goo blog サービス終了のお知らせ 

生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

弱くてもろい体

2018-05-22 16:47:35 | 教会
わたしの通っている教会は、朝の礼拝が3回あります。8時半、10時、11時半からの約一時間礼拝です。どんどん人が増えてきているので、どの礼拝でも満席に近いです。わたしはティーンズの奉仕をするようになって、毎週第一礼拝に出るようになりました。別の場所で10時からティーンズ礼拝があるからです。

朝早く自転車を走らせていると、息切れ状態で教会に着きます。
讃美歌をうたおうとしても声がほとんど出ず、立っているのもやっとで、椅子の背もたれに手をかけて倒れないようにしています。

でも、ティーンズ礼拝になると、声がだんだん出てきます。分かち合いの時間には元気になっています。
それでも常に肉体の限界を感じています。体の弱さに嘆き、泣きたくなるようなときもあります。
一昨日の礼拝では、弱さに嘆くこの者が大いに励まされました。

ピリピ3:20には、
「私たちの国籍は天にあります。」と書かれています。私たちが帰っていくところに国籍があるというのです。
 
私はこの聖書箇所を読むとうれしくて涙が出そうになります。『天に本当のふるさとがあるのだよ』と言われている気がするからです。
天に国籍があると思うと、苦しみに耐えることができます。

私たちは、罪が赦されたという救いの確約がありますが、完全ではありません。
現実は弱さの中で苦しみ、うめいています


「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ8:18)」

将来受ける栄光のことを思うと、このような苦しみはたいしたことがないとパウロは書いています。

そのうち完全な救いが来て、栄光の体に変えられます。栄光の体に変えられることを栄化といいます。
今は弱さともろさにうめいていますが、完全な体になります。


自分の努力でそうなるのではなく、神様が私たちを救い主の栄光の姿と同じにしてくださるのです。
病で苦しみうめいていても、弱くもろい肉体であっても、将来は完全な体にしていただけると思うと、希望が与えられます。何があっても、神は生きておられ、善意をもって導いてくださることを信じて前に向かって歩んでいきたいです。


写真はつくばのバラ園


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


もう泣かないで

2018-05-14 20:39:07 | 教会
昨日の礼拝ではH先生が詩編8篇よりメッセージをしてくださいました。

あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。
詩編8編3~4


これは、旧約聖書に出てくるダビデが書いた詩です。
月や星の美しさをほめたたえているのではなく、それを造られた神をほめたたえています。
「人とは何者なのでしょう」というのは、自分の存在が弱くてもろいと気づき、神との隔たりを感じたときの言葉です。

その隔たりを超え、弱くてもろい人間に神の方から近づいてきてくださるのです。
『顧みる』とは、神が関心を持って近づくという意味だそうです。
裸の自分の姿を知る人に神が働きかけるようすがみられます。


わたしはこの詩が大好きです。満天の星を見て、ダビデが詩を書いている姿が見えてくるようです。

人とは何者なのか……なぜ自分が存在しているのか、存在していいものなのか

中学生の頃、考えていました。誰に顧みられず、心を留められず、ひとりぼっちだったわたし。本当はひとりぼっちではなかったのですが、神様の存在に気づかなかったのです。
天の父なる神様がこのわたしを顧みてくださっていることを知ったら、どれほどうれしかったでしょう。

欠点や失敗がどんなにたくさんあっても関係なく、神様は顧みてくださるのです。おそれ多くて近づくこともできないでいると、神様の方から近づいてきてくださるのです。
いま、神様に顧みられているわたしは、幸せです。人生も終盤になってきましたが、「何も成し得ななかった」と心を痛めたり、後悔したりする必要はないのです。

失意の中におられる友よ、
信仰が失われてしまったかもしれないと思う時でも、神様はぎゅっと手をつかんで離しません。

友よ、いま神様が顧みてくださっています。いま神様が、あふれる愛で満たしてくださっています。だからもう泣かないで……。
友のために祈りつつ。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。



信じたら起こる変化

2018-03-13 16:24:32 | 教会
日曜日は礼拝で3・11の祈りを捧げました。ここ土浦では人的被害は少なかったものの、震災後、屋根にブルーシートがかけられている家が何軒もあったことを思い出しました。
バッハのG線上のアリアが演奏され、黙とうしているうちに涙が流れてきました。

