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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

さようなら、Iさん

2017-10-03 20:25:29 | 教会
教会学校で一緒に奉仕していたIさんが召されました。今日は教会でお葬儀がありました。

今年の3月まで同じ分級で奉仕しており、そのときはとてもお元気でした。6月に胆管細胞癌がみつかって入院し、療養生活を続けていましたが、9月28日に召されました。73歳の生涯でした。
お葬儀で思い出を語らせていただきましたので、紹介させていただきます。

Iさんと初めて出会ったのは、10年ぐらい前のことです。場所は教会学校の部屋の入口でした。小学生のご家族の方かと思っていましたが、そうではなく見学していたのでした。Iさんはめぐみ教会に移って来られてから、毎週教会学校を見学されていました。

一年経って、教会学校教師として奉仕されるようになりました。教会学校は礼拝が終わると各学年に分かれて少人数で分級をします。分級の担当を10年間で4回ほどご一緒させていただきました。

Iさんにたくさんのことを教えられました。礼拝でのお話しのとき、分級での聖書の学びをするときは、じっくり
聖書を読み、時間をかけて準備されていました。
誕生会のときは、手作りのカードを丁寧に作っておられました。

遠方からバスを乗り継いで教会に通うのは大変だったと思います。教会学校の行事等で第一礼拝に出る必要があるときは、早朝に家を出て、8時半からの第一礼拝に間に合うように来られていました。
 
7年前にIさんがお茶の水聖書学院(OBI)の卒業生だとわかりました。わたしは、通信で学んだので同席することはありませんでしたが、OBI20周年記念でご一緒しました。お母様の介護のことで、とても大変な時期に聖書学院に通っておられたことをお聞きし、つらい境遇の中にあって、必死に神様を求めて生きてこられたのだなあと思いました。

あるとき、いつまで教会学校奉仕を続けるかという話になりました。わたしは、「体がきつくなってきたから、あと1,2年かな……」と言うと、Iさんは「わたしは体力がなくなったらヘルパーとして奉仕し、もっと年をとって歩けなくなっても教会学校に参加し続けたい」
と、言われたのを聞いて、子どもたちと教会学校を心から愛しているのだなあと胸が篤くなりました。

その話をしてから一年もたっていないのに、天に駆け上がっていってしまいました…………。

Iさん、天国でお会いできる日を楽しみにしていますよ。
  

「Iさんは神様から愛され、神様を愛した人でした」と牧師先生が言われました。

聖書の言葉
しかし、私たちは、私たちを愛してくださる方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ8:37)

写真画像追加しました。


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真珠商人

2017-09-27 15:52:18 | 教会
日曜日は洗礼式でした。5人の方が洗礼の恵みに与かりました。今回は若い人ばかりで、5人の中の3人は青年、2人は中学生でした。

マタイ13:45-46の箇所からメッセージをいただきました。新約聖書の福音書にはたとえ話が書かれています。イエス様が当時の人たちにわかりやすいようにたとえで話されました。

「また、天の御国は良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値打ちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物全部売り払ってそれを買ってしまいます。(マタイ13:45-46)」


この商人は、その真珠がとても価値ある物だと知っていました。それで、その真珠を得るために全財産を投げ打ったのです。

「天の御国はそこまでして手に入れてもなお余りある物です。何にも代えがたい価値をもっています。手に入れるためには何を差し出せばよいのでしょう。」と、牧師先生が言われました。

わたしたちは、ひとりひとりが真珠商人のような者です。真理を探し求めています。洗礼をうけた人たちは、真理を見出したのです。

神様もまた、真珠商人といえます。ヨハネ15:16には「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」と書かれています。

神様は、自分の本当の価値を知らずに生きていたわたしたちを見いだし、救い上げてくださったのです。
神様は、わたしたちの失われたいのちを取り戻すため、イエス・キリストを遣わしてくださいました。神様は、イエスという代価を払ってわたしにご自分のいのちを与えてくださったのです。

わたしたちにつけられた値札には「イエス・キリスト」というタグがついているのです。


初めて「あなたがわたしを選んだのではありません」と書かれている聖書箇所を読んだとき、変だなあと思いました。
たくさんある宗教の中からわたしがキリスト教を選んだのに……と思ったのです。
でも、そうではありませんでした。

広い世界の中で、神様はわたしを選び、救い上げてくださいました。罪のためにドロドロに汚れた服を着、世の中に絶望し、あてもなくさまよっていたわたしに光を当ててくださいました。

自分なんか何の価値もないと思っていたわたしに「あなたは高価で尊い」と言ってくださいました。
そして、このままでは魂が滅びてしまうわたしのために、ご自分のひとり子、イエス様のいのちを差し出してくださったのです。

