唐松林の中に小屋を建て、晴れた日には畑を耕し雨の日にはセロを弾いて暮したい、そんな郷秋の気ままな独り言。
郷秋<Gauche>の独り言
11人兄弟
実は、昨年末(先週のことだ)に伯母が亡くなり一度帰省している。その時の「精進落とし」(葬儀後の会食)の席で、伯父が11人兄弟であった話をし始めた。もちろんそのことは母から聞いて知ってはいた。祖母は11人の子供を生んだ。しかし若い内に3人が死に、成人したのは9人であった。9人のうち男が5人、女が4人で、先週はその長女の葬儀であった。その前になくなったのは四男で、伯父は男5人の兄弟であったが、自分より年長の4人は既に亡くなったこと、そして自分のすぐ上の、長女であった姉が今回亡くなったことをあらためて聞かされた。自分よりも年上の兄弟姉妹がすべて亡くなり、9人いたはずの兄弟が今では4人になり、自分がその中の最年長であることを静かに語っていた。次は自分の番であることを自分に言い聞かせていたのかも知れない。
11人兄弟と聞けば今では多くの人が驚くが、当時はそれほど珍しいことではなかったようである。時は「富国強兵」「産めよ増やせよ」の時代であり、国からの褒章は12人以上の子供をもうけた夫婦に贈られたのだという。11人という子供の数は、少なくは無かったにしても決して珍しいほど多いというものではなかったというとなのだろ。
いま、11人あるいは9人でもいいが、もしそれほどの子だくさんの家庭があったなら、テレビ局が取材に来るか、目ざとい会社がスポンサーにでも付きそうな、そんな子供の数である。だって、今では1人かせいぜい2人というのが一組の夫婦の子供の数なんだから。
母の実家は洋服の仕立屋であったと聞いている。最盛期には数人の使用人も使っていたようで、多少は生活にゆとりがあったのかも知れないが、それにしても9人すべてが旧制の中学校、女学校を卒業し、男の内3人は大学(旧制の帝国大学)あるいは旧制の専門学校(今で言うと短期大学あるいは5年制の高等専門学校に相当)を卒業している。今でこそ大学・短大進学率が50%を超えているが、太平洋戦争前の旧制中学校進学率(男子)は10%程度であったと記憶しているから、平均を大きく上回る教育を、祖父母は子供たちに授けたことになる。
現代の平均的収入を得ている家庭において(たとえば主たる家計支持者が公務員であることを想定すればいいだろう)子供2人を大学に進学させるのは相当大きな経済的負担を伴うことは身をもって体験していることであるが、60~70年前に9人の子供すべてに旧制中学校以上に進学させると言うのは並大抵のことではなかったであろうことは想像に難くない。
だとすれば何故に可能であったのか。それは、想像ではあるが基本的な生活に経費がかからなかったからなのではないだろうか。今では一家に1台以上が当たり前のクルマ(自家用車だ)を買う必要も無い。当然ガソリン代も税金も保険代もかからない。パソコンも携帯電話も必要な。当然プロバイダーの料金も電話代も必要ない。冷蔵庫も洗濯機もテレビもDVDも要らない。当然電気代もかからない。当たり前の話だ。クルマこそなかったわけではないが一般家庭で買えるような代物ではなかったし、パソコンも携帯電話も冷蔵庫も洗濯機もテレビも無かったのだから(冷蔵庫は無くはなかった)。もちろん冷房はないし暖房だってせいぜい火鉢程度。
食事だって基本的には米と味噌、野菜とわずかな魚程度で済んでいたはずである。和食オンリーだから中華鍋もパスタを茹でる鍋も必要ない。食器も所謂和食器だけで事足りる。電子レンジもオーブンも、ない。外食もしないし昼食には「日の丸弁当」持参だ。
つまり、基本的な生活にかかる経費が現在とは大違いだったのだろう。支出と言えば人が生きていくために必要な根源的な部分だけであり、言ってみれば付加価値的な部分に対する支出がほとんど無かったのである。だからこそ9人もの子供を育てられた。ただし、同じ理由で、中等教育以上の教育を授けるための学費の支出(捻出)は現在以上に大変であったろうことも想像ができる。
