F1GP 2007年シーズン!

 F1の来シーズンのドライバー移籍の話題は、バトンの去就によってほぼ決着しそうな雰囲気(日本のF1ファンにはこれが最大の関心事。正確に言えばその次の動きが)になってきたけれど、2006年を飛ばしてもう2007年の噂が出始めているから驚く。

 噂の発端はやはりミヒャエル・シューマッハなのだろう。彼とフェラーリとの契約は2006年まで。彼の年齢や今シーズンの彼とフェラーリの体たらくを考えれば、どんなに遅くても契約終了と同時にF1を引退するだろうというのが誰しも思うこと(郷秋<Gauche>は今シーズン後の引退を勧めたいところだが)。

 ミヒャエルの引退つまり2007年にフェラーリのシートが1つ空くことから、いろいろな噂が出て来るんだな。ビックリするのはライッコネンがフェラーリに移籍するという噂。信頼性にこそ若干の問題があるが、今シーズン1番速いマシンであることは誰しも認め、つまり来シーズンも早いであろうマクラーレンからどうして落ち目のフェラーリに移籍しなければならないのか。

 レーシングドライバーであれば誰もがあこがれるフェラーリチームではあるけれど、当分チャンピョンシップとは無縁のチームとなるのは見えているのに、そこに乗り込んでいくのは日の出の勢いのミヒャエルだったからこそできたこと。残念ながらフェラーリというチームを引っ張っていけるドライバーはミヒャエル以外にはいないだろう。ライッコネンにしてもモントーヤ、アロンソにしても、無理だろうな。バトンも。

 ドライバーなら誰しもフェラーリのドライバーになりたいと思っている、と思っているイタリアのメディアからこの手の怪しげな噂が流れてくる。いつもそうだ。確かにイタリア人ドライバーなら誰しもそう思っているかも知れないけれど、普通は速いマシンを持っているチームに行きたがる。

 バトンがいい例だろう。去年、2005年にはウイリアムズに行きたいとあんなに大騒ぎをしたのに、いけるはずの今になってみたらウイリアムズはBMWエンジンを失い苦戦することが判明。その途端に去年の騒ぎなんかすっかり忘れてBARホンダに残りたいとダダをこねている。みんな自分は苦労しないで速いマシンを手に入れたいんだ。

 MotoGPチャンピョンのバレンティーノ・ロッシが2007年のフェラーリドライバーになるという噂も一向になくならない。この噂の場合には本人も四輪への転向希望があることを否定していないからますます噂に真実味が帯びてくる。ロッシは来期ヤマハとの契約がある。が、しかしと言うべきか、これが何と2006年限りの契約。2007年には自由の身となるわけだ。2007年フェラーリドライバー説が消えないどころかますます真実味を帯びてくるわけだな。とすると、2007年のフェラーリドライバーはライッコネンとロッシ?

 ライッコネンが抜けた後のマクラーレンにミヒャエルが移籍するなんて噂まで飛び出してくるから面白い。まっ、91年にジョーダンからデビューした時(それにしても91年のグリーンのジョーダン、カッコ良かったなぁ)にメルセデスに世話になっているからその恩を返さなくちゃ、というのが噂の出所のようだけれど、2007年のマクラーレンに席があったとしてもとしても「旬」を過ぎたドライバーに多額のギャラを払うつもりがあるかどうかだな。

 それにしてもF1では勝てるチームは限られているし、勝てるドライバーも限られている。だからこそ来年どころか再来年のことまでもが噂になるんだろうな。F1ってホント、すごい世界だ。



今日は、福島県甲子高原(かしこうげん)での1枚。
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遠い記憶(その四・最終回)

 漬物も遠く美味い記憶の一つである。漬物小屋には大きな樽や甕にたっぷりと白菜やら梅が漬け込んであった。都会からの泊り客が美味いからとお替りと頼めば、どんぶりに山ほど出して特に追加の料金も取っていないようであったとは父の言である。そんな大らかな時代でもあったのだろう。家族で泊まりに行った帰りには、この漬物を持たされ、しばらく楽しむのが常であった。

 今はどんな山奥の旅館に泊まっても、夕餉の膳にはまず間違いなく刺身が出されるが、私が子供の頃には刺身は特別の料理であり、日常の生活で食卓に刺身が出されることはまずなかったが、那須屋では時折刺身を出してもらった記憶がある。私たちが泊まりに行っている時にたままた上客がいると、その客用にに(多分)一軒きりの魚屋に刺身を注文するついでに、我々の分も取ってくれたのであった。

 活け花の花器のような仰々しい器に盛られた鮪の大きな切り身をかしこまって食べた記憶もあるが、出された多くが鰹であったようにも思う。従兄弟に連れられて何度か行ったことがあるその魚屋では、さすがに氷の上に魚がのっていたが、その鮮度は今とは随分と違っていたのだろう。鰹の刺身を小丼いっぱいのおろしニンニクに醤油をかけたものにつけて食べたものである。鮮度の落ちた魚の臭みを消すためだったのだろう。伯父や伯母たちは、きゅうりの糠漬けもそのにんにく醤油につけて食べていた。私が今も鰹の刺身は生姜醤油ではなくにんにく醤油で食べたくなるのはそんな原体験のせいなのかも知れない。

 こうして往時を振り返ってみると、食べ物にまつわる思いでが少なからず記憶に留まっていることに驚く。食べ物とか匂いにまつわる記憶と言うのは記憶の中枢に案外深く刻み込まれているものなのかも知れない。

 さて、古い古い記憶をたぐり寄せて、四回に分けて掲載してみたが、果たしてこれらの記憶のどれほどまでが正確なものであるのか、いささか自信がない。特に幼い頃の記憶は、その時の記憶そのものではなく、後になって少しばかりの脚色を交えながら思い出し、更にもう少しばかりの都合の良い脚色と共に記憶の引き出しにしまわれているからである。