神様は、ドロドロに汚れた服を脱がせ、真っ白な衣を着せてくださいました。だから、わたしの衣には「イエス・キリスト」のタグがついています。


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ひとりの人を

2017-09-12 15:26:37 | 教会
先日の日曜日は、横浜からK先生が来られてメッセージしてくださいました。
K先生とはお目にかったことはなかったのですが、K先生の教会の執事のIさんを知っていたので、K先生が来られると聞いて驚きました。もしかしたら先生と共にIさんも来られるかもしれないと思って、お会い出来たら本を差し上げようと、クリスチャン・ペンクラブで出版した「山川草木」を持って出かけました。朝3回礼拝があり、わたしはTEENS奉仕をしているので、いつものように第1礼拝に出ました。
第1礼拝で紹介された新来者の中にIさんの名はありませんでした。

K先生のメッセージが心に響いてきました。
イエス様が最後の晩餐の日、弟子たちの足を洗ったことは知っていました。
でも、イエス様がどのような気持ちで洗われたのか深く考えていませんでした。



その時は、イエス様がもうすぐ十字架につけられるという時でした。愛する弟子たちと食事をしながら(最後の晩餐)、イエス様は弟子たちに愛を残ることなく示されました。
悪魔はすでにイスカリオテのユダの心に働いていました。イエス様はそのことを知っておられました。
夕食のあと、イエス様は弟子たちがびっくりするようなことをなさいました。立ち上がって、たらいと手ぬぐいを用意し、弟子たちの足を洗い始めたのです。当時、足を洗うことは奴隷の仕事でした。それなのに黙々と弟子たちの足を洗うイエス様の姿を見て、ペテロは「決して私の足をお洗いにならないでください。」と言います。

イエス様はなぜ弟子たちの足を洗ったのでしょう……。人に仕えることが大切だと、行動を持って弟子たちに教えたのです。
イエス様はしもべとしての生涯、謙遜の生涯を歩まれました。

Ⅰヨハネ3:18には次のように書かれています。
「子どもたちよ、わたしたちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」
口先で『愛する』と言うだけで、実践が伴わなければならないことを教えられました。

能力、才能のある人が用いられることがありますが、私たちは仕える者として召されています。わたしたちは、弱い者ですが、弱さの中にこそ、主が力を与えてくださいます。

わたしたちは、地上にいる間は、完全に聖(きよ)いわけではありません。足は汚れているのです。イエス様に洗ってもらわなくてはなりません。でも、イエス様がペテロに言ったように、足以外は汚れていないのです。それは、わたしたちは赦された罪人だからです。

わたしたちは、弱さを持っていますが、弱さを知って、互いに足を洗いあうとき、キリストの愛により、互いにに結び合わされるのです。
イエス様は、弟子たちの足を洗うことで、模範を示されたのです。

認知症らしき高齢者の方が迷子になっていたとき、教会に連れてきてもらい、最後までめんどうをみたという話を聞いて、イエス様は、ひとりの人をどこまでも大切になさって、愛を示されておられたことを思い起こしました。へりくだってキリストの愛を示すこと、これが神様がわたしに求めておられることなのだと示されました。

午後に教会全体の修養会がありました。修養会の場であかしをしてくださった方がおられました。その方がIさんでした。お目にかかるのは10年ぶりぐらいです。
休憩時間にご挨拶すると、「土筆文香さん」と呼んでくださり、わたしのこと覚えていてくださいました。感激の再会でした。



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喜び歌いながら

2017-08-29 16:58:09 | 教会
一昨日は年に一度の教会のお祭り、めぐみ祭りが行われました。去年は用事で行けなかったのですが、今年はヒックン、ナルクンとママも一緒に参加しました。ヒックンは何度も参加していますが、3歳のナルクンは初めてです。
色々な方に声をかけられて、恥ずかしそうにしていました。

めぐみ祭りは、礼拝から始まりました。神様を喜ぶ気持ちで賛美し、踊ることの大切さを教えていただきました。
聖書には、捕囚としてバビロンに連れて行かれたイスラエルの民が、シオンに帰ってくるとき、喜び歌ったと書かれています。

「彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。
楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。(イザヤ51:11)」


どんなに悲しいことがあっても、悲しみが喜びに変えられるときが必ずきます。


礼拝の後、やぐらの周りで皆でめぐみ音頭を踊りました。ナルクンは、あきっぽい性格で本を読んであげても最後まで聞かずに走り回るような落ち着きのない子どもです。

でも、めぐみ音頭が気に入ったようで、片方ずつママとわたしが手をつなぐと、うれしそうに踊っていました。
二回目の踊りのとき、牧師のS先生が走って来られ、ナルクンの手を取って踊りだしました。ナルクンは人見知りもせず、きげんよく踊り続け(10分ぐらいでしょうか)、最後まで踊ったのでびっくりしました。


