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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

娘への手紙

2015-11-25 16:28:51 | 家族
21日に娘が結婚式を挙げました。お天気にも恵まれ、祝福された式、披露会でした。
娘あてに書いた手紙を紹介します。

********************

親愛なるMちゃんへ
Mちゃん、結婚おめでとう。Mちゃんが、「結婚したい人がいる」と言ったとき、心から嬉しく思いました。そして、人を見る目があるMちゃんが選んだ人だから、相手の方は、きっと優しい人だろうなあと思いました。本当にそうでしたね。

Mちゃんが生まれた時、わたしは喘息で入院してしまい、どうなることかと思いましたが、ミルクをよく飲み、よく眠り、すくすく育ちましたね。
わたしが退院してからは、お兄ちゃんがやきもちをやくので、なかなか落ち着いて相手ができませんでした。でも、お兄ちゃんがいないとき、Mちゃんをぎゅっと抱きしめて「なんて可愛いんでしょう。こんな可愛い子いないよ」と何度も言ってたの覚えてる?(覚えているわけないよね)

Mちゃんは、2歳前ぐらいから自分の意志をはっきり示すようになって、意志にそぐわないときはギャーギャーといつまでも泣いていましたね。ずいぶん長い反抗期で、わたしはへとへとでした。

でも、自分の考えを持ち、意志をはっきり示すことは、大人になってプラスに働いているので嬉しく思っています。あの時期はMちゃんの人格形成に必要だったのかもしれませんね。
また、気が強く、幼稚園ではOちゃんと引っかきあいをしたり、近所ではKちゃんとはたきあいをしてハラハラさせられましたが、今になると笑い話だね。

気が強くなったのは、100%お兄ちゃんのおかげだと思っていたけれど、オーママ(祖母)からきているのかもしれないと、最近思っています。

Mちゃんが高校を卒業して一人暮らしを始めたときは、心配でたまりませんでした。携帯が2日間もつながらなかったり、学校へ来てないと先生から電話があったり……。犯罪に巻き込まれたのかと思って、いのちの縮む思いがしました。
「心配のし過ぎだよ」と言う声が聞こえてくるようですが……。この気持ちは親にならないとわからないでしょうね。

「東京で一人暮らしを始めたら、もうずっと戻ってこないかもね」と色々な人から言われ、寂しい気持ちでいっぱいでした。でも、卒業して戻ってきたときは本当に嬉しかったです。ちょうどお兄ちゃんが結婚して家を出たので、タイミングよかったよね。
それから8年……。一緒に暮らせて楽しかった。旅行も一緒に行けたしね。

この8年の生活があったから、今回嫁いで行ってしまうことを寂しく思いません。(少しは寂しいけどね)
短気でせっかちな性格のわたしなので、Mちゃんをいらいらさせることがあったけど、Mちゃんのおかげで「待つ」ということを学びました。そのほかにもたくさん教えられました。ありがとね。

わたしは母親としては失格点だったけど、わたしをはるかに超えていい娘に育ってくれてよかったです。育ててくださったのはイエス様ですね。
これからは、Yくんと仲良く生きていってください。

結婚すると、結婚前には知らなかった面をみることになります。こんなはずじゃなかったのに……と思うこともあるでしょう。また、育った環境が違うので、お互いに感性や習慣、考え方などが違うことに気づくでしょう。でも、違っているのは当たり前のことです。よく話し合って違いを認め合えるといいね。

何よりもいちばんに神様がYくんと出会わせ、伴侶としてくださったことを心に留めてください。
喧嘩しても、本気で喧嘩してはだめですよ。Mちゃんが以前「相手が悪くても、自分にも悪いところがあると思う。お互い様だと思う」というようなことを言っていたけれど、それは素晴らしい発想です。このことを忘れないでね。

それから、三浦綾子さんの本に「不機嫌は罪です」書いてあったけど、不機嫌にしていると周りの人が嫌な気持ちになるので、気を付けてくださいね。
あっ、お説教めいたことは書かないつもりだったのに……説教臭くなってごめんなさい。
とにかく、イエス様を見上げて新しい家庭を築いていってください。  母より


