えは今を生きる人たちにぜひ知ってもらいたいです。
「いったい、そう、いったい全体,戦争が何になるのだろう。なぜ人間はお互いに仲良く暮らせないのだろう。何のためにこれだけの破壊が続けられるのだろう。」
「いったいどうして人間は,こんなに愚かなのでしょう? わたしは思うのですが,戦争の責任は,偉い人や政治家,資本家にだけあるのではありません。責任は,名もない一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら,世界中の人々はとうに立ち上がって,革命を起こしていたでしょうから。」
砲撃の音が聞こえ、隠れ家から一歩も出られず、いつかゲシュタポにつかまるのではないかという恐怖におびえることがあっても、アンネは希望を失いませんでした。
「日ごとにわたしは自分が精神的に成長してゆくのを感じます。解放が近づいているのを,自然がいかに美しいかを,周囲の人々がどんなに善良な人たちであるかを,この冒険がいかにおもしろく,意味の尽きないものであるかを感じています。だったら,なぜ絶望することがあるでしょうか。」
1944年5月3日
1944年8月1日で日記は終わっており、8月4日にだれかの密告によって隠れ家の8人はつかまってしまいます。
そしてアンネと姉のマルゴーは強制収容所に入れられて、病死してしまいました。8人の中で生き残ったのはアンネの父オットー・フランク一人だけでした。
姉妹の死の約一か月後にはこの収容所は英軍の手で解放されたのだと書かれているのを読んで、ああ、なぜ助からなかったのだろうか……と悲しくなりました。
でも、日記を刊行したいというアンネの望みはかなえられました。そしてアンネの日記は世界のベストセラーになったのです。
この8人は、閉塞された狭い空間で、不自由な生活を余儀なくされ、見つかるかもしれないという恐怖の中にあってよく気が狂わなかったと思います。わたしだったら、大声で叫んで外に飛び出して行きたくなるでしょう。
国民性なのかもしれませんが、激しく言い争い、自己主張しているところがかえってよかったのかもしれないですね。
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アンネの日記は、中学生のとき読みましたが、内容はほとんど覚えていませんでした。
今回読んで、14歳にしてこれだけ深く物事を考えていたのか・・・・・・と驚きました。
アンネの日記が公表された当時、本当に14歳の少女が書いたのか、捏造ではないかという疑いさえもたれたそうです。
切迫した戦況下で、いつ見つかるかわからないという危機的状況にありました。見つかればホロコーストの犠牲になってしまいます。そのような中でアンネは精神的に高められていったのでしょう。
隠れ家に暮らしていたのは、アンネとアンネの家族4人。ペーター一家3人。そしてデュッセルさんの8人でした。
その中でのアンネからみた人間模様はとてもおもしろいです。大人に対して厳しい眼差しを向け、非難する気持ちを正直に書き記しています。
とくにアンネは母親に対して反感を抱き、非難していました。
日記には
「もしも神さまの思し召しで生きることが許されるなら、わたしはおかあさんよりも立派な生き方をしてみせます。つまらない人間で一生を終わりはしません。きっと世の中のため、人類のために働いて見せます」と書かれています。
アンネは、信仰とユダヤ人としてのアイデンティティーをしっかりと持っていました。
「いったいだれがこのような苦しみをわたしたちに負わせたのでしょう。だれがユダヤ人をほかの民族と区別させるようにしたのでしょう。だれが今日までわたしたちを、これほどの難儀にあわせてきたのでしょう。
わたしたちを、いまのようなわたしたちにしたのが神さまなのは確かですが、いつかふたたびわたしたちを高めてくれるのも、やはり神さまに違いありません。わたしたちがこういったもろもろの苦難に耐え抜き、やがて戦争が終わったときにも、もしまだユダヤ人が生き残っていたならば、そのときこそユダヤ人は、破滅を運命づけられた民族としてではなく、世のお手本として称揚されるでしょう。(略)わたしたちはつねにユダヤ人であるしかなく、またそれを望んでもいるのです。」
同じ日の日記に「戦後、ほんとうのオランダ人になりたい」とも書かれていますが、みつかるかもしれないという恐怖の中でのことなので、それは本心ではないのだと、わたしは思います。
戦争に対するアンネの考えは今を生きる人たちにぜひ知ってもらいたいです。
「いったい、そう、いったい全体,戦争が何になるのだろう。なぜ人間はお互いに仲良く暮らせないのだろう。何のためにこれだけの破壊が続けられるのだろう。」
「いったいどうして人間は,こんなに愚かなのでしょう? わたしは思うのですが,戦争の責任は,偉い人や政治家,資本家にだけあるのではありません。責任は,名もない一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら,世界中の人々はとうに立ち上がって,革命を起こしていたでしょうから。」
砲撃の音が聞こえ、隠れ家から一歩も出られず、いつかゲシュタポにつかまるのではないかという恐怖におびえることがあっても、アンネは希望を失いませんでした。
「日ごとにわたしは自分が精神的に成長してゆくのを感じます。解放が近づいているのを,自然がいかに美しいかを,周囲の人々がどんなに善良な人たちであるかを,この冒険がいかにおもしろく,意味の尽きないものであるかを感じています。だったら,なぜ絶望することがあるでしょうか。」
1944年5月3日
1944年8月1日で日記は終わっており、8月4日にだれかの密告によって隠れ家の8人はつかまってしまいます。
そしてアンネと姉のマルゴーは強制収容所に入れられて、病死してしまいました。8人の中で生き残ったのはアンネの父オットー・フランク一人だけでした。
姉妹の死の約一か月後にはこの収容所は英軍の手で解放されたのだと書かれているのを読んで、ああ、なぜ助からなかったのだろうか……と悲しくなりました。
でも、日記を刊行したいというアンネの望みはかなえられました。そしてアンネの日記は世界のベストセラーになったのです。
この8人は、閉塞された狭い空間で、不自由な生活を余儀なくされ、見つかるかもしれないという恐怖の中にあってよく気が狂わなかったと思います。わたしだったら、大声で叫んで外に飛び出して行きたくなるでしょう。
国民性なのかもしれませんが、激しく言い争い、自己主張しているところがかえってよかったのかもしれないですね。

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