なぜ山に登るのか、と問われて、「そこに山があるからだ」と答えた登山家がいるそうです。なぜ研究するのか、なぜ知識を求めるのか、と科学者が問われれば、そこに知らないものがあるからだ、と答えるのでしょう。オッペンハイマーと同時代の核物理学者、ハイゼンベルクは「科学者は知識の奴隷である」と語ったことがあるそうです。オッペンハイマーという人物はまさしく知識の奴隷であって、どんなことであれ触れる物を知らずにおかない、という強い衝動を持っていました。当時のアメリカでは誰も関心を持たなかった量子力学の世界に飛び込み、ヨーロッパの高名な科学者を訪ね歩き、オランダで講義を頼まれれば6週間でオランダ語を詰め込んでオランダ語で講義を始めて聴衆を驚かせ、ふと出会ったインド哲学を理解するためにサンスクリット語を読解する。そこにはコスパとかタイパとかいう観念はなくて、とにかく知らずにおれないのです。
同じ流れで当時勃興した労働運動に首を突っ込み、共産主義者と交流する。党員の女性とも無防備に交流するから、プロパガンダの理解者だと誤解され、警戒心なしに男女の関係に陥る。ある意味無邪気な知識欲の塊である彼の行動を、周囲はアカだとか女たらし(映画ではwomanizerと称している。ホリエモン名誉棄損裁判で論点となった、女性化という意味は少なくとも辞書にない。理科系には常識のcatalizerも直訳すれば猫化装置になるのだが、実際は触媒のことである。言葉は慣用の要素が多いので、理屈通り直訳しても大外しすることがある。)と批判する。これが後に失脚の原因となります。これと対極に描かれているのが、核物理については何一つ功績がないのに、マンハッタン計画を踏み台にして政治家としてのし上がろうとしたストローズです。
会議でプランに反対され、笑い物にされた意趣返しに、オッペンハイマーに包囲網を敷き、社会的に葬ろうと狂奔する晩年のストローズの足掻き方は、あの天衣無縫のチャーリーを演じた人と同一人物とは思えないロバート・ダウニーJr.の見事な演技。役者は本当に何にでも化けますね。他にもマンハッタン計画の軍側の責任者であるグローブス将軍を演じたマット・デイモン、デンマーク出身の卓越した理論物理学者ニールス・ボーアを演じた演劇の至宝ケネス・ブラナー、トルーマン大統領役のゲイリー・オールドマン(アズカバンの囚人でシリウス・ブラック役)など、実力者が脇役を固めていて存在感が凄い。この重量級の脇役なくしては、話そのものが軽くなってしまいます。物語は対立に次ぐ対立で進行しますが、対立の双方に理があるから当事者は苦悩せざるを得ないので、これは子供が見る勧善懲悪のストーリーではありません。大変見応えのある、疲れる映画です。
この長編を見て、私が想起したのは「アラビアのロレンス」です。当時のイギリスによるアラブ支配の転換点を作り出した奇才で、本人は政策的な意図と言うよりはアラビアへの憧憬とも言える興味から現地工作の先兵となって働き、その奇跡的なアカバ攻略の後で、利権を確保したイギリス政府は邪魔者となったロレンスを現場から排除します。その余りに冷たい処置に同僚の軍人は鼻白みますが、事実かどうかはさておき、映画ではイギリスの策に乗ってサウジアラビアを手に入れたファイサルが、直前のロレンスとの対面で「我が友」と激賞したその舌の根も乾かぬうちに、「余は国王であり、そなたらは軍人に過ぎぬ」とロレンス切り捨てにお墨付きを与えます。余人をもって代えがたい働きをしたロレンスも、今回のオッペンハイマーも、政治の大きな流れの中ではチェスの駒として扱われたに過ぎなかったわけです。まあ、トルーマンがオッペンハイマーを優遇したところで、原爆投下を止められなかったという彼の苦悩が軽くなるものでもなかったでしょうが。ローレンスとオッペンハイマーはどちらも権力に利用されて、ほかの人にはとても及ばなかった人類史の転換を演出した人物であり、実はその意図はなくて、自分が招いた結果については苦悩と後悔を抱いて残りの人生を歩んだという大きな共通部分を持っています。
確かにイギリスのアラビア政策は今の中東の不幸を作り出した根本原因ですし、原爆が広島と長崎に人類史上初の災禍をもたらしたのは事実です。しかし今のガザ地区の惨禍が元々はイギリスが蒔いた種であり、決してロレンスを免罪できないにしても、彼個人の物語は魅力的で、「アラビアのロレンス」は名画と評価されています。同じ基準を用いるなら、「オッペンハイマー」が同等に評価されることは不思議がないと感じています。
ストーリーに大きな影響はないのですが、フレディー・マーキュリー役を熱演したラミ・マレックが物理学者の一人として出演していたり、パーティーでボンゴ叩いてるのが(名前は出ませんが)リチャード・ファインマンだろうなというお楽しみも用意されているので、お好きな人はディスクや配信で見倒して下さい。