*************************

娘も手紙を書いていて、披露会で読んでくれました。「わたしは育てにくい子だったと思います」と書かれていました。小学4年の時骨折して、母に松葉杖ごと自転車に乗せて病院へ通ってくれたことを感謝しているというのを聞いて、そんなこともあったなあ……となつかしく思い出しました。

娘の晴れ姿を母に見てもらいたかった……。でも、主人の母が結婚式に参列してくれたので、嬉しかったです。




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我が家のクリスマス

2009-12-24 13:05:23 | 家族

昨日はヒックンとママを招いて我が家でクリスマスを祝いました。
一羽分の鶏をスーパーで予約して買い求めました。中にフランスパンとセロリーの葉、ローズマリーを詰めてオーブンで焼きました。直径25センチの皿からはみでそうなぐらい大きかったので、焼くのに1時間以上かかりました。
メニューはこの他にパイキッシュとサラダ、サーモンのカルパッチョとパンプキンスープです。ケーキまでは焼けなかったので、チョコレートケーキを買ってきました。

ヒックンパパは仕事がどうしても抜けられなくて、来ることができませんでした。夕食のお土産を持って行ってもらいました。


ヒックンは車のおもちゃが大好きです。
「バスがねんねしちゃったの。トラックがジャンプして公園に行くところなんだ」と車を擬人化して遊んでいます。

最近はよくしゃべるようになって、ずいぶん長い文章を言えるようになりました。
「お洋服ぬらしちゃったから、新しい服に着替えたの。おばあちゃんから買ってもらった服だよ。かっこいい服、ありがとう」

ひいおばあちゃん(主人の母)からヒックンにクリスマスプレゼントとしてトレーナーをいただきました。そのお礼の電話をかけたときにしゃべった言葉です。
ひいおばあちゃんは、感激していました。

まだ言えない言葉もあります。ブロッコリーはコロッコリー。お魚はオカタナ。ままごとはマガゴトになってしまいます。

また、都合が悪いことを言われると、目を閉じて寝たふりをするようになりました。
悪いことをしてしかられると、「聞こえないよ」と言ったりします。
そんなとき、主人は全くしからないので、
わたしはびしっとしからなければと思います。でも、一緒に暮らしているわけではないので、あんまりきつくはしかれません。

思案していた時、いいことを教えられました。これもOBI(お茶の水聖書学院)のDVDからですが・・・。


言いつけをやぶって庭に出て遊び、ひざをすりむいてしまった3歳の孫に対してとったおじいちゃんの態度が紹介されました。

まず抱きしめて愛していることを伝えます。そして抱きかかえたままお尻をたたいて、「お前のことを愛しているよ。おまえがやってはいけないことをしたので、しかるんだよ」と言い、そのあとで、傷の手当をしたそうです。

聖書に「この方(イエス・キリスト)は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)と書かれています。恵みとまこと。この順序が大切なのだそうです。

まず神様は恵みを贈ってくださり、そのあとで真実を示して下さいます。神様からの恵みがなければ、わたしたちは神の真実(厳しさと裁き)に耐えることができません。でも、恵みによっておおわれた真実ならば、神のふところのうちにあって受け入れることができるのですね。

このお孫さんは、おじいちゃんからお尻をたたかれても、おじいちゃんを嫌いになったり怖がったりすることはなかったでしょう。

まず愛していることを伝える。愛しているから、悪いことをしたときにしかるのだと伝える。この原則は親子の間はもちろん、ほかの人間関係にもあてはめるといいですね。

恵みとまことを与えて下さるイエス様が地上に来て下さいました。まず、恵みを与え、包み込んで下さるイエスさまが生まれて下さいました。なんて嬉しいことでしょう。
このブログをお読みになっておられる方々の上にクリスマスの祝福があふれますように。


メリークリスマス!