 しかしながら、いま思い出す事柄が当時の事実と大きく異なっていることはないであろうし、たとえ事実と相違する部分があったとしても、どなたかにご迷惑をかけることでもないだろう。それは私の心の中だけに存在する、私だけの懐かしい思い出の世界なのだから。
 
 本稿はblog化以前の「独り言」に2004年1月20日に掲載した記事に加筆・修正したものです。

その一
その二
その三



夏の花。木槿(ムクゲ)を背にした百日紅(サルスベリ)。

[ 撮影:すみよしの森 ]
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遠い記憶(その三)

 小学校三年になるまで住んでいた白河から東舘まではバスと汽車とを使って行く。バスは国鉄バス「白棚線」である。この白棚線、戦前は汽車が走っていたそうだが、戦況の悪化につれて物資の不足が深刻になり線路を供出して路線は廃止、戦後になって軌道跡を国鉄バス専用の道路として整備したものであった。60km/hでの走行が可能であったことから当時は高速バスと呼ばれていた(この国鉄バス「白棚線」については近いうちに別項で紹介したい)。

 当時住んでいた家からは白河駅始発のバスの最初の停留所である「昭和町」が最寄のバス停で、ここから国鉄水郡線の磐城棚倉駅までは一時間程であったように記憶している。棚倉で一、二時間に一本程度の水郡線の汽車に乗り三十分程で東舘に着く。待ち時間も含めると白河からは二時間程かかっただろうか。

 「汽車」と書いたが、当時はそう呼んでいたと言うことであり、正確な意味での汽車ではない。当時は鉄道の線路を走る乗り物はすべて汽車と呼んでいたのだが、先に「汽車」と書いたものも正確にはディーゼルエンジンで走る気動車である。通常は二両編成で、時に三両連結の汽車がプラットホームに入って来た時には大喜びしたものであった。

 東舘に出かけるのは大概において法事、彼岸の時か夏休みなどであったが、その思い出の多くは食べ物と結びついている。特に思い出すのは彼岸の時の「おはぎ」と炊き込みご飯である。おはぎは作るのを手伝ったこともあった。

 手伝うとはいっても、粘土遊びよろしくこね回しているだけで、出来上がったものはとても人が食べられるような代物ではなかった。炊き込みご飯は大きな釜と昔ながらのかまどで薪をくべて炊いていた。炊き上がると釜から大きなお櫃に移し、更にそのお櫃を外側に白い布が張られた保温用の籠に入れておくのだった。

 夏に出かけた時の楽しみは何と言っても「かき氷」である。これが楽しみで東舘に行ったと言っても過言ではないほど。夏休みに那須屋に行くと、伯母が「良く来たね、暑かっただろう。かき氷でも食べるかい。イチゴにする、それともメロン?」と聞いてくれるのが常であった。そして伯母は下駄を突っ掛けて向かいの八百屋に頼みに行くのだ。数分後にいくつかのかき氷の入った岡持を八百屋の小母さんが持ってきてくれる。かき氷の出前である。

 鮎と「あかはら」(ウグイ)も懐かしい。伯父が久慈川で自ら網を打って(投網だ)獲り、昨日書いた囲炉裏で焼く。久慈川はその源を福島・栃木・茨城の県境にまたがる八溝山(1,022m)に発し、棚倉を経て谷筋を下り茨城県に至り日立市で太平洋に注ぐ一級河川である。いまでは投網漁は認められないのだろうが、当時は鮎漁の普通のスタイルであったようだ。網を廊下に広げて手入れをしている伯父の姿の記憶がある。

 宿の親父が自ら網を打ち獲った鮎をその晩には囲炉裏で焼いて泊まり客に出すのだから、今になって思えば大変な贅沢で膳であったと言えよう。

 当時の久慈川では鰻も獲れた。鰻は竹でできた仕掛けを川に沈めておいて獲っていたようだ。獲ってきた鰻は調理するまで中庭の井戸の脇にある、小さな風呂桶ほど丸い流しに入れておかれた。従兄弟に掴んでみろと言われては散々格闘するのだが、鰻はヌルリヌルリと逃げるばかりで私には捕まえることが出来なかった。

 従兄弟がことも無げに掴み取り調理場に持って行くのを驚きながら見ていたものである。鰻は上客に出したのであろう。一度だけ食べさせてもらったのは蒲焼ではなく天麩羅であったように記憶している。(つづく)

 本稿はblog化以前の「独り言」に2004年1月20日に掲載した記事に加筆・修正したものです。

その一
その二
その四・最終回



苦瓜(ゴーヤ)の花。[ 撮影:あかねの森 ]

 都合によりいつもり1日遅くなりましたが、今日恩田の森で撮影した写真をこちらに掲載しておりますのでぜひご覧ください。

恩田Now 
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遠い記憶(その二)

 子供の頃、彼岸や夏休みに泊まりに行くとこの二階の一番手前の部屋に泊まったものであった。南側には、やはり磨かれ黒光りする長い廊下が続くが、廊下には窓はなく外に向かって吹き抜けであった。夕方になると雨戸を閉め、朝になると女中が雨戸を開ける。長い廊下の両端にある戸袋まで、ガラガラと雨戸を押す音で目を覚ますのが常であった。

 更にこの奥には別棟の納屋と土蔵とが裏山の立ち上がるぎりぎりのところに建っていた。納屋の半分は漬物小屋で大きな樽や甕に白菜や梅干が漬け込んであった。多くの方が想像される通り、この漬物が美味しかったことは言うまでもない。土蔵の方は二階部分を改造し、随分と年上ではあるが私の従兄弟夫婦が住まいとして使っていた。