わたしは夢中で写真を撮りました。写っていたのは後姿ばかりでしたが……。

その後、輪投げやヨーヨーつり、ペットボトルボーリングなどでヒックンとナルクンは楽しんでいました。
教会員の人たちが心を込めて用意してくださったたこ焼きやチジミ、おにぎり、フランクフルトなどいただいて帰りました。

今朝、ミサイル発射警報が携帯から鳴り響き、びっくり仰天しました。
ちょうど朝のデボーション(聖書を読み、祈る)をしようとしていたところだったので、
テレビをつけたい気持ちを押さえて、

「神様、ミサイルで亡くなる方や怪我をする人が出ませんように。このことがきっかけで戦争になりませんように。日本を憐れんでください。世界を憐れんでください。北朝鮮の人たちを憐れんでください。北朝鮮に拉致されている人たちを憐れんでください」と何度も繰り返して祈りました。

横田めぐみさんはじめ、拉致されている人が、喜び踊りながら帰国できる日が近づいている気がします。



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いのちがけの申告

2017-08-16 16:26:31 | 教会
一昨日、友人に暑中お見舞いを出してしまいました。とっくに立秋を過ぎているとも、涼しくなっているとも気づかずに、暑い日が続いていますが、お体に気を付けて……と書きました。

わたしにとっては、暑い夏がずっと続いているのです。毎日2回洗濯機を回し、2回買い物に行き、4~5人分の食事を作り、客人が来れば8人分作り、教会学校キャンプへ行く10歳の孫の送迎をし、赤ん坊をあやす毎日でした。

10歳のヒックンは昨日自宅に帰り、娘一家は娘婿の実家に出かけた(明日にはもどってきますが)ので、今日は初めて涼しさを感じたところです。

13日の敗戦記念礼拝は、ティーインズの子どもたちも大人の礼拝に与かりました。

戦後72年が経ち、戦争を知っている世代が高齢となっています。
学校では戦争について教えますが、どのようなことが行われたのか詳しくは教えません。
日本がインドネシアを支配していた時のこと、中国で大虐殺を行ったこと、韓国を30年以上も支配し、国土、名前、人権、いのちを奪ったことについて、学校ではどれだけ教えているのでしょうか。

礼拝では末永敏事(すえながびんじ)という長崎出身の医師のことが紹介されました。
末永敏事は、当時最先端の結核の研究をしていました。

国家総動員法によって国民徴用令が出されたとき
「反戦主義者であること申し上げます」と宣言して検挙され、行方知れずとなりました。

家族や親戚も末永敏事について知らされなかったのですが、最近調べてみると、地元の新聞に敏事が無教会主義のキリスト教伝道者、内村鑑三の薫陶を受けたこと、長崎医学専門学校(現長崎大医学部)を卒業後、米国に留学し、シカゴ大やシンシナティ大で研究していたことが書かれていたそうです。

敏事は内村鑑三に出会ってクリスチャンになっていたのです。
信仰に基づいて、いのちがけで申告したのですね。


聖書の言葉
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5:9)」



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へりくだるとは

2017-08-02 15:19:53 | 教会
先日の礼拝メッセージで「へりくだり」について語られました。

へりくだりの同義語で「謙遜」という言葉があります。

辞書には、『卑屈になる ・ 卑下する ・ 自己評価を低くする ・ 自分の価値を下げる ・ 自分を卑下する』などと書かれていますが、聖書に書かれている意味合いは、ちょっと違うようです。


へりくだりとは、『他者を顧みる』『他者を大切にする』ことだと、教えていただきました。

イエス・キリストこそ、へりくだりのモデルです。なぜなら、無限であるイエスが有限な者になってくださったからです。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ2:6-7)」

神が人間を救うために人間となって来てくださったのです。

キルケゴールはこのことを物語として書きました。

ある国の王子が地方へ旅をしました。旅の途中で馬車の窓から見かけたひとりの農家の娘に恋をしました。
王子はどうしてもその娘に会って恋を伝えたいのですが、王子の権威で会うことはしたくありませんでした。王子は一人の男性としてその娘を愛し、一緒になるために王子の身分も財産も捨てて、村人となってその娘と結婚しました。キルケゴールは、「これは、神が世に来られたことを表している」といいました。