もうひとつのブログカリスは、「生かされて」の過去の記事からの転載が多いのですが、今日は「クリスマスは何の日?」と題して書きましたのでよろしければ、そちらもご覧ください。

実家の大掃除

2007-12-08 17:55:50 | 家族

さきほど実家から戻ってきました。
昨日は娘も来て、母、娘とわたしの親子三代で大掃除をしました。
洗剤を捜していたら、4年くらい前に父が買った洗剤が出てきました。粉状になっていて水で溶いて使う洗剤です。万能洗剤と書かれていました。きれい好きな父は、自分で買ってきて家の中のあちこちを掃除していたそうです。半分ほど減っていましたが、まだたっぷり残っています。


そういえば、思い出しました。3年前現在のマンションに引っ越したとき、父がこの洗剤を分けて持ってきたのでした。その1か月後に大動脈瘤の手術を受けているので、父がこのマンションに来たのはそのときが最初で最後でした。
父が召される半年くらい前からは、掃除もできなくなっていましたが、汚れているところは気になっていたようでした。わたしが実家に行ったとき、台所のレンジフードをふいたら、父がとても喜んだことを思い出しました。
今回もレンジフードを父の洗剤で磨きました。
「お父さん、きっと喜んでいるね。」
と母と話して、その後、父の思い出話に花が咲きました。


そして、はっと気づいたことは、母もわたしも父のことを話しても涙ぐんだりしなくなったということでした。もちろん、寂しさは感じます。もし、生きていれば曾孫を見てどれだけ喜んだだろう……などと考えると、胸がズキズキします。
でも、涙なしで父のことを語り合えるようになったのです。いつの間にそうなったのかわかりませんが……。


先月祈祷会でグリーフワークの学びをしました。愛する人を失ったとき、悲しみの対処法について、グリーフワークの10段階を教えていただきました。学びの通り10段階を経たわけではありませんが、母が父の死後1年余りで現実を受け入れられるようになっていることを感謝しました。
祈祷会のレジメに書かれていた文章の一部を紹介します。「すばらしい悲しみ」クレンジャー・E・ウェストバーグ著 地引網出版の「はじめに」より。


大切なものを失って嘆き悲しむのは、ごく自然なことです。時には失ったものがあまりにも大きくて、人生の土台が揺らぐほどのショックを受け、深い絶望の淵に投げ込まれてしまうこともあります。……私たちがもっと上手に悲しみに対処していくために、共に悲しみのプロセスについて学んでいきたいと思います。

確かに信仰はあらゆる悲しみに対して重要な役割を果たします。しかし、一部の人々が考えているような方法ではありません。彼らは強い信仰を持った人間は悲しまないし、そういったものは超越していると考えているようです……敬虔な信仰においては『真の信仰者は嘆き悲しまない』とは言いません。むしろ、悲しみには良い対処と悪い対処の両方があり、その人が人生で最も大切だと考えていることが悲しみ方にも表れてくると主張しているのです。

自らの喪失を正面から見つめ、その問題と前向きかつ誠実に取り組んで闘う人は、悲しみの体験を通してより強く深みを増した人間になり、他の悲しみにある人々をより効果的に助けられるようになることがわかってきました。

コメント受付再開しました

驚くほどのめぐみ(その4)

2006-11-28 12:41:59 | 家族

11月21日。実家でS先生により分骨式が行われました。手袋と箸を母が用意していましたが、先生はそれを使わず、素手で骨をひとつずついとおしむように移して下さいました。母はそれを見て感動していたようです。

骨を見ると悲しみがどっと押し寄せてきて、また涙があふれました。聖書の黙示録21章1節から6節を読んでいただき、お祈りの後、讃美歌298番を3人で歌いました。聖書は父が召される直前にわたしが読み聞かせていた箇所です。
教会での納骨式は年が明けてからです。最初母は「納骨式には行かないから、あんたひとりでやってちょうだい」と言っていましたが、S先生が帰られた後、「納骨式に行かなくちゃね」と言ってくれました。