 さて、話を玄関部分の方に戻そう。
 正面の土間の左側、帳場の前には囲炉裏があり、真夏を除いては炭がおき鉄瓶が湯気を噴いていた。水は井戸水で石灰分が多かったのであろうか、鉄瓶の注ぎ口は結石で覆われ随分と細くなっていた。囲炉裏の脇の壁の上の方には棚が吊ってあり、白河達磨が三寸くらいの小さなものから一尺五寸くらいの大きなものまで七、八個がずらりと並んでいた。

 正面の黒光りのする廊下の突き当たり右側、二階への階段下には電話ボックスがあった。公衆電話のボックスではない。電話が特別のものであった時代の、小さな「電話室」である。上半分にガラスのはまったあめ色の扉を開けると、正面上方に黒い電話機がついていた。電話機の右側にはハンドルがついていて、これをぐるぐる回して交換手が出るのを待つ。

 交換手が出ると「十番から白河○○○○番お願いします」と言って受話器を本体に戻す。しばらくすると電話機が鳴る。受話器をとると交換手が「東舘局です。白河○○○○番がでています。お話ください」という。ここでようやく本来の相手先と話ができるのである。

 「十番」と言うのは電話番号である。つまり東舘電話局管内で十番目に設置された電話だから「十番」。電話をかけて最初につながるのが東舘電話局だから市外局番はなく、ただの「十番」。白河○○○○番というのは白河で洋服の仕立て屋をしていた母方の祖母のところの電話番号。那須屋に行っての楽しみの一つが、母方の祖母に電話をすることであった。勿論子供の背丈では電話機まで手が届かないから、伯母や女中に抱いてもらったり、茶箱の上にあがったりしてかけたものであった。

 四十年数年前にはこんな電話がまだ残っていたのである。電話室の扉にはまったガラスには金文字で誇らし気に「東舘十番」と書かれていたが、おそらく昭和の初め頃に設置したものであったのだろう。

 残念なことに、街道に面した玄関部分は従兄弟の代になってから取り壊して改築されてしまったが、奥座敷の部分は当時のままのはずである。

 二十年前に伯父が亡くなり、従兄弟の代になってからは二、三度行ったきりである。十年ほど前に町営の宿泊施設ができでからは、商売の方はなかなか難しいようである。今となっては、改築せずに七十年前の姿のまま、それを売りにした方が商売としては良かったのかも知れないと思うのだが後の祭りである。(つづく)

 本稿はblog化以前の「独り言」に2004年1月18日に掲載した記事に加筆・修正したものです。

その一
その三
その四・最終回



なるせの森
、谷戸の畑に植えられた里芋。

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遠い記憶(その一)

 私の父の実家は福島県最南端にある、最近では「住基ネット離脱」や「合併拒否宣言」で、はからずもちょっと有名になってしまった町にある。なぜこんなことで有名になってしまったのか、私にはまったく理解できないが、ほんのちょっと有名になったからと言って、典型的な田舎町であることに変わりはない。

 矢祭町は、福島県の中央に位置する郡山市と茨城県の水戸市を結ぶJR水郡線のほぼ中間点に位置する。福島県最南端の駅は矢祭山駅であるが、同町の中心に位置するのは一つ郡山寄りの東舘駅(ひがしだて)である。父の実家はその東舘にある。

 父の実家は小さな宿屋である。福島の宿屋と聞くと温泉宿を思われる方が多いかも知れないが、温泉宿ではなく所謂田舎の商人宿である。商人宿とは言え、駅前に位置するのではなく、駅からは大人の足で5、6分のところにあり、で唯一の宿屋であった。でただ一軒の宿屋であったから、かつては法事の集まりや宴会なども請け負っていたようである。

 父の祖父に当たる人が、栃木県の那須地方から流れて来て、ここで宿屋を始めたのだと言う。だから宿の名前は「那須屋」。父が四、五歳の時に、現在もその一部が残っている宿の建物ができたと聞いている。

 那須屋は今で言う国道百十八号線に面して建っている。ほぼ南北に通るこの国道の西側にあり、間口は七、八間で奥行き裏山まで、間口の数倍はあったように思う。

 通りから間口いっぱいにあるガラス戸をあけて入ると広い土間がある。正面には黒光りのする、良く磨きこまれた廊下が中庭まで続き、廊下の右側が調理場、左側が帳場であった。帳場の奥、廊下に沿っての三部屋程が、私の叔父や叔母の居室、女中部屋であったように思う。

 宿の建物は大きく二つの部分に分かれていた。すでに書いた街道に面した玄関部分と、裏山に面した奥座敷の部分である。街道に面した玄関や帳場、調理場部分の二階は行商の人が泊まっていたようである。富山の置き薬の人が借りきり、替えの薬を置いていたのを覚えている。

 街道に面して三部屋、北側に二部屋、西側の中庭に面して二部屋程の客室があったように思う。この部分の中ほどには襖で仕切られた窓のない部屋が二つ三つあったが、そこは布団部屋で子供の頃の私の格好の遊び場になっていた。

 奥には、比較的上等な座敷のある建物が中庭を挟んで建っている。二つの部分は中庭の北側に位置する廊下で結ばれている。この長い廊下の向こうに一階に三部屋程の座敷、二階には四部屋程の客室があった。一階の一番手前の部屋を祖父母が居室として使っていたが、三部屋はすべて襖で仕切られているので、大きな宴会などはここをぶち抜いて行われていた。

 二階は上客用の部屋であった。手前の二部屋は襖で仕切られていたが、奥の二部屋はそれぞれ独立した部屋で、一番奥は那須屋最上の部屋で五球スーパーのラジオが置いてあった。(つづく)