森繁昇さんの『ゴキブリ』という歌が礼拝で流されました。
トイレに流されそうになって、もがいているゴキブリを素手ですくい取って助けてくれ、同じゴキブリになってくれたことへの感謝を歌っています。
何ともユーモラスで、最初は笑みがこぼれました。途中で自分こそおぼれかけたゴキブリのようだったと気づかされ、はっとしました。そして、救ってくださった神様に感謝しました。

祈り
わたしは、へりくだった者ではありません。もし、わたしのことをへりくだっていると誰かが言うなら、その人は、わたしの見せかけの姿を見ているのです。
謙遜のふりをするのはたやすいです。でも、本当に謙遜な人になるのは難しいのです。
わたしは、本当の意味でへりくだっていません。他者ではなく、まず自分のことをいちばんに考えてしまう冷たい心を持った者です。
でも、わたしの願いは謙遜な者になりたい。へりくだって相手を自分より優れた者だと心から思えるようになりたいと願っています。どうかそのようにわたしを変えてください。



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自己肯定できることの幸い

2017-07-21 16:25:02 | 教会
娘の出産のためにお祈りしてくださった方々、ありがとうございました。
赤ん坊はとても元気で、よく泣き、たくさんおっぱいを飲んでいます。早ければ明後日には母子ともに退院です。

この前の日曜日は教会付属幼稚園の30周年記念礼拝でした。
土浦に越してきたとき、娘は4歳だったので2年間教会付属幼稚園に通わせました。そのことが娘の人生にとって、どんなに大きなことだったかと、改めて感じているところです。

ロバート・フルガムは「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」という題名の本を書いています。
子どもが幼稚園で学ぶことについて紹介していただきました。

幼稚園には自分以外の子どもがいて、みんな違っているということ。同じところは、一緒に遊ぶと笑い、誰でも傷つくことです。

幼稚園にはルールがあります。言うことをきかないとしかられます。気が進まないこともさせられます。でも、ルールを守らない子どもがいると、悲しくなります。
みんなが楽しく過ごせるようにルールがあることがわかりました。

生きていることは、おいしい。楽しい。おもしろいと思いました。

先生はいつも心配してくれます。呼べばすぐ来てくれ、泣くと抱いてくれます。先生は頼りになります。
その先生も、誰かに頼っています。何かあるたびに一生懸命祈っています。
そして先生は一冊の本をとても大事にしています。その本からお話をしてくれます。(本とは、聖書のこと)
神さまは、「君は愛されている。君は君らしく生きるんだよ」と言ってくださいます。
 
「子どもが主人公」の保育 木下勝世著 の本には次のような内容が記されています。
幼児教育の役割は、子どもの中に人格の基盤を形成することです。
基盤とは、人の一生を支える物です、

人生の基盤は、「自分は自分でいい」「仲間はすばらしい」と思えることです。
『存在を肯定されなければ、人は生きていけません』


わたしは、この『自己肯定』ができていなかったのです。子どものころだけでなく、大人になってからも、自分は人間として何か欠けている、自分は欠陥人間なのだと思っていました。

神様が世界を創造するとき、ひとつひとつ「よかった」と言っているのですから、わたしが造られたときも神様は「非常によかった」と言われたはずです。
そのことに気づいたとき、ようやく自分を受け入れることができ、弱さや欠点があっても自己肯定できるようになりました。

自分の存在を認められて、他者の存在を肯定できるのだと思います。自分と違っている人のこともすばらしいと思えるのは、自分が他者から愛され、受け入れられていることを実感することが必要です。

でも、神様を知らない多くの人は、人間関係が相対的なので、確かな自己肯定感が得られません。自己肯定を確かにするためには、人間を超えた絶対的なものを信じることです。

極限状態になっても自己肯定できる人は幸いです。


自己肯定できていれば、事故や病気や年をとって自分の意志通りに体が動かなくなったときにも「君は宝物のように大切だ」と言ってくださる神様によって平安を得られるでしょう。


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わたしはオルガン

2017-07-13 11:07:17 | 教会
連日の猛暑で夏バテしています。先日から揚げで熱中症(?)になってから、体調がすぐれませんでした。いまだに時々めまいがするので、めまいがしたときは、しばらく休んでいなければなりません。幸いこの間ほどのひどいめまいではないので、30分も休めば元気になります。

おそらく、暑さに慣れてないので、体がついていかないのでしょう。(加齢のせいだとは認めたくないのですが……)
これから赤ちゃんが我が家に来るのですから、わたしがふらふらしていては困りますね。

娘のおなかの赤ちゃんは順調に育っています。もう3200グラムになっているそうです。
いまは、出産前に出産時の体重がわかるのですね。(誤差はあるでしょうけれど)生まれて来るのを待つばかりです。


