「携帯」って何?

 今日も神奈川新聞の記事から。ただし1面ではなく23(社会)面。
 事件・事故の記事が中心の社会面であるが、郷秋<Gauche>の気になる記事が右上の方に3つ並んでいた。

1.【警官 女性に抱きつく】「その後、自分の携帯電話の番号とメールアドレスを渡し(後略)」
2.【少女を買春し覚せい剤打つ】「二人は携帯の出会い系サイトで知り合った(後略)」
3.【携帯サイトで大麻大量密売】「携帯電話向けのインターネットサイトを使い(後略)」

 どれもこれもろくでもない事件だが、いずれも「携帯電話」がそれぞれの事件の大きな要素となっているという共通点がある。でもだ、3つの記事を比較すると、1と3は「携帯電話」と標記しているが2の記事は「携帯」とだけ書かれ「電話」の二文字がないことに気づかれることだろう。

 「携帯」とは広辞苑によれば「たずさえて持つこと。身に着けて持つこと。」という意味である。それを2の記事にそのまま当てはめると「二人は身に着けて持つ出会い系サイトで知り合った(後略)」となるだろうか。しかしこれではまったく意味するところはわからない。

 1と3は「携帯電話」と書かれているが、これに広辞苑に書かれている意味をそのまま当てはめると「身に着けて持つ電話」となる。当たり前の話だが、誰もが知っているケータイのことである。

 「携帯」の語の後に、たとえば「ラジオ」と付けると「ラジオは、本来は持ち運びできるものではないが、特別に持ち運びできるように作られたラジオ」という意味になる。「携帯冷蔵庫」「携帯トイレ」もまったく同様。本来は携帯できる種類のものではないが、携帯できるように特別に設計・製造された「冷蔵庫」「トイレ」という意味である。

 しかし、ラジオのようにかつては真空管を使い100Vの電源がなければ作動しない、据え置き型が当たり前だったものも、トランジスタの登場以降は「携帯」できるタイプがあたり前になると、携帯できないものは「据え置き型ラジオ」などと呼ばれるようになり、単に「ラジオ」と言えば「携帯ラジオ」を指すようになるなど言葉の意味も変わってくる。

 では、携帯電話はどうか。かつて電話は携帯できる代物ではなかった。100Vの電源こそ必要とはしなかったが、コードが壁のローゼットにネジ止されていたから、コードの長さ以上に遠くに持っていくことはできなかった。移動できないのが常態。

 ところが、携帯電話の電源は電池、情報は電波を使ってやり取りするから、壁にもどこにもつながっていない。だからどこにでも自由に持ち運び、つまり「携帯」ができる。だから「携帯電話」だ。しかし、人口1億2700万人のこの国で、1億台の携帯電話が使われ、電話を携帯することが常識になっても「携帯電話」の「携帯」の二文字が取られることはなく、いつまでたっても「携帯電話」である。逆に携帯できない電話のことを指す「イエデン(家電)」などという摩訶不思議な言葉が登場するなど、ラジオの時とは随分と様相が違うのである。

 さて、神奈川新聞の記事の話に戻そう。2の記事の「携帯」が「携帯電話」を指していることは誰もが了解するだろうという前提で「電話」の二文字を省略し「携帯」とだけ書かれているのに対して、1と3は「携帯電話」と省略なしに書かれている。記者は、「携帯」とだけ書いたのでは「携帯ラジオ」や「携帯トイレ」と勘違いする読者がいないとも限らないと考えたのだろうか。「携帯ラジオの番号とメールアドレスを渡し」「携帯トイレ向けのインターネットサイトを使い」では、確かにチンプンカンプンである。

 こうして同一新聞の同一面に並んだ記事で使われている用語を比較すると「神奈川新聞には記事に用いる用語に統一された解釈は存在しないのか」と考えてしまう。ある記者は「携帯」と書けば当然「携帯電話」であると考え「携帯」とだけ書く。ある記者は「携帯電話」なのか「携帯トイレ」なのか、読者が混乱しないように「携帯電話」と書く。同じ新聞社で、これはまずいんじゃないのかな?

 ちなみに郷秋<Gauche>は、携帯電話のことを「ケータイ」と書くことが多い(はずである)。それは、これまでの電話(機)とは多くの相違点を持つ新しい情報機器なのだから、新しい名前を付けるのが良いと考えているからである。


 今日の1枚は、二週間前の恩田の森の梅の花の蕾(「の」が五つ!)。明日はどうなっていることでしょうか。
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