 本稿はblog化以前の「独り言」に2004年1月18日に掲載した記事に加筆・修正したものです。

その二
その三
その四・最終回


 禊萩(ミソハギ)。お盆の時期などに仏壇や墓に供えられます。旧暦のお盆の頃に咲くのでボンバナ(盆花)とも呼ばれます。

[ 撮影:すみよしの森 ]
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はしる まがる とまる

 今日はポール・フレール著「はしる まがる とまる」(2004年8月26日初版 二玄社刊 税別1,200円)を紹介したい。

 ポール・フレール(1917年生まれ。以下、敬愛の念を込めてPF先生)は世界で最も著名かつ信頼されているモーター・ジャーナリストである。PF先生は1955-56年にはフェラーリF1チームのドライバーを務め、1960年には「ルマン24時間」でフェラーリチームを優勝に導くなどドライバーとしても超一流の経歴を持っている。

 「はしる まがる とまる」はそのPF先生が書いた、言ってみれば「クルマ運転の教則本」である。彼のレーシングトラックでの経験をはじめ、ドライバーとしての長い経験を基にして説かれる運転のテクニックは実に合目的的であり、これをそのまま実行すれば公道上での安全でスマートかつスピーディーなドライビングが出来るようになること請け合いである。

 PF先生のアドヴァイスの一部をご紹介しよう。

1.正しい運転姿勢
安全かつハイスピードなドライビングの第1歩はまずシート合わせから。
女性の多くのシートポジションは前過ぎであり、運転に自信がある男性の多くのシートポジションは後ろに過ぎる。
 ステアリングの一番上を持ったときに肩がシートバックから離れないこと。シートのスライド、リクライニングだけではなくて、ステアリングのチルト、テレスコピック機能がないと完璧なポジションを取るのが難しいことは事実だが、基本に近づける努力をすること。またシートベルトのアンカーの調節もお忘れなく。

2.カーブでの走り方
道幅をいっぱいに使ってできるだけ大きな回転半径で旋回する。
 右カーブの例:カーブの手前でクルマをできるだけ左端に寄せカーブの頂点もしくはその直後をかすめ、左端しまでクルマを寄せていく(勿論反対車線にははみ出さない範囲で)。これがコーナーをより早く走り抜けるテクニックだが、より遅いスピードでこの走り方を実践すれば、例えばコーナーの頂点に砂が出ていたり濡れていたりする場合の安全性が高まることになる。

3.ペダルの踏み方
AT車のブレーキは左足で踏む。
 右足でアクセルとブレーキの両方を操作する場合に、とっさの場合、アクセルペダルの上にあった右足をブレークペダルの上に移動し踏み込むまでどれほどの時間がかかるか考えてみればよい。右足でアクセルペダルを、左足でブレーキペダルを操作していれば、足の踏み替え(移動)なしに、瞬時にブレーキペダルを踏むことが可能になる。50Km/hで走行している場合、仮に0.2秒踏むのが早ければ2.8m手前でとまることが可能なのだ。ただし、左足ブレーキのためには安全な場所で十分練習を積むこと。ちなみに現代F1のマシーンはすべて2ペダルのセミATであるが、すべてのドライバーが左足でブレーキを踏んでいる(ジャン・アレジが右足でブレーキを踏んでいた最後のドライバーか)。

 「はしる まがる とまる」には、普通のドライバーが普通の道路をより安全に走るためのアドヴァイスが書かれているが、その基本はサーキットをより早くより安全に走るためのテクニックとまったく同一であるから、本書は安全に走りたい、早く走りたいすべてのドライバーにお勧めすることができる。

 更に、より安全により早く走りたいという方には同じくPF先生の「新ハイスピード・ライビング」1993年12月10日初版 二玄社 税別1,553円(オリジナル版「ハイスピード・ドライビング」は1966年7月16日初版)をお勧めする。

 PF先生が語るドライビングの理論と実践。感覚だけでなく、物理法則で解説される車の運動理論は高い説得力を持ち、クローズドサーキットおよび公道におけるスポーツドライビングのための最良のテキストとなるであろう。
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懐かしい道

 
 幼い頃に歩き、いまではすっかりその感触を忘れてしまった、アスファルトでもコンクリートでもない懐かしい道。どこまでも歩き続けたい道。

 恩田の森の一番西にあるなるせの森の尾根道。森の西側を南北に続くこの道が都県境で、写真の右側が横浜市青葉区、左側が東京都町田市になります。
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ディスカバリー 母港に帰る

 日本人宇宙飛行士、野口聡一さんらが搭乗し、今月9日に地球に無事帰還していたスペースシャトル「ディスカバリー」が19日、専用ジャンボ機に乗せられ、着陸地の米カリフォルニア州エドワーズ空軍基地から母港であるフロリダ州のケネディ宇宙センターに帰って行った。

 専用ジャンボ機に乗せられて、って言われても実物や写真を見ないとピント来ないだろうな。こちらをご覧あれ。まさに親亀の上に子亀をのせてといった図である。

 シャトルの地球帰還に際して報道されていたのでご存知の方も多いと思うが、当初の帰還予定日にケネディ宇宙センターが悪天候であったために帰還を一日伸ばし、それでも天候が回復しないため、残りの燃料が少ないことを考えて結局着陸地をエドワーズ空軍基地に変更している。

 無事に帰還したとは言え、トラブル続きの飛行だったのだから、帰りくらい着陸地を変更してでも予定の日に戻ってくるのかと思っていたが、NASAはケネディ宇宙センターへの着陸にこだわった。何故かと言えば、シャトルをエドワーズ空軍基地からケネディ宇宙センターへ運ぶのに相当の経費がかかるからなのでありました。

 NASAはボーイング747を改造したシャトル専用輸送機を2機持っているようだ。背中にシャトルを載せるための装置が付いている他には水平尾翼の翼端に補助の垂直尾翼がついているのが目立つ。重さはともかく、機外にむき出しで空気抵抗の大きなものを背負っているから操縦安定性を確保するためなのだろう。

 そういえばエアバスも自社で生産するヒコーキのコンポーネント輸送用にA300-600ST愛称「ベルーガ」をもっていますが、こちらも水平尾翼の翼端に補助の垂直尾翼をつけていましたね。

 そうそう、シャトルをエドワーズ空軍基地からケネディ宇宙センターへ運ぶのにいくらかかると思いますか?自前の輸送機なのに、それでも1回運ぶのに約100万ドル、日本円だと約1億1千万円もかかるんだって。高いは高いけれど、もともと莫大な費用をかけて打ち上げるんだから、1億円くらいいいじゃないかと思うんだけれど、そのあたりNASAは結構シビアらしい。と言うよりケチ?