讃美歌298番の歌詞を紹介します。


やすかれ わがこころよ。主イエスはともにいます。
いたみも苦しみをも おおしく忍び耐えよ。
主イエスのともにませば、たええぬ悩みはなし。

やすかれ わがこころよ。なみかぜ猛るときも、
父なるあまつかみの みむねにゆだねまつれ
み手もてみちびきたもう のぞみの岸はちかし。

やすかれ わがこころよ。月日のうつろいなき
み国はやがてきたらん。うれいは永久(とわ)に消えて
かがやくみ顔あおぐ いのちのさちをぞ受けん。


この歌詞のように、わたしの心はやすらかです。どんなに大きな悲しみ、苦しみの波がやってきても、イエスさまがいっしょなら、耐ええられない悩みはありません。天国に行けば、うれいは永久に消え、イエスさまの懐に抱かれます。いまごろ、父はイエスさまのもとでニコニコ笑っていることでしょう。
母の心にもやすけさがありますように。

驚くほどのめぐみ(その3)

2006-11-27 13:19:59 | 家族

母が混乱するのはもっともなことです。でも最後には、
「あんたがどうしてもと言うなら、考えてもいいけど……Y子(妹)は何と言うかしら?」
と言いました。
Y子に電話すると、意外にも喜んで、薦めてくれました。わたしは知らなかったのですが、Y子は父の葬儀の前に川崎のお寺の墓に分骨して入れてほしいと母に頼んだそうです。秋田は遠いので、お墓参りにいけないから、関東にお墓があればいいと思ったようです。たいそうなお金がかかるという理由で母に反対され、その話はなくなったのです。わたしが土浦めぐみ教会に納骨することが可能だというと、妹はぜひそうしてほしいと言いました。


何人かの友人に相談すると、賛成してくれました。でも、決めるのはわたしです。それから2日間、祈りました。
あまりにも突然のことで、しかも母はあまり喜んでないので、果たして教会に納骨することが神さまのみこころなのかわからなかくなってしまいました。

祈りながら、わたしの一時的な感情(寂しいから遺骨を近くに置いておきたいという気持ち)だけで分骨しようとしているのか。目的は何なのか考えました。
父の遺骨が教会にあるという事実が、母や妹を教会に結びつける。母や妹にキリストを伝えたいということが納骨の目的だということをはっきり確認できました。

それでもこのように祈りました。
『もし、分骨が神さまのみこころならば、できるように。みこころにかなっていなければ、神さまがストップしてください』


17日夜、再び母に電話すると、
「分骨用の壺はどこに売っているのかしら?」
と、母は分骨する心づもりをしています。驚いて尋ねると、わたしが電話する10分ほど前に妹から電話があり、分骨を薦められたそうです。
それからすぐS先生にメールを出すと、「早いほうがいいでしょう。善は急げです。」と言われ、21日に実家にきてくださることになったのです。


なんというタイミングの良さでしょう!実家にまだお骨があるときに祈祷会で「納骨の神学」の学びをしたことといい、主の御手が大きく働いてくださったことを目の当たりにして震えるほど感動し、無事に済むまではブログに書けませんでした。

           つづく

驚くほどのめぐみ(その2)

2006-11-26 20:12:53 | 家族

今日は朝8時半からのⅠ礼拝に出席。10時よりCS奏楽奉仕をし、分級ではクリスマス会のペープサートのセリフ録音。11時半から(Ⅲ礼拝の間)教師達でペープサートの制作。昼食後、1時半からCS教師会。3時半からクリスマス会で行う教師によるスライド劇の練習。家に帰ったのは5時。すっかり暗くなっていました。とても疲れているはずですが、気持ちが高ぶっているせいか、不思議なほど元気です。

分骨することになったいきさつを書くのでしたね。


15日に祈祷会に行きました。11月は祈祷会で「死と葬儀」というテーマで学びがあり、15日はちょうど「納骨の神学」についてでした。父の葬儀から間もない時期にこのような学びをするのは正直つらく、お休みしようと思いました。でも、体調が良く、特別な用事がないときは必ず祈祷会に出席するようにしているので、出かけました。その日、祈祷会に行ったことが、大きな喜びに変わったのです。


教会に納骨すると、記念会をすることもできるので、家族や親戚への伝道になる。クリスチャンでない人の遺骨も納められる。分骨することもできる。と聞いて、父の遺骨をこのピスガ(めぐみ教会の納骨堂)に納めることができたら、どんなにいいだろうという気持ちになりました。


