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『さよなら、人類』 ロイ・アンダーソン監督 ☆☆☆★
スウェーデンの映画監督ロイ・アンダーソンの『さよなら、人類』を日本版ブルーレイを購入して鑑賞。この監督はまったく初見だったが、ヴェネツィア映画祭のグランプリ受賞作ということで興味を惹かれたのである。実際観てみると相当ユニークなフィルムだった。これまで私が観たどんな映画にも似ていない。言ってみれば寸劇の集合体で、一つ一つはとぼけまくった不条理コントの趣きである。まあ、あえてこれまで見た映像作品の中で一番近いものを挙げれば、松本人志の「ビジュアルバム」かも知れない。ただしギャグのとぼけっぷりというか微妙さは、「ビジュアルバム」のもうひとつ上を行っている。昔はやった「スネークマンショー」の中の分かりにくいコントみたいな感じで、私には全然意図が分からないシーンもいくつかあった。
加えて、映像の緻密な美しさが異常。美しさといってもたとえばタルコフスキーやキェシロフスキみたいな映像詩的美しさではなく、緻密に描き込まれたイラストかグラフィック・ノヴェル、要するにアーティスティックなマンガみたいな美しさだ。画面は隅々まで計算し尽くされ、きっちり測られた構図の中で一つの一つの色調までコントロールされている。あまりに人工的タッチなので、ぱっと見、実写ではなくフルCGで作った映像みたいな印象を受ける。
あとで調べたら、この映画はすべてスタジオのセットで撮影されたらしい。ロケーションは一切なし。つまりリアルに存在する風景はひとつもなく、すべてスタジオで美術さんが作り出した風景ということになる。それにしても確かにこの映画には室内のシーンが多いけれども、屋外のシーンもある。あの線路沿いの道のシーンもセットなのだろうか。信じられない。
そうした映像への偏執狂的なこだわりが、この映画を単なるコント集でなく「きわめてユニークな映画」として認知させ、ヴェネツィアのグランプリ受賞という高評価につながった要因だと思われる。「動く絵画」として観ることができる映画だ。そしてその場合の「絵画」とはフェルメールやモネやホッパーではなく、マグリッドやルソーのような不思議感覚横溢するシュールな絵画である。
個々のエピソードは、たとえば病室で死にかけた母親を囲む息子たち、ダンス教室の生徒に恋しているらしい小太りの女性インストラクター、食堂でビールの代金の代わりにキスを要求する女給、空港で死んだ男を囲んで話し合うスタッフ、などさまざまだが、全部バラバラなエピソードでもなく、通しで登場する主人公として面白グッズのセールスマン・コンビがいる。カバンの中にお化けのマスクや笑い袋を入れて歩いている、見るからに冴えない二人組の中年セールスマンで、いずれもパッとしない、うらぶれた雰囲気を濃厚に漂わせている。
この二人がセールスをしたり、金を払わない店で文句を言ったり、喧嘩別れしたり、また仲直りしたり、というエピソードが積み重なっていく。といっても観客がこの二人に感情移入し、一緒に泣き笑いするような感じではまったくなく、不条理感いっぱいのトボけた芝居であるところは変わらない。ただ、この二人の物語が映画全体に哀愁のトーンを与えている。
一つ一つのエピソードは基本的には微妙な間(マ)のズレを楽しむ類のナンセンスなコントだけれども、猿の頭に電極をつけて実験するエピソードや、人間の奴隷をでっかい円筒形の容器に入れて窯焼きにするエピソードなどにはあからまな毒がある。それから脇役が電話で「元気そうで何より」と言う場面がさかんに出てくるが、あれは何か意味があるんだろうか。それとも単にエピソードに共通点を持たせるだけのギミックなのか。
ナンセンスな、きわめて微妙な笑いと、哀愁と、毒。それらが偏執狂的なまでに計算された人工的な画面の中で展開される「動く絵画」。この特色ある映画の印象をまとめるとそんなところだが、私としてはこれを面白い映画といえるかどうか微妙である。これは三部作の三つ目らしいが、前の二つを観たいのか自分でもよく分からない。とりあえず、不思議なものを観てみたい人にはススメておこうと思う。