新約聖書ピリピ人への手紙3:10、11からメッセージをいただきました。
「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3:10-11)」


キリストを信じたら、新しいいのちが与えられます。そして内側に変化が起こります。その変化は、修練によるのではなく、また人の努力によるのでもありません。神様が新しいいのちを植え付けてくださることによるのです。
キリストを信じることによって起きる変化はどういうものでしょう……。

私の場合を書いてみます。メッセージの中で挙げられたものと似たものが多いです。

①罪からの解放 赦された喜び

罪に気づく前は、いつも自分が正しいと思っていました。神様からの光に照らされて、罪を自覚したとき、あまりにも多くの罪があることに気づき愕然としました。そして、このままではいけないと思って、教会へ足を運んだのです。
このような者でも罪が赦されると知って嬉しかったです。

②空しさからの解放

中学生の時は空しさを感じ、何のために生きているのかわかりませんでした。生きる意味なんかないじゃないかと考え、死を望んでいました。でも、キリストに出会って生きる意味が与えられて、心の隙間が埋められました。

③漠然とした不安からの解放

人はどこから来て、どこへ行くのでしょう。神仏には頼れないと思い、確固たる真の頼れるお方に出会いたいと思っていました。イエス様に出会ったとき、この方こそ、わたしの主だと思いました。

④死後どうなるのかについての解決。死の不安からの解放
 
どんな人でも、必ず老いと死はやってきます。死は終わりではないのです。天国に行けることを信じたら、平安が訪れました。

⑤生きる目的がわかった

この世界の始まりも、自分が生まれたことも、すべて偶然によるものだと教えられていたので、何のために生まれてきたかわからなかったのです。劣等感が強くて、自分は人間失格だと思っていました。
神様のために生きるという目的が与えられていることを知り、感謝しました。

⑥自分がどれだけ愛されているかわかった。

神様は、わたしの罪を赦すため、ひとり子イエスを十字架につけてくださいました。それほどわたしを愛してくださっているのです。こんなに感動することはありません。

ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」

世の代わりに自分の名を入れてみると神様の愛がよくわかります。いつもこのことを思っていたいです。

⑦将来の希望が与えられた

キリストを信じた者には永遠のいのちが与えられることが約束されています。イエス様が天国でわたしの場所をあらかじめ備えてくださっています。だから、何の心配もありません。

⑧洗礼を受けても罪を犯すことはあるが、罪の中にとどまることがないようにされた。

わたしの場合、これらの変化は洗礼を受けたときに一度に起こったのではありません。
洗礼を受けた時点では、①だけでした。その後、聖書を読み、教会生活をおくる中で、少しずつわかってきました。
キリストを知る絶大なる恵みを知ってうれしいです。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。



叶えられるとしたら、何を願い求めますか?

2018-02-28 16:21:40 | 教会
願い求めるものは何でもかなえられると聞いたら、何を求めるでしょう。金銭ですか?
健康ですか? 不老長寿ですか? 

昔、ソロモン王は、神様に知恵を願い求めました。
箴言3:13には「幸いなことよ。知恵を見いだす人」と書かれています。知恵を願い求め、与えられたソロモンが書いたのです。

知恵を求めたソロモンはすごいですね。
知恵はいのちの木となるとソロモンは言っています。
神様は知恵を求めたソロモンを喜び、惜しげもなく与えています。知恵だけでなく、地上の富も与えました。

今日、水曜礼拝でヤコブの手紙からのメッセージを聞きました。

ヤコブの手紙1:5には次のように書かれています。
「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」

わたしたちにも知恵を与えていただく資格があります」と牧師先生が言われました。
なぜでしょう。

父である神様は、子であるわたしたちを愛しておられるからです。
わたしたちは神の子なので、父から知恵をいただくことができるのです。
ヤコブの手紙1:6には「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。」と書かれています。

わたしには、願いがありますが自分のために祈ることにためらいを感じていました。毎朝のデボーションでは、祈りのカードに友人知人の名前を書いて、ひとりひとりのことを祈り、自分のことは最後に少し祈るだけでした。