父が召される前までは、自分自身のことも含め『骨には魂はないのだから、どこに納骨されてもかまわない』という考えでした。でも、いざ亡くなってしまうと遺骨を近くに置いておきたいという気持ちが沸いてきました。父の体でのこっているのは骨だけだと思うとなおさらです。遠い秋田のお墓にすべてを埋めてしまったら、寂しさは募るばかりでしょう。実家に遺骨のある今なら間に合うかもしれないと思い、祈祷会のあと早速S先生にお話しました。


「埋葬許可書と分骨用の壺があれば、分骨をしにご実家に行きましょう」と言ってくださいました。もちろん、母と妹の同意が必要です。
その晩、母に電話をすると、
「お父さん、洗礼を受けたわけでもないのにどうして教会に納骨するの? もう、わずらわしいことはやりたくない」
と言われました。あまりにも唐突だったので少し混乱してしまったようです。

                       つづく

驚くほどのめぐみ(その1)

2006-11-25 21:34:58 | 家族

21日から実家に泊まっていました。今日は御茶ノ水クリスチャンセンターで行われたクリスチャン・ペンクラブのクリスマス会に出席し、土浦に戻ってきました。
クリスマス会ではトロンボーンとピアノの素晴らしい演奏を聞き、降誕の聖書朗読にイエスさま誕生の喜びが沸き上がってきました。


21日にすごいことがありました。その1週間前には予想すらしなかったことが現実となりました。牧師先生が実家に来てくださり、父の遺骨を教会の納骨堂に納めるために分骨してくださったのです。


わたしの通う土浦めぐみ教会には、ピスガという納骨堂付きチャペルがあります。父が洗礼を受けて召されたのなら(キリスト教では亡くなることを(天に)召されると表現します)お葬式は教会で行い、遺骨はピスガに納めることを考えたでしょう。


わたしは、父がキリストを信じて天に召されたと確信していますが、洗礼を受ける間もなかったので、母や妹は確信を持っていません。
秋田のお寺にお墓があり、そこに納骨することが決まっていました。(来月9日に皆で秋田県に行く予定です)
ところがです……。


分骨することになったいきさつは、次回書きます。

父の遺してくれた物(その4)

2006-11-21 06:47:43 | 家族
今日これからまた実家にいきます。妹が仕事でフランスに行っているので、訪れる人も少なく、寂しさを感じている母と共に時を過ごそうと思っています。


父は「永遠のことば」を読み始めたころ(2年半前)から少しずつ変わってきました。母や妹やわたしに「ありがとう」とよく言いました。それまでは決して口にしなかった言葉です。


今年の4月、癌がかなりすすんでいて、肺にも転移していることがわかったとき、医師の薦めでホスピスを捜しました。父には吉祥寺に買い物に行くと嘘をついて、母と妹と3人でホスピスを見学にいったのです。わたしたちが家に戻ると、留守番をしていた父の機嫌は悪く、
「ぼくが具合が悪いのに、お前達は呑気に買い物か」
と怒鳴ったので、わたしたちはあわてて父の機嫌をとり、
「具合どう? 大丈夫?」
と声をかけると、
「もう、いいんだ、ほっといてくれ」
と怒って2階に上がって寝てしまいました。
こんなふうにすねたのは、1回きりでした。



その後、ホスピスに入院したとき、春に見学して予約を入れておいたから入れたのだと説明すると、「そうだったのか……。ありがとう」と涙を流して言いました。
父は末期癌で余命がわずかだと知っていても平安でいられたのですが、その秘密が三浦綾子さんの言葉に隠されている気がします。



寝たきりの、何も自分の言葉でものの言えない人も、思っていることの心の中はすばらしいですね。(一方)口に出して言えるわたしたちが「ありがとう」という言葉を出さずに生きております。わたしたちはこの口で何かを言う義務があると思います。

でもわたしは、病気というのはマイナスばかりじゃない、いや長い病気であっても病気は病気なりにプラスの生活があるんじゃないかと思います。病気で失ったものはいったい何だろう、と考えたら健康だけだったんですね。健康は確かに失われたかもしれないけれども、その代わりに得たものは真実の友でした。