スウェーデンの映画監督ロイ・アンダーソンの『さよなら、人類』を日本版ブルーレイを購入して鑑賞。この監督はまったく初見だったが、ヴェネツィア映画祭のグランプリ受賞作ということで興味を惹かれたのである。実際観てみると相当ユニークなフィルムだった。これまで私が観たどんな映画にも似ていない。言ってみれば寸劇の集合体で、一つ一つはとぼけまくった不条理コントの趣きである。まあ、あえてこれまで見た映像作品の中で一番近いものを挙げれば、松本人志の「ビジュアルバム」かも知れない。ただしギャグのとぼけっぷりというか微妙さは、「ビジュアルバム」のもうひとつ上を行っている。昔はやった「スネークマンショー」の中の分かりにくいコントみたいな感じで、私には全然意図が分からないシーンもいくつかあった。
加えて、映像の緻密な美しさが異常。美しさといってもたとえばタルコフスキーやキェシロフスキみたいな映像詩的美しさではなく、緻密に描き込まれたイラストかグラフィック・ノヴェル、要するにアーティスティックなマンガみたいな美しさだ。画面は隅々まで計算し尽くされ、きっちり測られた構図の中で一つの一つの色調までコントロールされている。あまりに人工的タッチなので、ぱっと見、実写ではなくフルCGで作った映像みたいな印象を受ける。
あとで調べたら、この映画はすべてスタジオのセットで撮影されたらしい。ロケーションは一切なし。つまりリアルに存在する風景はひとつもなく、すべてスタジオで美術さんが作り出した風景ということになる。それにしても確かにこの映画には室内のシーンが多いけれども、屋外のシーンもある。あの線路沿いの道のシーンもセットなのだろうか。信じられない。
そうした映像への偏執狂的なこだわりが、この映画を単なるコント集でなく「きわめてユニークな映画」として認知させ、ヴェネツィアのグランプリ受賞という高評価につながった要因だと思われる。「動く絵画」として観ることができる映画だ。そしてその場合の「絵画」とはフェルメールやモネやホッパーではなく、マグリッドやルソーのような不思議感覚横溢するシュールな絵画である。
個々のエピソードは、たとえば病室で死にかけた母親を囲む息子たち、ダンス教室の生徒に恋しているらしい小太りの女性インストラクター、食堂でビールの代金の代わりにキスを要求する女給、空港で死んだ男を囲んで話し合うスタッフ、などさまざまだが、全部バラバラなエピソードでもなく、通しで登場する主人公として面白グッズのセールスマン・コンビがいる。カバンの中にお化けのマスクや笑い袋を入れて歩いている、見るからに冴えない二人組の中年セールスマンで、いずれもパッとしない、うらぶれた雰囲気を濃厚に漂わせている。
この二人がセールスをしたり、金を払わない店で文句を言ったり、喧嘩別れしたり、また仲直りしたり、というエピソードが積み重なっていく。といっても観客がこの二人に感情移入し、一緒に泣き笑いするような感じではまったくなく、不条理感いっぱいのトボけた芝居であるところは変わらない。ただ、この二人の物語が映画全体に哀愁のトーンを与えている。
一つ一つのエピソードは基本的には微妙な間(マ)のズレを楽しむ類のナンセンスなコントだけれども、猿の頭に電極をつけて実験するエピソードや、人間の奴隷をでっかい円筒形の容器に入れて窯焼きにするエピソードなどにはあからまな毒がある。それから脇役が電話で「元気そうで何より」と言う場面がさかんに出てくるが、あれは何か意味があるんだろうか。それとも単にエピソードに共通点を持たせるだけのギミックなのか。
ナンセンスな、きわめて微妙な笑いと、哀愁と、毒。それらが偏執狂的なまでに計算された人工的な画面の中で展開される「動く絵画」。この特色ある映画の印象をまとめるとそんなところだが、私としてはこれを面白い映画といえるかどうか微妙である。これは三部作の三つ目らしいが、前の二つを観たいのか自分でもよく分からない。とりあえず、不思議なものを観てみたい人にはススメておこうと思う。
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