昨日の続きです。
弟子たちが生まれつきの盲人を見て、その原因をイエス様に尋ねたとき、イエス様は
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」と言われました。
このイエス様の言葉に3つの愛が示されていると牧師先生が言われました。
1イエス様の盲人に対する眼差し
イエス様が盲人に向けられた眼差しは愛に満ちていました。弟子たちの眼差しとは根本的に違っていました。
弟子たちの眼差しには愛が感じられません。
障がい者を、pity(ピティー)『憐み』の眼差しでみるのではなく、Sympathy(シンパシー)
『共感』をもって、同じ立場に立つことが大切です。
2苦難は罪の罰ではない。
旧約聖書のエレミヤ31:29には「『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』とは言わない」と書かれています。先祖や親の咎の報いを受けることはないとはっきり書かれています。
イエス様も、罪のせいで盲目になったのではないと言われました。
「神のわざがこの人に現れるため」と言われました。「わざ」を「愛」と訳すことが出来ると教えていただきました。
つまり、「神の愛がこの人に現れるため、この人は盲人になった」というのです。神様のご計画にあって盲人になったということです。
3イエス様はさまざまな苦難を与えるが、のがれる道も備えてくださる。
一冊の本が紹介されました。
「お父さんの失明は私が治してあげる」西田朋美著
西田朋美さんのお父さんは、ペーチェット病で途中失明しました。
落ち込んでいる息子に向かって母親が「目が見えないことは大事な体験だと思いなさい。それを活かして仕事をしなさい」と言ったそうです。
その言葉に励まされて盲学校の先生になり、結婚して2人の父親になりました。その娘がお父さんの目を治したい一心で眼科医になったことが書かれている本です。
失明と聞けば、大変なことだと思いますが、失明が大事な体験だと言い、それを活かして仕事をすることを勧めたお母さんは素晴らしいと思いました。そして娘さんが子どもの頃言った言葉通り眼科医になってペーチェット病の研究をするようになったことは、神のわざが現れることにほかなりません。西田朋美さんは、アメリカ留学中に三浦綾子の「泉への招待」という本を読み、クリスチャンになったそうです。
ヨハネ9:1-3について三浦綾子さんは「泉への招待」に次のような文章を書いておられます。
『これは単に、ここに登場している一人の盲人に言われた言葉ではないと、私は思う。
この言葉のあとに、イエスはこの盲人の目をなおしていられる。
なおしたことは、むろん神の栄光を現したことになるではあろうが、
では癒されなかった苦難はどうなのか、という疑問を持つ人がいるかも知れない。
私は癒されようと癒されまいと、解決出来ようと出来まいと、 苦難に喘ぐ者の傍には、神がまさしくそこに立っておられると思う。』
苦難を希望に変えるメッセージに力づけられました。
おわり
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弟子たちが生まれつきの盲人を見て、その原因をイエス様に尋ねたとき、イエス様は
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」と言われました。
このイエス様の言葉に3つの愛が示されていると牧師先生が言われました。
1イエス様の盲人に対する眼差し
イエス様が盲人に向けられた眼差しは愛に満ちていました。弟子たちの眼差しとは根本的に違っていました。
弟子たちの眼差しには愛が感じられません。
障がい者を、pity(ピティー)『憐み』の眼差しでみるのではなく、Sympathy(シンパシー)
『共感』をもって、同じ立場に立つことが大切です。
2苦難は罪の罰ではない。
旧約聖書のエレミヤ31:29には「『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』とは言わない」と書かれています。先祖や親の咎の報いを受けることはないとはっきり書かれています。
イエス様も、罪のせいで盲目になったのではないと言われました。
「神のわざがこの人に現れるため」と言われました。「わざ」を「愛」と訳すことが出来ると教えていただきました。
つまり、「神の愛がこの人に現れるため、この人は盲人になった」というのです。神様のご計画にあって盲人になったということです。
3イエス様はさまざまな苦難を与えるが、のがれる道も備えてくださる。
一冊の本が紹介されました。
「お父さんの失明は私が治してあげる」西田朋美著
西田朋美さんのお父さんは、ペーチェット病で途中失明しました。
落ち込んでいる息子に向かって母親が「目が見えないことは大事な体験だと思いなさい。それを活かして仕事をしなさい」と言ったそうです。
その言葉に励まされて盲学校の先生になり、結婚して2人の父親になりました。その娘がお父さんの目を治したい一心で眼科医になったことが書かれている本です。
失明と聞けば、大変なことだと思いますが、失明が大事な体験だと言い、それを活かして仕事をすることを勧めたお母さんは素晴らしいと思いました。そして娘さんが子どもの頃言った言葉通り眼科医になってペーチェット病の研究をするようになったことは、神のわざが現れることにほかなりません。西田朋美さんは、アメリカ留学中に三浦綾子の「泉への招待」という本を読み、クリスチャンになったそうです。
ヨハネ9:1-3について三浦綾子さんは「泉への招待」に次のような文章を書いておられます。
『これは単に、ここに登場している一人の盲人に言われた言葉ではないと、私は思う。
この言葉のあとに、イエスはこの盲人の目をなおしていられる。
なおしたことは、むろん神の栄光を現したことになるではあろうが、
では癒されなかった苦難はどうなのか、という疑問を持つ人がいるかも知れない。
私は癒されようと癒されまいと、解決出来ようと出来まいと、 苦難に喘ぐ者の傍には、神がまさしくそこに立っておられると思う。』
苦難を希望に変えるメッセージに力づけられました。
おわり

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苦難が訪れたとき、神様の愛があらわれているのだと思うと、うれしくなります。