アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

蠕動で渉れ、汚泥の川を

2017-03-05 13:39:11 | 
『蠕動で渉れ、汚泥の川を』 西村賢太   ☆☆☆☆

 定期的に矢も楯もたまらず読みたくなる中毒性を有する西村賢太の未読の長篇を、ハードカバーを購入して読了。『苦役列車』と同じく主人公は北町寛多だが、今回は少し時系列を遡って、まだ17歳の時分の話。寛多洋食屋に勤める、の巻である。あいかわらずエゴと卑屈とみみっちさをむき出しにして這いずり回る寛多の姿に読者は笑い、呆れ、ほとほと愛想がつき、やがては痛々しくも悩ましい普遍的な人生の(あるいは青春の)感慨をぐりぐりと突きつけられることになる。西村賢太の小説はどれも一緒で、ワンパターンといえばワンパターンなのだが、そのワンパターンの中身は常に豊穣であり呆れるほどリアルなのだ。だからどれを読んでも面白い。

 家を飛び出してまだ定期的に母親から金をせびっている頃の若い寛多、普段は日雇いの港湾労働で稼いでいるが、もともと飲食店の仕事に憧れがあったということで、ついに洋食屋のバイトをゲットする。憧れの理由はまずもってメシ付きということ。なんともいじましいが、最底辺の生活をしている寛多にとっては切実である。しかも店で出しているまたはそれに準ずるものがタダで食えるとはなんという贅沢、というわけで、これだけでもう寛多有頂天である。初日に出てきたものを一口食って、あまりのうまさに気絶しそうになったというあたりは微笑ましくて笑える。おまけにこの頃の寛多はまだ若いせいもあり、自分のルックスが他人に与えるマジメな好青年という印象に自信を持っている。実際にその通りに周囲からも思われ(もちろん最初だけだが)、親身になってくれる先輩もでき、憧れの洋食屋バイトは好スタートを切る。

 が、これがこのまま続くわけがない。もうそれは寛多のDNAに刷り込まれた宿命である。このちょっと前の時期に寛多が酒屋に勤めてダメになる話を書いた短篇があったが、あれと似たパターンである。最初はいい感じなのにだんだん調子に乗り図々しくなってきてボロが出て、しまいにはドツボにはまってしまう。まずはマスターの奥さんといきなり険悪になる。ただしこれは厳しい人なので、みんなああなんだと周りからは慰められる。そのうちアパートの家賃を滞納して夜逃げし、無理やりマスターに頼み込んで住み込みにしてもらう。このあたりからマスターとも微妙になる。次にバイトの女子大生が入ってきて、勝手に恋を期待するが相手にもされずたちまち幻滅し、すぐクソブス呼ばわりするようになる。このあたりの寛多の、お前は何様だと言いたくなるほどに人を見下しきった身勝手な罵倒っぷりはもう芸術の域で、笑い、呆れながら惚れ惚れしてしまうのはいつも通り。

 そして、このあたりから寛多のゲスっぷりがエスカレートしていく。これから読む人の楽しみを奪わないように詳しくは書かないが、きわめつけは女子大生のキュロットの匂い嗅ぎ事件である。もうこれは人として破綻している。これを私小説として書く、書いてしまえる西村賢太の凄みに圧倒される思いだ。この人はもう何も怖くないに違いない。そしてその臭いをネタにまた内心で女子大生に侮蔑の言葉を浴びせ、優越感すら抱く寛多のメンタリティはもう終わっている。

 その後店がなくなる話を聞いてやる気をなくし、加速度的に行状が悪化して最終的なカタストロフに至る寛多のトホホな物語は既視感満点だが、長篇であるということで、やはり短篇とは展開のきめ細かさやスケール感が違う。西村賢太ファンは十分に読む価値があるし、これから西村賢太を読んでみようと思う人の最初の一冊としてもよいだろう。

 繰り返すが、他の寛多ものあるいはすべての西村賢太作品とパターンはまったく同じである。が、それでも面白い。この中毒性をもった面白さの源は何かというと、やはり本当にどうしようもない人間のダメさ加減を、とことん正直に、一切の取り繕いなしに赤裸々に描くという、肝の据わり方だろう。そして単にダメなだけでなく、自分のダメさ加減を棚に上げてすぐ人を見下したり馬鹿にするという、人間の底の底にある浅はかさ愚かさをも容赦なくえぐり出し、白日のもとに曝け出すという徹底した姿勢と、それを太宰のような苦悩の文学としてではなく、爆笑できるエンタメとして提示できるスキル。

 ちなみに本書で私が爆笑したポイントは、夜間係の女性への罵倒(女子大生が来る前は、唯一寛多の射程距離内の年齢の女性であるにもかかわらず、まったく恋愛対象として見ることが不可能な色気のなさをとことん罵倒する)、バイトの女子大生への罵倒、身長がないくせに俳優を目指している高木への侮蔑と罵倒(自分の方が好青年だと自負する寛多は高木を容赦なく見下している)である。もちろん、マスター夫妻やアパートの大家に対する寛多得意の理不尽な逆ギレの数々にも大笑いさせてもらった。

 とんでもなくサイテーな人間を主役にした小説は珍しくないが、作者がそれをサイテーだと認識していないと小説は幼稚になる。その場合サイテーなのは小説のキャラではなく作者だからだ。が、西村賢太の小説はいかに寛多がサイテーであろうとも、一人称でわがことのように書かれていようとも、そのサイテーっぷりは完全に客観視されている。そこが凄い。



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