昨日は体調が良かったので水曜礼拝に行ってきました。
モーセの十戒の学びでした。十戒とは、神様がイスラエルの民に与えた10の戒(いまし)めのことです。

こう書くと、自分はイスラエル人ではないし、自分には関係のないものだと思う人も居るかもしれません。

でも神様は、十戒を授けるときに「あなたの神、主である」とご自身を示されました。「あなたの神」の「あなたは」単数で書かれているそうです。つまり、人間ひとりひとりに対して与えてくださったものなのです。

『十戒は神様の愛のあらわれ』と牧師先生が言われました。
人が幸せに生きられるように神様が与えてくださったものだったのです。

十戒の1~4は人が神に対して守る戒めで、5~10は人が人に対して守るべき戒めです。

十戒のひとつめは「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(出エジプト20:3)」です。
他の神々とは、人が神よりも信頼したり、神より優先させるものを持つことだと聞いて、はっとしました。

わたしは、小説や童話を書くとき、熱心に調べ物をしたり、遠くまで出かけて行ったり、何時間もパソコンのキーボードをたたいて夢中になります。もちろん、それが悪いわけではありませんが、神様を第一に考えないで、自分の興味のあることに熱中するのは、ほかの神々を作っているのと同じです。

新約聖書のローマ人への手紙6:13には、「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神に捧げなさい」と書かれています。

ほかの訳では、器は『楽器』と書かれているそうです。楽器の価値は奏でる人によって決まります。


わたしが楽器なら、オルガンでしょうか。パイプオルガンではなく、古い足踏みオルガンです。

古い足踏みオルガンでも神様に奏でていただくとき、すばらしい音色が出るでしょう。神様に奏でていただくということは神様におまかせし、導いていただくことです。


神様がご自身を「あなたの神」とあらわされたことは、神様がわたしたちひとりひとりを愛して止まないということをしっかり心に留めたいです。



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スクランブル交差点で

2017-07-02 15:49:30 | 教会
昨日、教会でHくん、Mちゃんの結婚式が行われました。お二人とも小学科の教師です。小学科で数年間一緒に奉仕したお仲間です。

結婚式では、牧師先生が誓約文を読み、二人が応えるというかたちがふつうです。でも今回は、誓約文を二人で考え、それを暗唱して互いに誓い合っていました。
二人ともしっかり神様の方を向いて歩いていることがよくわかりました。

牧師先生のメッセージでは、『スクランブル交差点で出会ったような二人』だと言われました。二人はスクランブル交差点にいて、お互い神様を見上げ、み心を求めて真剣に歩んでいました。
大勢の人がいる中で二人は出会いました。それが神様の導きだと受け止め、結婚することになりました。

Mちゃんは、自分の欠点も弱いところも含めて存在そのものを愛し、受け入れてくれるHくんを通して神様の愛を知ったと話していました。

二人ともとびきりの笑顔を見せてくれました。

二人が選んだ聖書の言葉は、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道者の書3:11)」です。

若いお二人に祝福あれ!!




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自分は不幸だと思っている人へ

2017-06-01 14:54:44 | 教会
自分を不幸だと思っている人はいませんか?
わたしは中学生のころ、自分ほど不幸な人はいないと思っていました。喘息という重い持病があり、体が弱かったこと、生きるのが下手で、友達に恵まれなかったこと等がその理由です。

両親と祖母に愛されて育ったのに、その愛がわかりませんでした。劣等感が強く、自分は欠陥人間だと思っていました。
喘息がひどくなったのは、母親と祖母から過保護に育てられたせいで、強い劣等感があるのは、両親が自分の欠点ばかりを指摘するからだと思って恨んでいました。

今から約2千年前、生まれつき盲人の姿をみた人々が、盲目に生まれついたのは誰のせいか、本人の罪か両親の罪かと尋ねました。
結果には原因があると思っていたのです。現代においてもそのように詮索する人がいますね。(以下礼拝メッセージを聞いて書きました)

でも、イエス様は、罪の詮索をきっぱりと拒否されました。彼が生まれつき盲人であるのは「神の業(わざ)がこの人に現れるため」と言われました。(新約聖書ヨハネ9:1-5より)

どんなに大きな苦難があっても、神はあらゆる苦難より偉大で、神にとって不可能はないと言っています。このことは、自分を不幸だと思っているすべての人への希望の言葉です。
神様は、現在の自分の不幸を親や他人の責任だと思っている人、現在の自分の不幸は過去の恵まれない境遇のためだと恨んでいる人を通して神の業を成し遂げてくださいます。