父の遺してくれた物(その3)

2006-11-20 13:41:09 | 家族

父は
「人が話しているときには、どんなに自分の意見が言いたくても割り込んでしゃべってはいけない」
とよく言っていました。わたしはそのことを守りたいと思っていますが、つい割り込みをしてしまうこともあります。でも考えてみたら失礼なことですよね。人の話を中断させて会話の流れを自分の方にもっていくのですから。

児童文学の会の合評会(フリートーク)では、このことを忠実に守ると一度も発言しないまま終わることが多いです。最後になって「何も発言しなかった文香さんどうぞ」と言われたときには、言おうとしていたことをすっかり忘れているなんていうこともありましたが……。

三浦綾子の「永遠の言葉」は1生命をめぐって、2さまざまな愛のかたち、3人生について、4病との共生、5神と信仰の5つに分かれています。その中で父は1から(26文中)7。2から(33文中)13。3から(41文中)12。 4から(21文中)8。を選んで書き写しています。

最後の5からはひとつもなかったので、書き写した時点では(2005年4月)神さまを受け入れていなかったのだろうなと思いました。
でも、よく読んでみると、5以外の言葉でも、どれもが聖書信仰に基づいていて、神さまの存在をぬきにしては考えられない言葉です。3の中には「神様は」で始まる文章があり、それも書き写されていました。



神様は、人間というものをおつくりになった。金がないというだけぐらいのことで、不幸になるようなものをおつくりにならなかったということですね。人間というものは、金がないということだけでは不幸にならない存在だと、わたしは思います。

病気になって初めて、ほんとうの人の姿が見えてくる。これは得がたい体験です。

人間は絶望的な状態であっても、一筋の光が見えたら、ぐーっと顔が変わっていくんですね。治すのは何か別なもの、(医療の)諸技術も大事でしょうけど、希望を与える言葉とか、希望を与える情景とか、何かわれを忘れさせるということが、すごく大事なのではないでしょうか。

父の遺してくれた物(その2)

2006-11-19 16:22:16 | 家族
テンプレート、クリスマスバージョンにしました。


三浦綾子の「永遠の言葉」(主婦の友社 発行)という本は2001年に出版されました。1999年秋に亡くなられた三浦綾子さんの講演、対談の中から選び出された言葉が書かれています。いままで活字になっていなかった講演記録の中の言葉も含まれています。
今日も父が書き写していたものの中から紹介します。


わたしが死ぬ時は結局、周囲のすべての人々に対して「いろいろありがとう」ということと「許してくださいね」ということと、この二つの言葉しかないような気がします。ほかにもさがせばいろいろあるけれど、この二つの言葉だけは素直に、本心から言って死にたいですね。でも実際になると「なんじゃ、おまえ」とか(笑)、何を言い出すかわかりませんけれど。

わたしたちは、なぜ生きねばならないか……という問いを発しがちですが、生きるとか死ぬとかという人生の一大事の「なぜ」は、だれにもわからないものですね。それよりもわたしたちは、だれも「生きる」のではなく「生かされている」と考えると、おのずから生き方も変わってくると思うんです。

あまりにも親が子どもに期待しすぎるということがあるから、むずかしいですね。子どもも親に多くの物を期待している。しかも生みの親にとって、わが子はおのれ自身でもある。でも、子供にとっては親はおのれ自身ではないですよね。親がいくら子をほめても、力を認めても、それが子どもにとってわずらわしいことだってありますよね。

父の遺してくれた物(その1)

2006-11-18 14:02:07 | 家族

父がワープロで書き写していた三浦綾子の「永遠の言葉」からの引用文を紹介します。
他にもまだたくさんありますが、1ページ目にまずこの3つの文章が書かれています。これらを選んで書いた父の心に思いを馳せながら写します。


わたしたちが命のことを考えるときに、ただ健康でありさえすればいいというあり方、ただ生きていればいいという動物的な考え方もありますけれども、この命をどのようにいきてゆくかという生き方もあるんです。そして、このほうが人間として非常に大事なことだと思うんです。