ましてや、自分の願いを祈るのにはためらいがありました。
自分勝手な願いかもしれない。あるいは、自分が認められたいからかもしれない。いえ、神様の栄光のためにやっていることだから、願ってもいいのだろうか……。と、悶々としていましたが、「神様は、願ったことを必ずかなえてくださいます。自分のためにも祈りなさい。」という勧めに勇気を出して自分のために祈りました。

上の写真は桜川の土手の桜。つぼみがふくらんできています。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。



老いを受け入れる(その2)

2018-01-26 16:19:55 | 教会
健康志向の今、テレビを見ていると健康についての情報が大量に流れてきます。

健康にこだわるあまり情報におぼれ、それがすべてだと思ってしまう人がいます。
わたしも時々テレビで見ると、野菜食べなくちゃ、もっと運動しなくちゃと、その時だけ思いますが、次々と新しい情報が入ってきて、一週間もたつと忘れてしまいます。

以前、ブロッコリーを毎日食べていれば健康になれ、アンチエイジング、ダイエット効果もあると放送されるとスーパーのブロッコリーがあっという間に売り切れになったということがありましたね。

ブロッコリーを食べていると安心し、ブロッコリーを食べない日があると不安になる人がいたそうです。
それは、ブロッコリーに限らず、あらゆる食べ物がメディアで取り上げられると買いに走る人がいて、スーパーではテレビでとり上げられた食べ物をあらかじめ店頭に出して置くという現象も起きています。

それは『健康という病にかかっている』のだそうです。
健康に気をつかいすぎても、全く気をつかわなくてもだめですね。バランス良くありたいです。

人に誇れるぐらい健康な人でも、老いを止めることはできません。個人差はあっても、人は年齢と共にだんだん衰えていきます。

では、どうしたら老いと向き合うことができるのでしょう……。老いと向き合うには、人生の最盛期に考えるべきだと日野原氏は言われました。

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。(伝道者の書12:1)」

自分はもう若くないから手遅れだと思わないでください。
今日があなたにとっていちばん若いのです。明日より今日が若いのです。

ポール・トゥルニエは人生を四季にたとえています。春夏秋冬それぞれの季節に生きるのは、それぞれの季節に人間としての必要があるからだそうです。
人生の冬を迎えたとき、その人が生涯やってきたことが問われます。衰えていく自分と向き合うことは、人生の宿題だと聞きました。

わたしは気持ち的には夏なのですが、冬の入口に立っていることを認めなければなりません。でも、体は衰えても心は生き生きとしていたいです。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(Ⅱコリント人への手紙4:16)」わたしの好きな聖書の言葉です。

前回と今日のブログには、先週と今週の水曜礼拝のメッセージを受けて考えたことを記しました。
おわり


 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。
                   

老いを受け入れる(その1)

2018-01-24 20:08:42 | 教会
昨日、数年ぶりに雪が積もりました。

雪が積もって心をときめかせていたのは、いつまでだったのでしょう……。
最近は雪が降ると、どうか積もらないでほしい。道路が凍ると車で生活している息子たちはどんなに大変だろうと、
現実的なことを考え案じているわたしです。

土浦は数センチの雪だったので、車の走る道路は、ほとんど雪が消えていました。今日教会へ行ったのですが、自転車では危ないので歩いて行きました。
写真は今日撮ったものです。桜川の土手にはまだ雪が残っていました。
 
水曜礼拝では、「老い」についてのメッセージでした。
わたしは、ちょうど60歳になったとき、老いを身に沁みて感じました。
病院の待合室にいると、高齢者の方が「足が痛い」「腰が痛い」「肩が痛い」と嘆いている声が聞こえてきます。
以前わたしはそれを聞いて、嘆く言葉を言わない老人になりたいなと思いました。でも、実際に年をとって、体のあちこちが痛くなると、「痛い」と口には出さなくても、頭の中は『痛みを早く直したい、直すにはどうすればいいのか』と、そればかり考えています。

そもそも老化はいつから始まるのでしょう。医学的にみると20歳前から老化は始まっているそうです。
日野原重明氏が著書「老いを創める」の中で、マルティン・ブーバーの言葉『老いることはまた楽しからずや。ただし創めることを忘れさえしなければ。』を紹介しています。