イエス様が癒しの業を行うとき、それぞれ違った方法で行われます。その場で見えるようになった盲人もいますが、この人に対しては、泥を目に塗り「行ってシロアムの池で洗いなさい」と言われました。
この人は、半信半疑だったかかもしれませんが、言葉通りシロアムの池で洗うと、そのときから見えるようになりました。(ヨハネ9:7より)

わたしは、不思議な導きで今年の4月から20年以上も続けていた教会学校の小学科教師を辞め、テイーンズ(中高科)の教師として遣わされました。

今月、自分がどん底の苦しみの中にいた中学時代のことを現代の中高生に語る機会が与えられました。あのときはなぜこんな苦しい目に合うのかわからずに死を願い、親や周囲の人を恨んでいました。何のために苦しんだのでしょうか? 苦しみの中で絶望の叫び声をあげてから46年たって苦しみの意味がわかった気がします。神様の栄光を顕すことができるように祈りつつ備えています。



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しらがになってもわたしは背負う

2017-05-26 16:39:16 | 教会
昨日、友人のお義母さま、F子さんのの葬儀に参列してきました。教会のチャペルピスガで行われたので、母の葬儀を思い出しました。

式次第に略歴が書かれています。1分ほどで読めますが、88年の長い人生があったのですね。
おしゃれで人付き合いがよく、いつも身だしなみをきちんと整えておられたというところは母とそっくりです。

母は召される5か月前、具合が悪くなってから洗礼を受けたので教会生活はできませんでしたが、F子さんは、召される10年前に洗礼を受けておられたので、教会生活ができました。喜楽希楽会(きらきらかい)という高齢者の会のメンバーで旅行にいったり、楽しい行事に参加している写真がパワーポイントで映し出されました。
 
一同で喜楽希楽会のテーマソングを賛美しました。
歌詞を紹介します。

1、神よあなたは 若いころから私の力        
年老いて白髪なるとも 私の望み

2、神よ私は年老いてなお実を実らせて
いきいきと主の大庭で生い茂ります

3、神よ私は次の世代に告げ知らせます
主の力 主のみ救いと主の麗しさ

4、神よあなたは私の力尽き果てるとき
  振り向いて呼びかけられる
「あなたを背負う」

5、神よ私は 命の限り力を尽くし
  きらきらと ただあなただけ
  ほめたたえます


この歌は、聖書の言葉に基づいて作られています。

詩編71:5「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。
71:18「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおもあなたの力を次の世代に、あなたを大能
のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます」
71:20「あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げて
くださいます。」
71:21「あなたが私の偉大さを増し、ふり向いて私を慰めてくださいますように。」

イザヤ46:4「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」


最近、私自身が老いを実感しています。病院へ行くとあちこち異常がみつかり、原因を尋ねると、「加齢のせいでしょう」と言われます。
年はとりたくないというのが本音です。でも、誰でも年をとります。年をとると、以前できていたことができなくなり、髪は白くなり、体も衰えます。でも、生きている限り使命があります。次の世代に神を伝えるという使命です。
疲れ果て、倒れてしまっても、神様は背負ってくださいます。年をとっても背負ってくださる神様に信頼して歩んでいきたいです。

F子さんは今頃天国で先に召された友人たちと再会していることでしょう。ご遺族の方々に慰めがありますようにお祈りします。


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人生の矛盾

2017-04-24 15:51:48 | 教会
誠実に生きている人が苦難に会い、悪いことをしたり、いい加減に生きている人が恵まれた生活をしているのを見ると、疑問を感じる人がいるのではないでしょうか。

わたしは中学生のころ、誠実に生きていれば幸せになり、悪いことをしたり、不誠実に生きている人はみじめな死に方をするんだよと教えられました。
もしそれが本当なら、つらいことがあっても、まじめに生きていけます。
でも実際は、そうでないことが多く、矛盾を感じていました。

悪いことをしたり、不誠実な人が幸せになっているのを見ると、神さまは不公平ではないかと思ってしまいます。
昨日は、そのことについてどう考えたらよいか教えていただきました。

昨日はコイノニア礼拝でした。
コイノニアとは韓国の大方(デバン)教会と土浦めぐみ教会との交流のことで、各年齢層の方が訪れたり、迎えたりします。今年はコイノニア20周年の記念の年で、大方教会から31名の方々が来てくださいました。

礼拝では、大方教会の牧師先生がメッセージをしてくださいました。
旧約聖書の詩編17:14-15には次のように書かれています。


14主よ。人々から、あなたの御手で。
相続分がこの世のいのちであるこの世の人々から。
彼らの腹は、あなたの宝で満たされ、
彼らは子どもらに、満ち足り、
その豊かさを、その幼子らに残します。
15しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、
目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。