昔(といっても6、70年前)の暮らしは実にシンプルだったんだな。今言われる豊かさやゆとりのために経費と時間を費やすことはほとんど無かったのだろう。でもだ、当時書かれた小説を読み、当時を生きて来た人たちの話を聞くにつけ、なんと豊かな時を送ってきたのだろうかと感じるのはどうしてなのだろうか。今よりも時間はゆっくりと流れ、豊かな自然に囲まれ、おおらかな人間関係の中で人は生きて来たのだな。今と当時と、果たしてどちらが豊かな時代であるのか。
今日の1枚は、昨日の写真、田んぼの真ん中にある木の下に鎮座していたお地蔵様。赤いちゃんちゃんこと帽子は新年のために新調してもらったばかりのようでした。
11人兄弟と聞けば今では多くの人が驚くが、当時はそれほど珍しいことではなかったようである。時は「富国強兵」「産めよ増やせよ」の時代であり、国からの褒章は12人以上の子供をもうけた夫婦に贈られたのだという。11人という子供の数は、少なくは無かったにしても決して珍しいほど多いというものではなかったというとなのだろ。
いま、11人あるいは9人でもいいが、もしそれほどの子だくさんの家庭があったなら、テレビ局が取材に来るか、目ざとい会社がスポンサーにでも付きそうな、そんな子供の数である。だって、今では1人かせいぜい2人というのが一組の夫婦の子供の数なんだから。
母の実家は洋服の仕立屋であったと聞いている。最盛期には数人の使用人も使っていたようで、多少は生活にゆとりがあったのかも知れないが、それにしても9人すべてが旧制の中学校、女学校を卒業し、男の内3人は大学(旧制の帝国大学)あるいは旧制の専門学校(今で言うと短期大学あるいは5年制の高等専門学校に相当)を卒業している。今でこそ大学・短大進学率が50%を超えているが、太平洋戦争前の旧制中学校進学率(男子)は10%程度であったと記憶しているから、平均を大きく上回る教育を、祖父母は子供たちに授けたことになる。
現代の平均的収入を得ている家庭において(たとえば主たる家計支持者が公務員であることを想定すればいいだろう)子供2人を大学に進学させるのは相当大きな経済的負担を伴うことは身をもって体験していることであるが、60~70年前に9人の子供すべてに旧制中学校以上に進学させると言うのは並大抵のことではなかったであろうことは想像に難くない。
だとすれば何故に可能であったのか。それは、想像ではあるが基本的な生活に経費がかからなかったからなのではないだろうか。今では一家に1台以上が当たり前のクルマ(自家用車だ)を買う必要も無い。当然ガソリン代も税金も保険代もかからない。パソコンも携帯電話も必要な。当然プロバイダーの料金も電話代も必要ない。冷蔵庫も洗濯機もテレビもDVDも要らない。当然電気代もかからない。当たり前の話だ。クルマこそなかったわけではないが一般家庭で買えるような代物ではなかったし、パソコンも携帯電話も冷蔵庫も洗濯機もテレビも無かったのだから(冷蔵庫は無くはなかった)。もちろん冷房はないし暖房だってせいぜい火鉢程度。
食事だって基本的には米と味噌、野菜とわずかな魚程度で済んでいたはずである。和食オンリーだから中華鍋もパスタを茹でる鍋も必要ない。食器も所謂和食器だけで事足りる。電子レンジもオーブンも、ない。外食もしないし昼食には「日の丸弁当」持参だ。
つまり、基本的な生活にかかる経費が現在とは大違いだったのだろう。支出と言えば人が生きていくために必要な根源的な部分だけであり、言ってみれば付加価値的な部分に対する支出がほとんど無かったのである。だからこそ9人もの子供を育てられた。ただし、同じ理由で、中等教育以上の教育を授けるための学費の支出(捻出)は現在以上に大変であったろうことも想像ができる。
昔(といっても6、70年前)の暮らしは実にシンプルだったんだな。今言われる豊かさやゆとりのために経費と時間を費やすことはほとんど無かったのだろう。でもだ、当時書かれた小説を読み、当時を生きて来た人たちの話を聞くにつけ、なんと豊かな時を送ってきたのだろうかと感じるのはどうしてなのだろうか。今よりも時間はゆっくりと流れ、豊かな自然に囲まれ、おおらかな人間関係の中で人は生きて来たのだな。今と当時と、果たしてどちらが豊かな時代であるのか。
今日の1枚は、昨日の写真、田んぼの真ん中にある木の下に鎮座していたお地蔵様。赤いちゃんちゃんこと帽子は新年のために新調してもらったばかりのようでした。
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