老いを『始める』ではなく『創める』のです。創めることは、誰でもいつからでもできます。その人の年齢と生き方をどのようにとらえるか姿勢が問われるのだと聞いて、はっとさせられました。
               
                          つづく


上の写真は凍った水たまりです。不思議な絵が浮かび上がっています。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


人の評価は塵あくた

2018-01-17 16:06:25 | 教会
先日の日曜日は、年間聖句についてのメッセージを聞きました。

「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:13-14)」

人は、何のために一生懸命努力するのでしょう……。
多くの人は自分のためと言います。家族や愛する人のためと言う人もいるでしょう。栄誉を得ると、自分が努力したからだと思って高慢になります。

パウロは神の栄冠を得るために、目標目ざして一心に走っていると言っています。人の栄冠は朽ちるものですが、神の栄冠は朽ちません。

パウロは人の評価でなく、神の評価を大切にしました。

パウロは家柄もよく、学歴もあり、ガマリエルの門下生であり、旧約聖書を学び、律法を守っていました。これらは人から高い評価を受けることでした。でも、キリストにあってそのようなことは、損と思うようになり、塵、あくた(ごみ、値打ちのないもの、汚いもの)のようだと言っています。

「塵、あくた」は、聖書の別訳ではガラクタ同然、廃物同然と記されています。
どんなに人から高い評価を得ていても、何の価値もありません。

「大切なのは神からの評価です。神の栄冠を得るためにへりくだって歩んでいきましょう。」と牧師先生が言われました。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。



与えられたいのち

2017-12-28 15:51:30 | 教会
3日間3歳のナルクン(孫)に振り回されてフラフラでした。
活発でよくしゃべり、よく泣き、よく食べ、ちょっと目を離すと、とんでもないことをしでかしているナルクンです。

7歳年上のお兄ちゃん(ヒックン)と何でも同じようにしたくて、できないとくやしがって泣きます。
穏やかな性格のお兄ちゃんと負けん気の強いナルクン。それぞれ違った賜物を持っています。
ふたりは、今日いったん家に帰って30日からまた来ます。

以前、ブログで紹介したひろくんが、ママと手をつないで教会にやってきました。5月に国内で心臓移植ができ、すっかり元気になりました。

アメリカで移植手術を受けるための3億1千万という途方もない額の必要経費が募金活動などによって与えられたことも奇跡でしたが、国内でドナーが与えられたこと、手術が成功したことが本当に大きな奇跡で、多くの人の喜びとなりました。

ドナーとなった子どものいのちは失われましたが、ひろくんのいのちは助けられました。
わたしたちのいのちを救うために十字架で死んでくださったイエス様の姿がオーバーラップされました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(みこ)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」

「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。(エゼキエル36:26)」


今年のクリスマスのメッセージで語られた聖書の言葉です。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

クリスマスは誰の誕生日?

2017-12-13 17:28:15 | 教会
もうすぐクリスマスですね。街ではきらびやかな飾り付けがなされ、クリスマスソングが流れています。
なぜクリスマスを祝うのでしょう。クリスマスはサンタクロースの誕生日だと思っている人もいます。

そうではありません。4千年も前から、人々はある方の誕生を待ち望んでいたのです。そして、2千年ほど前にそれは実現しました。
ある方とは、イエス・キリストです。

旧約聖書には、救い主が生まれることについて書かれた箇所がいくつもあります。けれども、それがいつのことなのか書かれていないので、旧約聖書を読んでいた人たちは、そのときをずっと待ち望んでいました。
救い主とは、罪のため滅んでしまうしかない人々を救ってくださるお方のことです。
救い主は、ご自分を信じる人々を神の子とし、永遠の命を与えてくださるお方です。

旧約聖書は、イエス・キリストが誕生する前に書かれました。新約聖書は、イエス・キリストの誕生後に書かれています。
2千年前に人々が長い間待っていた時代は終わり、救い主であるイエス・キリストがお生まれになりました。

旧約聖書で預言されている箇所があります。

「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、
わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。
わたしは彼の上にわたしの霊を授け、
彼は国々に公義をもたらす。
彼は叫ばず、声を上げず、
ちまたにその声を聞かせない。
彼はいたんだ葦を折ることもなく、
くすぶる燈心を消すこともなく、
まことをもって公義をもたらす。
彼は衰えず、くじけない。
ついには地に公義を打ち立てる。
島々も、その教えを待ち望む。(イザヤ42:1~4)」

