いーなごや極楽日記

極楽(名古屋市名東区)に住みながら、当分悟りの開けそうにない一家の毎日を綴ります。
専門である病理学の啓蒙活動も。

中国古典から

2007年04月17日 | 極楽日記(読書、各種鑑賞)

 極楽息子(大)の読書日記が続きます。「三国志演義」で有名な諸葛亮(孔明)が、西暦208年の有名な「赤壁の戦い」を前にして計略を用い、10万本の矢を味方にもたらした、という逸話ですが、これは実際には(「演義」で敵役となっている)呉の将軍、周瑜の策であったらしいです。

 魏、呉、蜀の三国時代ということになっていますが、実際には曹操の率いる魏が中華の主要部を統一しており、水軍を擁する呉と四川盆地に逃れた蜀が地方政権として生き永らえたのが真相のようです。「三国志演義」は蜀の立場から書かれた物語なので、劉備は血筋の正しい義人、諸葛亮は人知を超えた万能の政治家兼将軍となっています。

 魏、呉に比べて明らかに劣勢であった蜀が独立国として生き残るためには、尾ひれの付いた「諸葛孔明の伝説」をも最大限に利用したはずであり、何倍もの魏軍を策略で撃退した、という風評が必要だったのでしょう。実際には魏軍が手こずったのは、この水郷地帯を根拠地とする呉の水軍と、この時流行した伝染病であったと言われています。それでも力任せに攻めれば魏が優位だったはずですが、無理をしないでも中華の統一は時間の問題、と判断した曹操の判断で退却となりました。

 この辺は情に流されない曹操の合理主義者の顔が垣間見える感があり、後に関羽の弔い合戦と称して無謀な戦いを仕掛け、有能な将兵を失って蜀の自滅を早めた劉備など及びもつかないところです。魏の立場から見た三国志もさぞ面白かろうと思うのですが、曹操は詩人として名を留めるほどの文人だったにも関わらず、脚色や作られたヒロイズムを嫌う人だったようで、自分の葬式についても徹底して簡素であることを命令しています。英雄譚の主人公としてはそぐわない人なのか、「三国志演義」に対抗する作品は残りませんでした。

 こちらは中国版シンデレラなどと評される「銀のうでわ」。
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