人間というものは、ほんとうに一人では生きることができないものです。お互いに支え合って人という字ができているわけです。人間という字は「人」の「間」と書きます。人の間にいなくては人間は生きられないのに、自分がいかにも一人で大きくなったように思ってしまう、そういうところがあります。わたしも情けない人間ですけど、感謝するということが人間はほんとうに少ないと思います。

世の中には、ほんとうに不幸続きの人がいます。いろんな人に対して、わたしたちが心から人間の生命をいとおしむならば、尊いと思うならば、それは素晴らしいことだと思います。人間の尊厳死が問題とされている世の中ならばなおさらのこと、わたしたちはどうして人間を尊厳の対象として見ないのでしょう。



父は信念を持っている人でした。実家に帰ると、わたしや子供達に人生訓を教え諭すように話してくれました。また、健康こそが大切なことだといい、健康には特に気をつけていました。脳溢血に絶対にならないための薬の作り方を教えて貰うと、わざわざ山形から蕗の葉を送ってもらってそれを煎じて薬を作り、主人やわたしにも飲ませてくれました。



それがどのくらいの効果があったかわかりません。父は脳溢血にはなりませんでしたが、その後大動脈瘤の手術を受け、癌になって召されたのでした。
2年前、大動脈瘤で入院してから、父の信念がぐらついてきたのではないかと思います。お見舞いに行ったとき「永遠の言葉」を渡すと熱心に読んでいました。
そして「とても感動した」といって涙ぐんでいました。書き写していたほどですから、父にかなりの影響を与えた本だといえるでしょう。


母の気持ちに寄り添って

2006-11-09 19:00:41 | 家族

父の葬儀がすんで土浦に戻ってから初めて実家に帰りました。約2週間ぶりですが、その間に息子の結婚式があったので久しぶりという感じがします。
チャイムを押すと、母の後ろから父が来てくれるような気がしました。父は具合の悪いときでもわたしが行くと必ず玄関まで出迎えてくれ、「よく来たなあ」と言ってくれました。


父のいない家はやけに広く感じられ、父の使っていた物や座っていた椅子を見るたびに涙が出そうになります。ここに一人で暮らしている母は、わたしの何倍も悲しいのだと思うと、明るくふるまって母を少しでも元気づけたいと思いました。
今回は、父の物の片づけをするために実家に帰ったのですが、父の部屋には入らず、なぜか母とふたりで台所やリビングの掃除ばかりしていました。


「お父さんの物、整理しなくちゃね」
と母が言いましたが、父の物を見るのがつらくて何から手をつけたらいいかわかりません。母が父の腕時計を見て、
「どうして動いているのかしら?」
とぽつりと言いました。
当たり前のことですが、お父さんは死んでしまったのに、時計はなぜ動いているのだろうと思った母の気持ちが痛いほどわかって、
「整理するのは、もう少し後にしよう。急がなくていいんじゃない」
といって、代わりに台所を片づけたのです。


父はとてもきれい好きで、元気なときは毎日食器洗いをし、その後1時間くらいかけてあちこちを磨いていました。なので台所はいつもぴかぴかでした。
このところ、すっかり台所が汚れてしまったので、母と一生懸命磨きました。
「お父さん、きっと喜ぶよ」
と言いながら。


知り合いの人が訪れて、
「少しは落ち着かれましたか?」
と問われ、
「はい」
と母はにこやかに答えていましたが、まだまだ傷は癒されていません。でも神さまによって少しずつ癒されていっています。

リビングのカレンダーはまだ10月のままでした。しばらくは、このままにしておきましょう。
「お母さんを頼む」と何度も父に言われたことを思い出しています。慰めの言葉は何も言えないけれど、ときどき実家に帰って母の気持ちに寄り添いたいです。

結婚式(その2)

2006-11-05 16:50:55 | 家族

写真のミッキーマウスのぬいぐるみは、結婚式披露会の記念品贈呈で息子にもらった物です。息子の出生時体重と同じ3170グラム、出生時身長と同じ51センチになっています。