(彼というのは、イエス・キリストのことです)

12弟子のひとりであったマタイは、マタイの福音書にこの箇所を引用しています。(マタイ12:18~22)
ほとんど内容は同じですが、最後に「異邦人は彼の名に望みをかける」と書かれていて、そこだけが違っています。『待ち望む』→『望みをかける』に変化しているのは、マタイが実際に救い主と出会って弟子となり、その感動からこの一文を書いたと教えていただきました。

イエス様の誕生は、希望があり、いのちがあります。

なぜイエス様に希望があり、いのちがあるのかについて、メッセージで語られたことを紹介させていただきます。

イエス様は多くの病人を癒しましたが、その偉大な力をご自分の名声を高めるためのことはしませんでした。不正なことをしていた収税人、殺されそうになっていた女の人、生まれつきの盲人、37年間病んでいる人など、ひとりひとりに全力でかかわってくださいました。

また、イエス様は弱さを担ってくださいました。重い荷物を背負って歩いていると思ったら、荷物ごと運ばれていました。運んでくださったのはイエス様です。


「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになってもわたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なおわたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう。(イザヤ46:4)」

イエス様は、私たちが弱いからこそ近づいてきてくださったのですね。

心配性で気が弱く、いつも何かにおびえていた弱い弱いわたしにイエス様の方から近づいいてきてくださったのです。


「彼に信頼する者は、失望させられることがない。(1ペテロ2:6)」



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

待つということ

2017-11-29 20:06:16 | 教会
今日は水曜礼拝の後、駅前に新しくできた土浦図書館に行ってきました。
今迄の図書館が閉館する前に8冊も借りていたので返すのが目的です。借りている期間が図書館移転のため2か月近くあったのですが、半分も読めませんでした。(別の本を読んだりしていたので)

今回は忙しくて2週間後に返せるかわからないので、借りて来ませんでした。

館内は明るくてとても広く、ラウンジもあり、くつろいで本を読んでいる人たちがおられました。児童書のコーナーも広くて、これまでの図書館とはずいぶん違います。

ただ、これまでは家から歩いて10分ほどのところに図書館があったのに、今度は遠くて30分はかかります。自転車でも遠く感じられます。運動になるので通うつもりですが、年明けてからにしようと思っています。

水曜礼拝では「待ち望む心」と題して聖書のルカの福音書1:26~38からメッセージをいただきました。

先日、つくばエクスプレスが20秒早く発車したことを鉄道会社が詫びていましたが、海外メディアから驚きの反応があったそうです。

アメリカでは、20秒遅れたぐらいであやまっていたら、あやまる専門の駅員が必要だと言ったとか……。
時間通りが当たり前の日本と30分ぐらいまでは遅れても気にしない国とでは感覚が違うのでしょうね。

ラインの返事が5分来ないだけでイライラする中高生。現代人は待つということができなくなっていると聞いて、わたしもそうかもしれないと思いました。

知り合いに「あなた、かなり危ない運転をしているね」と言われました。わたしが自転車で走っている時、ちょうど車の中から見ていたそうです。信号がまさに赤になろうとしているときに猛スピードで渡ったり……。

暴走ぶりを見られていたんだ(>_<) でも骨粗鬆症と診断を受けてからは、転ぶのが怖いので無謀なことはしなくなったと思いますが……。


待つということは時間の無駄だと考える風潮がありますね。待っているだけではだめ、自分から行動すべきだと言う人もいます。
なぜ待てないのか……それは恐れに取りつかれているからだそうです。満たされていない思いがあり、自分が不完全な者だと思って恐れるため、待つことができないのです。
また、怒りの感性も待つことから遠ざけています。

でも、待つことのできた人たちがいます。
2000年前、ザカリア、エリザベツ、マリヤ、ヨセフ、シメオン、アンナは待つことができました。救い主がいつか生まれると旧約聖書に預言されていて、イスラエルの民はそのときをずっと待っていました。聖書の人たちは、待つことが、かけがえのない時間と思って待っていました。それはすでに起きている出来事なのだと信じ、今を積極的に待っているのです。