 今日の1枚は、例によって記事本文とは関係のない百日紅(サルスベリ)。夏の間中咲いているから「百日」紅。でも千日紅には負けますね。[ 撮影:自宅近くの公園 ]
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日本の人口、減少へ

 今日のニュースの中にこんな見出しをみつけた。

 「05年、初の人口減の可能性 厚労省の人口動態速報」

 少子化に加え、インフルエンザの流行が影響で今年上半期の人口が31,034人減少し、下半期もこの傾向が続けば予測よりも2年早く「人口減少時代」に突入するというのだ。

 人口減少、いいじゃないか。大体日本は狭い国土に人口が多すぎる。狭い住宅、長時間通勤、自然環境の破壊・悪化など、特に大都市部で深刻な住環境の悪化の主原因は多すぎる人口だ。そして首都圏や阪神地区など特定の場所に集中しすぎていることもそれを助長している。人が住むのに適した土地が少ないのが日本の地勢的特徴なので仕方がないとは言え、やっぱり人が多すぎる。

 人口減少時代に入ると産業が活力を失い世界的競争力がなくなるとか、多数の高齢者を支えきれなくなると言われるけれど、人口が1億人を越すようになったのは日本の長い歴史から見れば、つい最近のことなのである。

 弥生時代にわずか59万人だった日本の人口は、約1,000年かけて700万人になる。鎌倉時代のことだ。それから江戸時代に至る400年で倍増して1,300万人。その後の250年では2.5倍となり、明治維新の頃には3,330万人というのが日本の人口だ。

 その後がすごい。第二次世界大戦当時には8,400万人に達しているから明治維新後のわずか70年で2.5倍、更に65年後には1.5倍の1億2,700万人になっている。これが今の人口だ。先のニュースによれば遅くも来年からは減少に転じて100年後には半減の6,500万人程度になることが見込まれているという。

 いったいぜんたい、この地球という星で養える人の数はどれほどなのか、日本の国土でゆとりを持って生活できる人の数はどのくらいなのか。勿論どんな生活をするのかによって大きく変わってくるだろう。例えば1人1台ずつクルマを持つことを前提にするのか(現在だな)、自分の足だけで移動できる範囲での生活を前提にするのか(江戸時代だ)。

 例えば100年後、今の半分の人口になったとしたら、家の広さは今の倍に、あるいは通勤時間が半分になるのか。通勤時間が半分になったとしても、電車の本数も半分になるんだろうな。住宅や工場や道路であった場所を、200年前がそうであったように森に戻すのか。クヌギやコナラなら20年で立派な森になる。

 裏山のクヌギの木を切って焼いた炭を燃料にしたり、自分で作った米や野菜で生活することは出来ないかも知れないけれど、今よりはもう少し自然に近づいた生活が出来るようになるんじゃないかな。そうすれ精神的にももっともっと豊かな生活が出来るようになるだろう。

 そこに至る過程では随分と克服しなければならない問題も多いだろうけれど、過去2000年の日本の歴史を振りかえれば、ここ150年の間に起きた急激な人口増加こそが異常な事態であったことがわかる。

 急激に増加したからいろいろな問題が起こった。これからは急激な減少が始まるからいろいろな問題が起こる。でも人間らしい生活を取り戻すために必要なプロセスだと思って相違と工夫で乗り切っていかなくちゃね。人口急増期に生きた人たちだって、随分と工夫と努力をしながら生きてきたんだから。

人口の超長期推移のデータはこちらでご覧いただけます。



今日の1枚は、夏の森の主役のひとり、蝉。[ 撮影:なるせの森 ]
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言葉尻をとらえる(其の弐)

 皆さんは某メーカーが造る「一番搾り」というビールをご存知だろうか。まっ、お聞きするまでもなくご存知だろうな。

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、正式名称は「キリン一番搾り生ビール(きりんいちばんしぼりなまびーる)」と言うのだそうで、1990年3月に発売されたそうな。

 「一番搾り」とはビール業界の用語で、ビール製造時に醗酵が終わったもろみの自重だけで自然に流れだしてくる一番美味い麦汁のことを指すらしいが、これは日本酒と同じだな。調べてみたら日本酒の場合、醗酵が終わった醪(もろみ)を酒袋に入れて槽(そう)でしぼるか、圧搾機で酒粕と日本酒に分ける工程を上槽(じょうそう)というようだ。

 上槽時、始めに圧力をかけずに槽口(ふなぐち)から自然に流れる滓(おり)のある濁った酒を「荒走り(あらばしり)」、その後澄んで香りもいい良質な部分を「中汲み(なかぐみ)」、徐々に圧力を加えて搾ったものを「中垂れ(なかだれ)」、さらに搾る最後の作業を「責め(せめ)」というんだな( http://www.dia.janis.or.jp/~bobuta/bobuta/sake/dekikata/sake.tukuri.htm )。

 日本酒でいう「荒走り」あるいは「中汲み」にあたるのがビールの「一番搾り」なんだろう。どちらもこれが一番美味いであろう事は容易に想像できる。それじゃ、その次の「責め」や「二番搾り」はどうなんだろう。当然「中汲み」や「一番搾り」よりも味がおちるんだろうな。

