アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

遠い水平線

2011-07-01 23:53:23 | 
『遠い水平線』 アントニオ・タブッキ   ☆☆☆☆

 再読。写真は文庫のだが私が持っているのは単行本である。これはタブッキ作品の中では早くに翻訳されたものの一つだが、『インド夜想曲』や『供述によるとペレイラは…』などに比べると言及されることが少なく、マイナーな印象がある。それはおそらく、一般につかみどころのないタブッキ作品の中でも、本作がとりわけつかみどころのない作品のせいではないだろうか。

 私が最初に読んだ時の感想も、『インド夜想曲』によく似ているな、というものだった。叙述が三人称か一人称かという違いはあるけれども、主人公がある人物について調べるために人々を訪ね歩く、そしてその人物が主人公の分身(ダブル)である、という基本的な二点においてこの二つの小説は酷似している。同じテーマのバリエーションといってもいいくらいだ。ただし、『夜想曲』の方がインドというエキゾチックな「場」の力に満ち満ちているのに比べ、『水平線』はイタリアが舞台で、そこまでのインパクトはない。さらに『夜想曲』では個々のエピソードに何かしら幻想的なアイデアが盛り込まれていて、形式としては断片的ながらも審美的にはある意味自己完結的であったのに比べ、『水平線』では個々のエピソードがさらにさりげない。『夜想曲』が自立したエピソードの連なりだとしたら、『水平線』のエピソードは前後の文脈の中でふらふら漂っている感じがする。

 そしてとどめが、あの意味不明な結末。騙し絵的な企みが浮かび上がってくる『夜想曲』に比べ、『水平線』はまったく意味不明だ。この先はどうぞご自由にお考え下さい、みたいな終わり方なのである。きょとんとしてしまう。そういうわけで、どうしても『夜想曲』の影にかくれて目立たない『水平線』なのだが、決して駄作ではない。淡白ではあるけれども、決して薄くはない。ある意味、『夜想曲』以上にチャンレンジングな作品であるとさえ言えると思う。

 今回読んでまず感じたのは、この作品には『夜想曲』『レクイエム』的なタブッキ(神秘性、幻想性)と『ペレイラ』『ダマセーノ・モンテイロの失われた首』的なタブッキ(社会性、告発性)が同居していたんだな、ということである。最初読んだ時はタブッキ=幻想作家のイメージが強かったせいで、これは完全に『夜想曲』タイプの作品であり、殺人事件の要素は単なるミステリ仕立ての飾りとしか思わなかったのだが、『ペレイラ』や『ダマセーノ・モンテイロ』を読んだ目で見るとそれだけではない。殺されるカルロ・ノーボディには、どこかモンテイロ・ロッシやダマセーノ・モンテイロの面影がある。そしてそれを調べるスピーノと友人の新聞記者とのやりとりには、ただ単に「自分探し」だけではない剣呑さが漂っている。

 しかしとにかく、最大のポイントは結末だ。あれをどう解釈するかにすべてがかかっている、と言っても過言ではない。最近翻訳が出た『他人まかせの自伝』の中では、作者であるタブッキ自身が、最後にスピーノがもらす「笑い」を解釈するという形で、結末の「解釈」をいくつか呈示してみせている。それらがまた曖昧さに包まれた、どこかとぼけた、飛躍した、しかし真摯でもあり詩的でもあるといういかにもタブッキらしい「解釈」で、こういうものをしれっと読者に提供するというパフォーマンスも含めてその曲者ぶりに感じ入ってしまうのだが、これを読むと『水平線』の謎はいやますばかりで、なんだかこの小説が自分の心を映し出す鏡のように思えてくる。従って、この結末の解釈をどうこうここで書くつもりは全然ない、というか、書くことなどできない。ともあれ、スピーノはこの小説の結末で、彼が生まれ出てきたところの「闇」の中に帰っていくのである。

 それからまた、スピーノと死者カルロ・ノーボディの関係も、『インド夜想曲』よりさらに曖昧かつ多義的という印象を受ける。一種の分身(ダブル)であることは間違いないものの、『夜想曲』のように結局同一人物、あるいは作者と作中人物というような純然たるメタフィクショナルな分身ではなく、明らかに別の作中人物としても機能している。ひょっとしたら本作がスピーノの一人称ではなく三人称の語りになっているのも、そのあたりに理由があるのかも知れない。

 とにかく、『遠い水平線』は謎めいている。かつ、きわめて抒情的だ。年配のカップルの控え目な愛情と憧れが描かれているのもいいし、青く霞んでいるようなイタリアも美しい。そして柔らかな音楽性と、ふとした断片からこぼれ出す圧倒的な郷愁。タブッキに駄作なし、である。
 


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