マリヤは神の子を宿していると知り、驚きとまどいながらも受け入れました。そして、胎内で赤子が育まれ、生まれてくるのを待ちました。
より良いできごとが起こると信じ、希望を持って待ちました。

ザカリアとエリザベツは年を取ってから赤子を授かり、生まれるときを待ちました。シメオンとアンナは救い主に会うことを待ちました。

待つことができなくて自分の意のままに操作しようとする人たちがいます。
でも、わたしたちの人生を導いてくださる神様を信頼して待ち望むことが大切だと
教えていただきました。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

                 

目に見えない望みを持って

2017-11-09 16:39:10 | 教会
膝が痛くて整形外科に行くと、変形性膝関節症と言われ、9月に装具をつけました。膝につけるのではなく、小さなスリッパのようなものを履くのです。装具には傾きがついていてO脚を矯正してくれ、膝の骨がこすれないようになっています。

装着して一週間ぐらいで効果が表れ、痛みはほとんど感じられなくなりました。
すると右膝も左と同じ個所が痛くなり、また整形外科に行ってきました。
右も装具をつけることになり、慣れないのでアヒルのような歩き方になっています。

紐で調節できる靴ならそのまま履けますが、おしゃれ靴は履けません。ちょっとがっかりです。でも、右も痛みがやわらいできているので、感謝しています。

5日は召天者記念礼拝でした。

今年も故人の写真が映像で流されました。何と懐かしい人たち……。お世話になった人たち……。ほとんどの映像は笑顔です。わたしの両親の画像が写されたときは、また泣いてしまいました。
ふたりとも天国にいるとわかっていても、いつか再会できるとわかっていても、地上では
会えないのです。

愛する者から引き裂かれた悲しみが波のように襲ってきます。
もっと優しく接すればよかった。ああすればよかった、こうすればよかった……と後悔の気持ちで胸が痛みます。

でも、「希望があります。」と牧師先生が言われました。

ローマ人への手紙8:18-19には「今の時のいろいろの苦しみは、将来わたしたちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足らないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。」と書かれています。
希望は、生き抜く力になります。

地上には苦しみがあります。うめいている人たちがいます。でも、希望があります。

「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。(ローマ8:24)」

目に見えない望みを抱いて歩んでいきたいです。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

予定外のこと

2017-10-24 17:12:28 | 教会
一昨日は台風で大変な思いをしました。朝、8時に家を出るときはそれほどでもなかったので、傘をさして教会まで歩いていきました。帰りはお昼の12時過ぎでした。たいしたことないと思ったのですが、20分間で傘は5か所骨折。髪の毛も服も持っていたバッグもびしょ濡れでした。せめてバッグにはビニールをかぶせておけばよかったと反省しています。ひどい風雨が往きでなくてよかった。無事帰り着いてよかった! 守ってくださった神様に感謝です。

予定外の事故や病気で、なすべきことができなくなったことがありますか?

日曜日の礼拝メッセージでは、ピリピ人への手紙2:25~30からメッセージがありました。
聖書ではパウロの弟子エパフロデトがエルサレムに義援金を届ける使命を受けていたのに旅の途中で死ぬほどの病気にかかってしまったことが書かれています。のちに病気は癒されて、ピリピに無事戻ることができましたが、病気になったときのエパフロデトの心情はどうだったのだろう……
と想像すると胸が張り裂けそうになります。

わたしにもそのような経験があるからです。(今日の記事はメッセージから脱線しています)

わたしは小児喘息でした。高校生のころいったんは治ったのですが、出産後10年ぶりぐらいに喘息の発作が起きてしまいました。そのときは大きな発作にならなかったのですが、それから毎年秋になると発作が起きるようになり、年々重くなっていきました。
第2子が生まれた時は、ひどい発作に襲われて、生後10日の赤ん坊は実家に預け、入院生活を余儀なくされました。3歳4か月の長男は夫の実家に預けていましたが、「こんなはずじゃなかった」と、点滴を受けながら泣いてばかりいました。