 これはワインの話として聞いたんだけれど、日本酒でいう「責め」の後の搾りかすに水とブドウ糖や砂糖を加えてもう一度無理やり醗酵させてワインを作ると言うんだ。それで出来たワインに先に作ったワインを(少しだけ)混ぜて味と香りを整えてビンに詰めるらしい。安いワインの話だけど。

 話がそれたけれど、郷秋<Gauche>が言いたいのはこうだ。「一番搾り」が美味いのはわかった。美味いからこそ「一番搾り」がブランドになるんだろうな。それじゃ、「二番搾り」や「三番搾り」はどうなっているんだ。確かに某社のビールに「一番搾り」はあるけれど、「二番搾り」や「三番搾り」というブランドは、ない。ということは、「一番搾り」と銘打ったビール以外はみんな「二番搾り」や「三番搾り」、ひょっとしたらブドウ糖や砂糖を加えてもう一度無理やり醗酵させて造った「四番搾り」なのか?

 某社の「一番搾り」の価格をWebで調べてみたところ、350ml 1ケース(24缶) が5,493円という価格が出ていた。同社の旧来からのブランドである「ラガービール」と同じ価格だ。美味いはずの「一番搾り」と、「一番搾り」と名乗っていないということは、「二番搾り」や「三番搾り」ではないかと思わず疑ってしまう「ラガービール」が同じ価格というのは納得がいかないな。オリーブオイルなら、二番搾りの「ピュア」より一番搾りの「エキストラバージン」の方が間違いなく高いんだから。

 美味い「一番搾り」だけを表に出し、それより味が落ちる「二番搾り」や「三番搾り」はそれと名乗らず同じ値段で売っている某社を、郷秋<Gauche>はけしからんと思っている。だから郷秋<Gauche>は自分から進んで某社の「一番搾り」を買ったり飲んだりはしない。誰かが飲ませてくれるのなら勿論、喜んで飲むけれど。

 某社が「一番搾り」は美味いんだと主張するサイトもぜひご覧ください。確かに美味そうだ。


 今日の1枚は、やっぱり記事本文とまったく関係のないこれ。なるせの森から遠望した、みなとみらい地区。手前に森の台地にある田んぼ、そしてなるせの森の南端。中央遠くに見えているのがランドマークタワー。手前も向こうも同じ横浜です。
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F1 第14戦トルコGPを振り返る

 残り5戦となってアロンソ95ポイント、ライッコネン71ポイント、その差24ポイント。

 予選から圧倒的な速さを見せ付けるライッコネンはスタートでこそ出遅れた最初のコントロールラインは再びトップで通過したあとは残りに57周をまったく危なげなく周回を重ねてトップでチェッカード・フラッグ受け、トルコGP最初の優勝者としてその名を刻んだ。

 <トルコGP決勝レースの結果>

 1位:キミ・ライッコネン / マクラーレン・メルセデス
 2位:フェルナンド・アロンソ / ルノー
 3位:ファン-パブロ・モントーヤ / マクラーレン・メルセデス
 4位:ジャンカルロ・フィジケラ / ルノー
 5位:ジェンソン・バトン / BARホンダ
 6位:ヤルノ・トゥルーリ / トヨタ
 7位:デイビッド・クルサード / レッドブル・コスワース
 8位:クリスチャン・クリエン / レッドブル・コスワース

 アロンソはと言えば、手堅くレースをまとめたというところか。本来であればライッコネンに4ポイント削り取られるところを、終盤モントーヤから2ポイントをプレゼントされるという珍事。チャンピョンの可能性のないモントーヤにはライッコネン援護という大事な仕事があったはずだか、コンストラクターズの争いを考えれば、表彰台までもを失わなかったことで良しとしなければならないだろうか。

 今回の舞台となったイスタンブール・レーシング・サーキットは上海のコース設計も手がけたヘルマン・ティルケ氏のコースデザインによるものだが、コース幅が広いうえに抜けるポイントも多いので、ハンガロリンクのように抜けないサーキットと比べると観戦する側の楽しみは格段に大きい。また舗装が施されたエスケープゾーンが広く取ってあるため安全性も非常に高いようである。

 今回のレース、予選でいいところを見せたウイリアムズは度々右リアタイヤのバースト若しくはパンクチャーに見舞われ2台揃って戦線離脱している。マシンセッティングがバースト若しくはパンクチャーを誘発するということを、私は今回始めて知った。

 7度のワールドチャンピョンに輝くミヒャエル・シューマッハはアクシデントによるダメージで一旦はマシンをガレージに入れたが、次戦の予選出走順位を考え再度コースに出るもすぐにピットに戻りマシンを降りている。既に彼とフェラーリの時代が終わったことは明らかだ。勝つことも大事だが引き際もまた、大事だ。

 さて、佐藤琢磨。予選でウェバーの走行を妨害したとしてタイム剥奪のペナルティを受け最後尾スタートとなったがフォーメーションラップ後にグリッドにはつかず、ピットに向かい給油。1回の給油で走りきれるだけの燃料を入れ、かつ1コーナーでのアクシデントを避ける作戦は成功したといえよう。惜しむらくはポイントに届かなかったことだ。

 いつものようにレース中のラップタイムも確認しておこう。

 1位:ファン-パブロ・モントーヤ / マクラーレン・メルセデス 1'24.770
 2位:キミ・ライッコネン/マクラーレン・メルセデス 1'25.030
 3位:フェルナンド・アロンソ/ルノー 1'25.524
 4位:ジャン-カルロ・フィジケラ/ルノー 1'25.604
 5位:ジェンソン・バトン / BARホンダ 1'25.790
 6位:佐藤琢磨/ BARホンダ 1'25.858
 7位:ヤルノ・トゥルーリ/トヨタ 1'26.178
 8位:クリスチャン・クリエン/レッドブル 1'26.374

 マクラーレン、ルノー、BARホンダと仲良く2台ずつが並んでいるが、これが今のマシンのポテンシャルと言って間違いないだろ。そう思うにつけ、バトンと琢磨の予選失敗が悔やまれる。2週間後のモンツァに乞うご期待!


