日曜の礼拝ではピリピ4:6-7から「思い煩い」についてメッセージが語られました。一部を紹介します。
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6-7)」
思い煩いについて、次のような態度をとる人がいます。
①思い煩いがあってはならない。あったら、不信仰なことだと考える。
②思い煩いに極度にとらわれてしまう。思い煩いに支配され、あきらめてそのままにしてしまう。
どちらも極端です。「思い煩い」は存在しているという事実を受け止め、どうしたら対処していけるか考えることが大切です。
人それぞれ思い煩いの内容は違っています。思い煩っていることを恥じたり、人と比較する必要はありません。
一人で悩んでいると孤独です。悩みが深くなると、何が大きな悩みなのか、どう整理したらよいかわからなくなります。
信仰が深まれば、悩みがなくなるわけではありません。
まず、神に知ってもらうことです。「あらゆる場合に」と聖書にありますが、どんな場合にも知っていただくことです。
聖書には、
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:7)
と書かれています。
心配ごとをすべて神に打ち明け、神に願い事を知っていただいた結果、思い煩いはどうなったか、願いはどうなったか書かれていません。
それは、願いが叶うこと以上に大切なことがあるからです。
ヘンリー・ナーウェンが思い悩んだとき、マザーテレサに相談するためインドを訪れたそうです。ナーウエンは、マザーの前で10分間悩みを語り続けました。そのあとでマザーが口を開きました。
「そうですね。あなたは一日に一時間、あなたの主を礼拝する時間を過ごし、自分の心に照らして間違ったことを行わなければ、それで大丈夫ですよ」
答えはそれだけでした。
マザーの言葉を聞いたナーウエンは、「本物の癒しに触れた。」「真理に出会った。」と言ったそうです。
「問題の答えをみつけることがすべてではなく、問題の中にあって、神を礼拝し、信頼することを学ぶことが大切です」と牧師先生が言われました。
思い煩うのはやめようと何度思っても、また別の問題に出くわすと思い煩ってしまうわたしです。
思い煩うということは不信仰のあかしだと、自分を責めたりしました。でも、その必要はないと教えられました。
「思い煩いは存在している」と考えたらいいのですね。
わたしの場合、思い煩ってもどうしようもないことが多く、後になって何であんなに悩んだのだろう……と思うことがよくあります。それでも思い煩いはなくならないのです。
だれにも打ち明けられなくても、神様に打ち明けることができる幸いを思います。
確かに、すべてを打ち明けた後は、問題が解決されていなくても不思議なほどに平安が訪れます。
先日書いた「重荷をおろして」と同じですね。
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「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6-7)」
思い煩いについて、次のような態度をとる人がいます。
①思い煩いがあってはならない。あったら、不信仰なことだと考える。
②思い煩いに極度にとらわれてしまう。思い煩いに支配され、あきらめてそのままにしてしまう。
どちらも極端です。「思い煩い」は存在しているという事実を受け止め、どうしたら対処していけるか考えることが大切です。
人それぞれ思い煩いの内容は違っています。思い煩っていることを恥じたり、人と比較する必要はありません。
一人で悩んでいると孤独です。悩みが深くなると、何が大きな悩みなのか、どう整理したらよいかわからなくなります。
信仰が深まれば、悩みがなくなるわけではありません。
まず、神に知ってもらうことです。「あらゆる場合に」と聖書にありますが、どんな場合にも知っていただくことです。
聖書には、
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:7)
と書かれています。
心配ごとをすべて神に打ち明け、神に願い事を知っていただいた結果、思い煩いはどうなったか、願いはどうなったか書かれていません。
それは、願いが叶うこと以上に大切なことがあるからです。
ヘンリー・ナーウェンが思い悩んだとき、マザーテレサに相談するためインドを訪れたそうです。ナーウエンは、マザーの前で10分間悩みを語り続けました。そのあとでマザーが口を開きました。
「そうですね。あなたは一日に一時間、あなたの主を礼拝する時間を過ごし、自分の心に照らして間違ったことを行わなければ、それで大丈夫ですよ」
答えはそれだけでした。
マザーの言葉を聞いたナーウエンは、「本物の癒しに触れた。」「真理に出会った。」と言ったそうです。
「問題の答えをみつけることがすべてではなく、問題の中にあって、神を礼拝し、信頼することを学ぶことが大切です」と牧師先生が言われました。
思い煩うのはやめようと何度思っても、また別の問題に出くわすと思い煩ってしまうわたしです。
思い煩うということは不信仰のあかしだと、自分を責めたりしました。でも、その必要はないと教えられました。
「思い煩いは存在している」と考えたらいいのですね。
わたしの場合、思い煩ってもどうしようもないことが多く、後になって何であんなに悩んだのだろう……と思うことがよくあります。それでも思い煩いはなくならないのです。
だれにも打ち明けられなくても、神様に打ち明けることができる幸いを思います。
確かに、すべてを打ち明けた後は、問題が解決されていなくても不思議なほどに平安が訪れます。
先日書いた「重荷をおろして」と同じですね。

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