これは、ダビデの書いた詩です。ダビデは自分の周りに敵がたくさんいて、彼らが栄えているのを見て苦しみました。
神さまの言葉通りに生きようとすると、状況が苦しくなることの多い現実です。

「相続分がこの世のいのちであるこの世の人々」とは、
この世で繁栄している人々は、相続分(分け前、むくい)をすでに受け取っている人々という意味です。
この世で繁栄している人々は、すでに分け前が与えられてしまったので、将来は何もなく、何の望みもないのです。
だから、このような人たちのようにならないようにしてくださいとダビデは祈っています。

神を信じない人たちは、お金が与えられると自分がもうけたと思い、私腹を肥やしています。子どもの出世を望み、子孫の繁栄を喜びます。人生は有限なので、お金を子孫に残して安心します。
この人たちには神様が抜けています。自分のため、自分の子どものため、自分の子孫のためと考えて、他者のためにという考えが欠落しています。

15節で「しかし、私は……」と書かれているのは、『私は、この人たちとは違います。神を信じます』という告白です。

「目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」というのは、自分が神様から祝福をたくさん受けていることを喜ぶという意味です。
目ざめるとき、神様と対面できるとは、なんと幸いでしょう。
神と対面したダビデは、喜びに満たされて感謝にあふれ、『世の人たちの繁栄をうらやむことはしません』と告白しています。

「最も良いものはまだ来ていない。(清教徒)」という言葉があります。

人生はこの世で終わるのではないのです。最も良いものがいつの日か必ず与えられるのです。だから、人の繁栄をうらやむことはないのです。

ダビデのように神を見上げて生きていきたいです。

書いていて昨日のメッセージは、前回のブログに書いた金持ちとラザロのたとえ話とつながっていると思いました。

先週は水曜日の朝に腰を痛め、水曜礼拝と輪読会に行けませんでした。
落ち込んでいたのですが、日ごとによくなってきて、昨日はコルセットをつけて教会礼拝に2回(第1と第3)も出席し、TEENSの奉仕もできました。
感謝!!


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人の言葉に翻弄されない人

2017-04-10 15:51:47 | 教会
人の言葉に翻弄されたり、一喜一憂することがありませんか?
わたしは、褒められるとうれしくて舞い上がり、高慢になってしまいます。逆に、けなされたり、悪口を言われるとひどく傷つき、心は荒海のように騒ぎます。

人から傷つけられたとき、『わたしは感受性が鋭く、とても傷つきやすいんです。それなのにどうしてひどいことを言うのすか?』と、相手を訴えたい気持ちになったことがあります。
傷つきやすいということをまるで自慢しているようでした。でも、人は皆傷つきやすいのだと思います。傷ついてもそんなそぶりをみせず、平静を装ったり、強がりを言う人がいますが、本心は傷が痛んで泣いているのです。

ところが、傷つけられても気にしない人がいます。苦しみを受けても、そのことを喜んでいる人がいます。
以下は礼拝メッセージを聞いて考えたことです。

聖書に出てくるパウロがそのひとりです。キリストのために苦しみを受けるのはよいことですと言っています。
『ねたみや党派心、争いを持ち、自分を苦しめる人がいても、キリストが宣べ伝えられているのなら、わたしは喜んでいます。』とパウロは言うのです。

パウロは人の言葉に一喜一憂しません。
その理由は、キリストを知る絶大な価値を理解しているからです。

どんなにひどいことを言われても、けなされても、キリストを知る絶大な価値を見いだしている人は、ほかの人の言うことを気にしません。心がキリストにある喜びでいっぱいだからです。


パウロだけでなく、キリストによる喜びを持っている者はそうなのだと思います。
わたしも最近になって、ようやく人の言葉に翻弄されなくなってきました。

受難週に入りました。
受難週とはキリストの十字架の苦しみと死(=受難)を思う一週間のことをいいます。
来週の日曜日はイースター(復活祭)です。

礼拝で水野源三さんの詩に曲をつけた特別賛美を聴きました。


私がいる  水野源三
  
 ナザレのイエスを 十字架にかけよと
   要求した人 許可した人 執行した人
   それらの人の中に 私がいる


心刺される詩です。イエスキリストが十字架につけられたのは2千年も前の出来事です。十字架とわたしは何の関係のないものと思っていました。
けれども、イエス様が十字架で死んでくださらなければ、罪の問題はなにひとつ解決しません。わたしのすべての罪を赦し、解決させるために血を流し、苦しんでくださったイエス様を思って、この一週間を過ごしたいです。