娘が9月20日に生まれたので、10月はじめには息子を連れてきてもらって、10月中には自宅に帰ろうと計画を立てていました。でも、それができなくなったのです。
一番つらかったのは、息子に会えないことでした。わたしも息子も会える日を指折り数えて待っており、あと一週間で会えるというときに入院してしまったのです。

息子はやさしいおばあちゃんに面倒を見てもらっていましたが、夕方になると寂しくなって泣きべそをかいている。おばあちゃんがおんぶして、通りまで出て、車が走るのを見て気を紛らわしていると聞いて胸が張り裂けそうでした。

治療を受けているのに発作は治まらず、苦しくてなりませんでした。聖書も読めず、祈ろうとしても言葉が出ず、出口のないトンネルの中にいるようでした。

入院して10日たったときにステロイドを投与してもらい、ようやく発作が治まってきて退院となりました。自宅にもどったのは予定より1か月も後でした。

喘息は完治したわけではなかったので、子育て中も発作が起きました。2人に留守番させて救急外来に這うようにして行ったり、娘を病院のベッドの傍らに置いて、点滴を受けたりしました。よく死ななかった。(大げさに書いているのではありません。病院の玄関前で倒れて死んでいる喘息患者が朝になってみつかることがあると病院関係者が言っていました)よく2人の子を育てられたと、今振り返ると不思議な気がします。

あのような苦しみは何のためだったのでしょう?
その後喘息は、予防薬を使うようになって治ってきましたが、それから数年後に乳がんが見つかったのです。
がんの治療は不思議に辛いとは思いませんでした。布団に仰向けに横になれる、じゅうぶん息が吸えて吐ける。喘息よりずっと楽ではありませんか。

30年も苦しんだ喘息でしたが、もしかして忍耐が養われるためだったのかもしれません。
自分の努力ではどうすることもできない病。病を憎むのではなく、感謝できたらいいですね。

聖書の言葉
「それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。
(ローマ人への手紙5:3-5)」



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

何かできる

2017-10-16 16:07:18 | 教会
急に寒くなりました。風邪をひかないように厚着をしたら、汗をかいて冷えてしまいました。気温変動が大きいと、調節が難しいですね。

昨日の礼拝ではピリピ人への手紙2:19-24の箇所からメッセージがありました。

テモテはルステラ出身で、父親はギリシア人。母親はユダヤ人でした。ギリシア語の教育を受け、祖母ロイス、母ユニケによってヘブル語の聖書を教えられました。それでテモテはパウロと同じようにギリシア語とヘブル語を話すことができました。パウロはテモテを高く評価しました。

聖書には「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。(ピリピ2:20)」と書かれています。

パウロはテモテを息子のように愛し、テモテはパウロを父のように信頼しました。テモテはパウロの期待に応えてパウロに忠実に仕えました。パウロが軟禁状態になったときは何度も訪れ、パウロを励ましました。

パウロは、死を覚悟しながら伝道していましたが、たとえ自分が殉教の死を遂げても、テモテにその働きを託せるので安心していたのではないかと思います。

実際テモテは、キリストをアジアからヨーロッパに伝えるための重要な働きをすることになりました。それはこの100年を変えるような働きだったそうです。

テモテがそのような働きができたのは、祖母や母によって幼いころから聖書に親しんでいたこと、祖母や母がテモテを捧げたことによるのです。

イエス・キリストが十字架につけられたとき、同じように十字架につけられた2人のうちのひとりが、はりつけにされた状態でイエス・キリストを信じ、救われました。でも、何もできないで召されてしまいました。

「わたしたちは何かできます。わたしたちはテモテです」という言葉に励まされました。


日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。わたしのエッセーが掲載されています。
ここをクリックしてごらんください。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

苦難の意味(その2)

2017-10-10 16:58:25 | 教会
昨日の続きです。

弟子たちが生まれつきの盲人を見て、その原因をイエス様に尋ねたとき、イエス様は
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」と言われました。

このイエス様の言葉に3つの愛が示されていると牧師先生が言われました。

1イエス様の盲人に対する眼差し
イエス様が盲人に向けられた眼差しは愛に満ちていました。弟子たちの眼差しとは根本的に違っていました。
弟子たちの眼差しには愛が感じられません。
障がい者を、pity(ピティー)『憐み』の眼差しでみるのではなく、Sympathy(シンパシー)
『共感』をもって、同じ立場に立つことが大切です。