今回、父のことがあったので、結婚式に関してはいっさいを若い2人にまかせていました。2週間ほど前、息子から生まれたときの身長と体重教えてと2回も電話があったので、披露会でプロフィール紹介をするのかなあと思っていました。このようなプレゼントをもらえるとは予想もしていませんでした。

ぬいぐるみを抱いたとたん、生まれたばかりの息子を最初に抱いたときの感覚がよみがえりました。23年も前のことですが、昨日のことのように鮮やかに思い出します。難産で苦労しましたが、元気な産声を上げたこと。取り上げて下さった先生が「男の子ですよ。いい赤ちゃんですね」といってくださったこと。なかなかオッパイを飲まないで苦戦したこと……。あんなに小さかった息子が、社会人となって、今結婚式を挙げたと思うと、胸がいっぱいになりました。

父にも結婚式に出てもらいたかった……。きっと天国で祝福してくれていることでしょう。
いまのわたしの心境は、慶びと悲しみが入り交じってとても書き表すことができません。

結婚式(その1)

2006-11-04 17:46:52 | 家族

昨日息子が結婚しました。青空の下、ガーデンで式が行われました。披露会には70名近くの方々が列席して下さり、祝福していただきました。感謝!!

新婦のお父様、お母様からの娘に宛てた手紙が読まれ、新婦からご両親への手紙が読まれたとき、感動してわたしまで涙が出てしまいました。
『ご家族に愛され、育まれてきたお嬢さんを大切にするんだよ』と心の中で息子に語りかけていました。

今日はあまりにも疲れて少ししか書けません。短い期間にお葬式と結婚式がありました。こんなことは、珍しいことなのでしょうね。でも、息子の結婚式によって母もわたしも心の痛みが癒されました。


神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道者の書3:11)


お前が伝えなければ……

2006-07-25 11:02:14 | 家族

一昨日の礼拝メッセージを聞いたとき、先日実家にいったときに心に示されたことを思い出しました。


 7月13日~19日「心のフィルムに」に書きましたが、末期癌の父にキリストを伝えたいと思い、そのことをずうっと祈っていました。 S先生と実家近くの教会のO先生が友人だとお聞きしたので、O先生に頼んで実家に来ていただこうと、父に話したことがありました。でも、父は、わざわざ牧師先生に来てもらうと、信じないと悪いという気がするから、呼ばないでほしいと断られました。
「別に信じなくてもいいの。お話だけでも聞いて」
と言ってもだめでした。

 
 そうなるとわたしが伝えるしかないのですが、いざ伝えようとしたとき、ものすごい葛藤が起こりました。
わたしが結婚前に洗礼を受けたとき、父に内緒で受けました。母に洗礼を受けたいと言うと、「お父さんに内緒にするならいい」と言われて、そのとおりにしたのです。
今では考えられないと思いますが、当時、クリスチャンになると結婚できなくなるという考えがあり、わたしの両親もそう思っていたのです。

間もなく父に内緒で洗礼を受けたことを後悔し、ずうっとうしろめたい気持ちでいました。何年もたってから、父に手紙で洗礼を受けていたことを話し、黙っていたことをあやまりました。それに対して父から直接は何のコメントもありませんでした。
母に聞くと、
「お父さん、知っていたみたいよ。もう時効よ」
と言うので、(おそらく隠し事のできない母が、話していたのでしょう)手紙を出した後父に会っても、その話はあえてしないまま、何年もたちました。


そんな経緯があったので、わたしがクリスチャンになったことを、父はもう怒っていなくとも、快くは思っていないのでは? と推測しました。先祖を拝む父に伝えても、受け入れてくれるはずないのではないか? もし、父がキリストを信じるなら、わたしが伝えなくても別の方法で信じるようになるのではないか? という思いが沸き上がってきました。


心の中で闘いながら祈っていると、
しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。(ローマ10:14)という聖書の言葉が示されました。


「お前が伝えなければ、誰が伝えるのだ。わたしは、お前の口を必要としている」
とイエスさまから言われたような気がして、話すことができたのでした。
また、30日の夜、実家に泊まります。父とゆっくり話す機会が与えられますように。

 

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