昨日はTEENSでお花見に行く予定でした。せっかく満開になったのですが、雨でお花見はできませんでした。

 

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夢見ることもはるかに及ばないすばらしいこと

2017-03-28 15:49:38 | 教会
「あの人は才能があるからいいわね。わたしなんか、何の才能もなくて……」という声が時々聞こえてきます。

わたし自身もそのように思った時期がありました。病気ばかりしていたわたしは、健康という能力が欠けているのだと思っていました。事をなそうとしても、健康でないと何もできないので、健康を祈り求めていました。でも、必要な時に必要な体力が与えられていることに気づいてからは、そのように祈ることをやめました。

教会では才能のことを「タラント」とか「賜物(たまもの)」と言います。賜物の多い人と少ない人がいるのはなぜでしょう。神様は不公平なのでしょうか。

タラントのたとえ話が聖書(マタイ25:14~30)に書かれています。タラントとはお金の単位です。主人は3人のしもべにそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントを預けて旅に出かけました。

しばらくして主人が戻ってきたとき、5タラント預けられたものはそれで商売をし、2倍に増やしていました。2タラント預けられたものも2倍に増やしていました。主人はこの2人を誉め、「よくやった。よい忠実な僕だ。あなたはわずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」と言いました。

ところが1タラント預けられたものは、それをなくさないように地を掘って隠していました。なので、1タラントのままでした。主人はその僕を叱って、1タラントを取り上げ、10タラント持っている者にあげてしまいました。というたとえ話です。

この話を読むと、1タラント預けられた僕が気の毒になります。なくしたわけではないのになぜ主人はそんなに怒ったのでしょう……。神さまから預けられたタラントを用いなかったから、しかられたのです。

また、3人に預けられた金額が違うのはなぜでしょう……。
主人が僕にお金を預けるとき、聖書には『おのおのその能力に応じて』と書かれています。
わたしたちひとりひとりの状態を知っている主人(神)が、霊的成長度合いに応じて額を決めてくださったのです。

1タラントとはどれぐらいの金額なのでしょう。6000万円~1億2000万円もの大金だそうです。少ない人でも1タラント預けられているのですから、「わたしは何の才能もない」と嘆くのはおかしなことです。

日曜日の礼拝メッセージでは、才能と賜物の違いをはっきり教えてくださいました。

「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。(エペソ3:7)」

パウロはローマの市民権と、ギリシャ語、ヘブル語を使える能力を与えられていました。この才能を用いて立身出世することも可能でした。
でも、福音を伝えるために才能を用いました。

才能、能力を神に喜ばれることに用いた場合、それを賜物というのだそうです。

聖書の中にいましめや勧めが書かれているとき、必ず約束があると教えていただきました。

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる方に、(エペソ3:20)」


リビングバイブルでは
「私たちが大胆に願い求め、夢見ることもはるかに及ばないすばらしいことを、その偉大な力でなされる神様に栄光がありますように。」

と書かれています。

夢見ることもはるかに及ばないすばらしいこととは何でしょう? なんだか、ドキドキします。神の祝福を大胆に願い求めます。



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杖一本だけ持って

2017-03-23 15:53:40 | 教会
昨日水曜礼拝でマルコ6:7~13からのメッセージを聴きました。
イエス様が弟子たちを2人一組として遣わしたときのことです。
そのとき、旅の必需品(パン、袋、お金、下着)を持っていくことを禁止され、一本の杖だけ持って、靴をはいて出かけなさいと言われました。

なぜ持ち物を禁じられたのでしょう……。ないと困るものばかりなのに……。
イエス様は、その代わりに弟子たちに汚れた霊を追い出す権威を与えました。

イエス様に従うことは案外難しいことです。旅に必要だと思って持っていこうとしたものは持っていけなくなりました。なくても必ず与えられるという信頼が必要なのだそうです。
何に信頼するかというと

・イエス様の力への信頼
・イエス様の備えへの信頼
・イエス様の守りへの信頼の3つです。

イエス様に従うことは、イエス様により頼むということです。

わたしは、旅行などに出かけるとき、人より荷物が多くなります。
寒かったらどうしよう、暑かったらどうしよう、具合悪くなったらどうしよう……あれこれ心配で、不必要なものまでバッグに入れてしまうからです。
心配するということは、イエス様を信頼していないということかもしれません。

TEENS(中高科)の奉仕を頼まれたとき、何の準備をしたらいいのだろう。何を持っていったらいいのだろうと、そればかり考えていました。
何もいらない。身一つでいいのだと教えていただきました。

先のことが心配になったら、その先にイエス様がおられる、イエス様が守ってくださると信じます。そのとき、必要を備えていただけるからです。


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