 今日の1枚は、例によって記事本文とはまったく関係のないこれ。無機質なもの、あるいは無機質であるかのように表現したい場合にはカラーよりもモノクロがいいですね。
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F1 第14戦トルコGP開幕

 3週間の夏休みを経て、レースが再開された。第14戦は初めて開催されるトルコGPである。ここ数年、セパン、バーレーン、上海と、新しいサーキットで開催するGPが増えてきているが今回はイスタンブールがF1GPの開催地として加わった。

 イスタンブール・レーシング・サーキットは全長 5.340Km、GPサーキットとしては珍しい反時計周りのサーキットである。14のコーナーで構成され、ストレートでの最高速度は320km/hに達するというが、高低差が大きく難しいコーナーもあるようである。

 さて、昨日からフリー走行が始まり計4回の走行を経て先ほど予選が終了した。さっそく予選結果を見てみよう。

 <トルコGP予選結果>

 1位:キミ・ライッコネン / マクラーレン・メルセデス 1'26"797
 2位:ジャンカルロ・フィジケラ / ルノー 1'27"039
 3位:フェルナンド・アロンソ / ルノー 1'27"050
 4位:ファン-パブロ・モントーヤ / マクラーレン・メルセデス 1'27"352
 5位:ヤルノ・トゥルーリ / トヨタ 1'27"501
 6位:ニック・ハイドフェルド / ウイリアムズ・BMW 1'27"929
 7位:マーク・ウェーバー / ウイリアムズ・BMW 1'27"944
 8位:フェリペ・マッサ / ザウバー・ペトロナス 1'28"419

 絶対に負けられないライッコネンが、予選最後の出走で見事にポールポジションを獲得した。ただ一人26秒台突入のダントツの速さだ。2-3番手にはルノーの2人が入ったが、いつもとは順番が逆。フィジケラには是非ともこのポジションをフィニッシュまでキープして欲しいところだ。

 注目はBMWエンジンを失い来期はコスワースV8にスイッチするウイリアムズが揃って6-7番手に来たことだ。シーズン終盤となりようやく戦闘力を身につけてきたか。決勝レースでも好調を維持できるかどうか注目した。また、来期フェラーリへの移籍が発表され、既にフェラーリでのテストも開始したと伝えられるマッサが8番手に食い込んだ。注目の中、非力なマシンで意地を見せたか。

 フリー走行3・4では好調を維持し上位をキープしていたバトンと琢磨は仲良くターン8でコースアウトしタイムロス。13-14番手に沈んだ。ターン8ではビルヌーブもオーバーランしているようだが、難しいコーナーなのか、はたまたセッティングのミスなのか。フリー走行で良いタイムを出しているだけに惜しい結果となったが、どのチームも始めてのサーキットでもあり、他チームより給油回数を減らすなどのチーム戦略でポイント圏内に滑り込むことは十分な可能と見る。

 19番出走のミヒャエルはターン10でスピンを喫してアタックを中止、ノータイムに終わっているが、バリチェロがライッコネンから2秒5遅れの11番手であることを考えるとスピンがなくても4列目というところであっただろうか。長いトンネルを抜けられないまま既にシーズンは終盤戦である。

 注目の決勝レース、地上波ではいつもより早い22:55からの放送となる。お見逃しなく。



 さて、今日の1枚は例によって記事本文とはなんの関係もないこれ。すみよしの森の民家の庭先を、失礼してちょっとのぞかせていただきました。花の名前はわかりませんが猛暑の中、涼しげなその姿に汗がひきます。

 今日、恩田の森で撮影した写真をこちらに掲載しておりますのでぜひご覧ください。

恩田Now 
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査察機長

 今日は内田幹樹著の「査察機長」(新潮社、2005年7月発行 税別1,500円)を紹介したい。

 著者の内田幹樹氏(うちだ もとき、初期の著作では内田モトキと標記)はANAの元パイロットでYS-11、ボーイング737、767,747-400の機長として国内線・国際線で乗務。さらに20年以上にわたりライン・パイロットの教育にあたった方であり、このblogにも度々登場するMキャプテンのご友人でもある。私はMキャプテンから氏の著書をプレゼントされたのを機にすっかりファンと、氏の既刊はすべて読ませていただいている。現在はANAを退社し、リージョナル・ジェットの運行会社であるIBEXCRJのキャプテンをされているはずである。

 さて、この小説はボーイング747-400(通称ダッシュ400)を操り成田からニューヨーク・JFK空港を目指す若き村井キャプテンの2日間を、搭乗前のブリーフィングからランディングまでの10数時間を中心に淡々と、かつ丹念に描いたものであり、ミステリーやサスペンスを望んで読まれる方の期待には、おそらく応えられない。

 ジャンルとしては所謂「航空小説」に分類されるものであり、離陸から着陸まで、ほとんどがオートパイロットで飛んでいるとは言え、成田-ニューヨーク間の12時間のあいだに実際にコックピットの中ではどのような操縦操作が行われているのかを克明に知ることができるから、ヒコーキがお好きな方には勿論十二分にお楽しみいただくことが出来るはずである。

 それではこの本が単なる「航空小説」なのかと言えば、郷秋<Gauche>は否、と言いたい。この本は、実はビジネスマンにお薦めしたい「ビジネス書」でもあるのだ。リーダーシップとは何なのか、「先」の読み方とは、危機管理のあり方とはどうあるべきなのか、評価者たる上司との関係をどう作るべきなのかなど、おおよそビジネスマンが考えなければならない事柄が狭いコックピットの中で、そして12時間という限られた時間の中で次々と示唆に満ちた形で登場するのである。