2苦難は罪の罰ではない。
旧約聖書のエレミヤ31:29には「『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』とは言わない」と書かれています。先祖や親の咎の報いを受けることはないとはっきり書かれています。

イエス様も、罪のせいで盲目になったのではないと言われました。
「神のわざがこの人に現れるため」と言われました。「わざ」を「愛」と訳すことが出来ると教えていただきました。

つまり、「神の愛がこの人に現れるため、この人は盲人になった」というのです。神様のご計画にあって盲人になったということです。

3イエス様はさまざまな苦難を与えるが、のがれる道も備えてくださる。
 
一冊の本が紹介されました。
「お父さんの失明は私が治してあげる」西田朋美著

西田朋美さんのお父さんは、ペーチェット病で途中失明しました。

落ち込んでいる息子に向かって母親が「目が見えないことは大事な体験だと思いなさい。それを活かして仕事をしなさい」と言ったそうです。

その言葉に励まされて盲学校の先生になり、結婚して2人の父親になりました。その娘がお父さんの目を治したい一心で眼科医になったことが書かれている本です。

失明と聞けば、大変なことだと思いますが、失明が大事な体験だと言い、それを活かして仕事をすることを勧めたお母さんは素晴らしいと思いました。そして娘さんが子どもの頃言った言葉通り眼科医になってペーチェット病の研究をするようになったことは、神のわざが現れることにほかなりません。西田朋美さんは、アメリカ留学中に三浦綾子の「泉への招待」という本を読み、クリスチャンになったそうです。

ヨハネ9:1-3について三浦綾子さんは「泉への招待」に次のような文章を書いておられます。

『これは単に、ここに登場している一人の盲人に言われた言葉ではないと、私は思う。
この言葉のあとに、イエスはこの盲人の目をなおしていられる。
なおしたことは、むろん神の栄光を現したことになるではあろうが、
では癒されなかった苦難はどうなのか、という疑問を持つ人がいるかも知れない。
私は癒されようと癒されまいと、解決出来ようと出来まいと、 苦難に喘ぐ者の傍には、神がまさしくそこに立っておられると思う。』


苦難を希望に変えるメッセージに力づけられました。
                 
                   おわり


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


苦難の意味(その1)

2017-10-09 17:43:23 | 教会
一昨日は土浦市の花火競技大会でした。土浦では全国の花火師さんが集まって、毎年10月に競技大会が行われます。今年は前日から朝にかけて雨が降ったものの、夕方からいい天気になって、70万人もの人が集まってきたそうです。わたしの住むマンションからよく見えるので、わたしは孫たちとベランダに出て観ました。

色の名前を全部覚えて得意になっている3歳のナルクンが大声でカラフルな花火を見て「青」「赤」「黄色」と大声で叫んでいました。途中で飽きておもちゃで遊んでいましたが……。


日曜日は、教会でA先生からメッセージを聞きました。メッセージの一部の紹介と考えたことを書かせていただきます。

障がいのある人を見ると、なぜ障がいがあるのだろう、本人の心がけが悪かったのか、両親が悪いことをしたのか……と思う人がいます。

2000年前にもそのように思った人がいました。それはイエス様の弟子たちでした。(弟子たちばかりではなく、大勢の人がそのように思っていたことでしょう)

生まれつき盲目の人を見て、弟子たちはイエス様に質問しました。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか(ヨハネ9:2)」
イエス様は「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。(ヨハネ9:3)」と答えました。


弟子たちの発言は、因果応報の思想に根ざしています。 つまり、苦難がその人にとっては罰だと考えるのです。 罰だと思うと、苦しみは二重の苦しみとなります。
ところがイエス様ははっきり否定されました。

この記事が聖書に書かれていることによって、どれだけの人が慰めを受けたことでしょう。

わたしは2歳のときから喘息とう持病を持ち、苦しんできました。大きくなるにつれ、どうしてわたしだけがそんな病気持ちになったのか、神様からの罰なのか……と精神的にも苦しみました。
この聖書の言葉を読んだとき、どれだけ救われたことでしょう。


                つづく


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

拍手ボタンです

web拍手