 航空小説でありながら、かつビジネス書であると言われても首を捻るばかりの方も多いかとは思うが、ご一読いただければ私が書いたことの意味を必ずやご理解いただけるはずである。
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言葉尻をとらえる

 いまどきは環境保護、資源節約・再利用の意識が浸透してきて、ゴミ箱もかつてのように1つだけではなく分別して捨てられるように3つ、4つが並んでいることも珍しくなくなった。コンビニエンス・ストアの店先にも大抵3つくらいの箱が並んでいるし、ゴミの分別収集をしている自治体にお住まいのご家庭では、やれ壜だ缶だ、やれペットボトルだプラスチックだと、いくつものゴミ箱やらゴミ袋が並んでいることも多かろう。

 かく言う郷秋<Gauche>が住む横浜市でも、今年の4月からはかなり細かく分別して収集するようになったために台所にはいくつものゴミ袋が並ぶことになった。厄介なのはプラスチックと紙が一体になったようなゴミだな。まっ、私は引きちぎって分別しているけど。

 分別収集用のゴミ箱にはよく「ビン・カン」「ペットボトル」「プラスチック」「燃えるゴミ」などと書かれており、それに該当するゴミを放り込むようになっている。分別収集のためには当然見出しが必要だが、郷秋<Gauche>が気になるのは燃えるゴミだ。考えてみるまでもなく、ビンとカン以外のものはまず、燃える。

 燃えるゴミと書いてあるのを見るたびに 燃えるゴミではなく燃やしてよいゴミだろうと、郷秋<Gauche>はいつも思うんだ。ダンボールや新聞紙は勿論燃えるけれど、これはそれぞれ分別して回収して再生するのが良い。ペットボトルやプラスチック、牛乳パックも同じだな。燃えるけれど有毒ガスを出しながら燃やすよりも分別収集して再生するほうが、どう考えても地球に優しいはずだ。

 だから、ゴミ箱には燃えるゴミではなく燃やしても良いゴミと書いて欲しい。そうすればそのゴミ箱に入れられるのは、洟をかんだ後のティッシュやボロボロになった雑巾、ダンボール箱から引き剥がしたガムテープなど、再生には余り適しているとは思えないものだけが放り込まれることになる。そしてそれ以外のものは分別収集して再生だ。

 今日は燃えるゴミではなく燃やしても良いゴミだろうと、言葉尻をとらえてみた。



例によって記事本文とはまったく関係のない今日
の1枚は、この頃ちょっと凝っているモノクロ。
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F1にCosworth V8復活!

 昨日は2006年シーズンのドライバーについて書いたが、今日は来シーズンのエンジンについてちょっとだけ。

 1980年代末に余りにも強大なパワーを備えたターボエンジン(当時最強と言われたホンダ・ターボは僅か1.5Lから1,500馬力を搾り出したと言われる)が余りにも危険であるとして禁止されて以来、長い間3,000cc V10(V12からV10に移行)自然吸気エンジンだけで戦われてきたF1のエンジンが、2006年には大きく変わる。

 来期は排気量が2,400ccのV8エンジンのみが使用可となる。今期の3000cc V10エンジンは19,000回転近くまで回わり900馬力ものパワーを引き出しているが、排気量が20%ダウンすることを考えると来シーズン開幕戦ではおおよそ700馬力程度の出力になるものと思われる。

 フェーラーリ、ルノー、BARホンダ、トヨタ、ザウバー改めBMWは勿論自社製のV8エンジンで参戦となる。マクラーレンはメルセデス、そしてレッドブルにはフェラーリ製のエンジンが搭載されることになっている。

 注目は数年来BMWエンジンを搭載してきたウイリアムズチームである。そのウイリアムズが昨日も書いたように来期はコスワースエンジンを搭載することを正式に発表したのである。コスワース、何とも懐かしい名前である。もっとも今シーズンもレッドブルとミナルディの2チームがコスワースのV10エンジンで走っているから珍しくもないと思われるかも知れないが、来シーズンには20年振りにコスワースのV8エンジンが登場する。

 コスワースのV8と言えば、古くからのモータースポーツファンならすぐにDFV(Double Four Valveの略)を思い浮かべるだろう。DFVは1967年から83年までの16年間で155勝を上げたレーシングエンジンの名作中の名作。

 このDFVは67年には9,000回転405馬力でデビューした。年々改良が加えられた結果83年にはショートストローク使用のDFYが11,000回転520馬力を引き出すまでに熟成が進んだが、ここで注目したいのはDFYの23年後に登場する2400cc V8エンジンはシーズン当初から700馬力程度が見込まれる点だな。

 どのチーム、エンジンサプライヤからも来期用エンジンのスペックの詳細は公表されていないので想像の域は出ないが、23年前に比べて同じV8でありながら20%少ない排気量からおおよそ35%増しの出力を引き出すのだから、凄い。DFYが1L当たり173馬力であったものが来シーズン用のV8は1L当たり290馬力である。

 考えてみれば1L当たり110馬力のエンジンを積んだホンダインテグラType Rがわずか270万円で手に入る時代なのだ。F1用エンジンが1L当たり290馬力でも驚くに値しないとも言える。

 BMWのワークスエンジンを失い、プライベーターとしてコスワースエンジンで戦う名門ウイリアムズの来期は、さて如何に。


 例によって記事本文とはまったく関係のない今日の1枚は、狐の剃刀(キツネノカミソリ)。地方によっては絶滅危惧種に指定されていることもある狐の剃刀ですが、恩田の森ではかつらの森の万年寺谷戸とすみよしの森のメインストリート脇の畑と竹林のあいだで見ることができます。彼岸花と同じヒガンバナ科で、生育する場所も同じ。約2週間後に彼岸花が咲く同じ場所で咲きます。
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