アブソリュート・エゴ・レビュー

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クライング・ゲーム

2018-03-14 21:58:48 | 映画
『クライング・ゲーム』 ニール・ジョーダン監督   ☆☆☆☆

 Netflixで鑑賞。1992年公開のイギリス映画である。公開当時私はもう渡米していたが、日本ではこの映画はある「驚愕の秘密」を売り物として宣伝されたらしい(アメリカでどうだったかは知らない、公開当時にはこの映画の存在を知らなかったからである)。私も日本人の友人からそれを聞いて、あとでレンタルビデオで鑑賞した記憶がある。そして宣伝通り、ちゃんと例の箇所でびっくりした。

 しかしあらためて鑑賞してみると、そういう取り上げ方はこの映画に対してフェアではないし、この映画の良さをかえって見えにくくしてしまっている。なんだかゲテモノ映画みたいなヘンな関心を持たれ方は、この大傑作とは言えなくても独特の美しさを持つフィルムに対して失礼だと思う。私は何よりもそのことをここで書きたいので、映画会社がこの映画のウリだと考えた「驚愕の事実」についてネタバレさせていただく。ネタバレが嫌な人は、ここから先は読まないでいただきたい。












 この映画は煎じ詰めれば風変りな愛の寓話であり、それが一貫して観客に語りかけてくるのは愛の痛みである。それは映画の冒頭、オープニング・クレジットで流れる名曲「男が女を愛する時」によって明確に宣言される。そして開幕早々登場するのは、どこかのうら寂しい遊園地ではしゃぐ黒人兵士と金髪女性のカップル。黒人兵士ジョディ(フォレスト・ウィティカー)はすぐに数人の男たちによって暴力的に拉致され、IRAの人質として監禁される。女はIRAの罠だったのだ。ジョディはIRAの要求を英国政府が呑まない時には処刑される運命にある。縛られ、頭に袋をかぶせられた彼の見張り番になったのは、IRAの兵士ファーガス(スティーブン・レイ)。彼がこの映画の主人公である。

 前半はファーガスとジョディの会話劇であり、ほとんど二人芝居と言っていい。二人は敵同士ながら心を通わせ、ジョディは会話の中で恋人ディルの写真をファーガスに(そして観客に)見せる。ヒロインのディルはこうしてまず写真で登場するのだが、この最初の登場からこの映画が観客に仕掛けるトリックは始まっている。そして彼女に対するジョディの思いが語られ、それに続くようにしてこの映画の重要なテーマである「サソリとカエルの話」が披露される。やがて処刑の朝が訪れ、ジョディは逃走を試みるが兵士を乗せたトラックにひかれて死ぬ。

 後半、舞台はロンドンに移り、髪を切って名前も変えたファーガスがディルの働く美容室へやってくる。ジョディから、自分が死んだらディルに会って元気にしていることを確認してくれと頼まれていたからである。が、ファーガスはジョディと自分の関係を隠したまま、妖艶なディルに惹かれていく。しかしディルのアパートで愛を交わそうとした時、ディルが女ではなく男であることを知る。ファーガスは嫌悪感から嘔吐し、引き止めるディルを無視して立ち去る。翌日、謝罪のためにディルを訪れたファーガスは、ディルを女として愛することはできないが傷つけたくないと告げる。その一方で、ディルはファーガスを愛することを止めようとしない。そんなある日ファーガスの前にかつてのテロリスト仲間が現れ、ディルを傷つけたくなかったら暗殺計画に協力しろと脅迫する…。

 囚人、テロリスト、同性愛と、なんとなく『蜘蛛女のキス』に似た取り合わせだ。政治犯と同性愛者は相性が良いのだろうか。もしかすると同性愛者とは、政治的なるものの正反対の極にある存在なのかも知れない。政治的信条で命のやり取りをするのがいかにもマッチョな男性原理だとすれば、ゲイは愛を至上の価値とする、女性以上にピュアな女性原理の体現者と考えられる。

 私はこの映画を最初に観た時、なぜヒロインのディルを同性愛者の男性に設定したのか分からなかった。普通に女性であっても物語は成り立つし、その方がむしろ「驚愕の事実」などという余計な雑音がなくなってスッキリする。しかし、今回久しぶりに再見してその理由が分かった。ディルはやはり同性愛者でなければならない。それも男であることが一見して明らかなゲイではなく、女と見まがう美貌とフェミニンな空気の持ち主、けれども体は男性、という、性を超越した不可思議な存在でなければならなかったのである。

 先に書いたようにこれは愛の痛みを描いた寓話であり、哀しく宿命的な愛のおとぎ話である。人は誰も自分の性(さが)に逆らえない、というのは「サソリとカエルの話」で示される教訓だが、性(さが)とはすなわち宿命である。この映画において愛の痛み、哀しさ、そして避けがたい宿命を体現するのはディルであり、言い換えればディルが同性愛者であることによって、愛の哀しさと宿命が寓話的に浮かび上がる仕掛けになっている。

 ディルは男でも女でもない異形の存在であり、いわばこの世界の秩序の外にいる精霊的存在である。ディルは女性として男を愛する。が、男から愛される対象にはなれない。彼を愛そうとしたファーガスは、彼に好意を抱いているにもかかわらず嘔吐してしまう。

 そして普通なら小説かマンガか、もしくはアニメの中でしか存在しえなかっただろう異形のヒロイン・ディルを、実写映画のキャラクターとして銀幕に映し出すことを可能にしたのが、当時まったくの素人だったジェイ・デビッドソンである。ディルを演じた彼の存在が何よりも驚異だったことは、当時映画会社が大々的に展開した「驚愕の秘密」式プロモーションを見るまでもない。手や脚など体のパーツをよく見れば気づく人もいるだろうが、それにしても男性性をほとんど感じさせない中性的なムードには驚いてしまう。

 が、今回再見して思ったのは、ジェイ・デビッドソンは女とみまがうとか美形とかいうよりも、実はその無垢なオーラこそがもっとも重要だったと思う。妖艶なメイクとドレスで登場する前半よりも、終盤髪を短く切られ、クリケット用の白いセーターを着たノーメイクの彼の方が、男でも女でもないという真に妖精的な存在感を放っていた。その髪を切られたディルがファーガスに「愛していると言って」と銃を突きつけ「嘘でもうれしい」と涙を流す場面は、愛の痛みと哀しさをあますところなく表現した秀逸なシークエンスだったと思う。

 ファーガスはディルを女性として愛することは決してないだろうし、ディルはそのことを知っている。しかしディルは、ファーガスを愛することを止められないのである。「サソリとカエルの話」にある通りだ。たとえ自分が破滅するとしても、人は自分の性(さが)には逆らえない。それが宿命である。ディルも、ファーガスも、死に急ぐIRAのテロリストたちも、皆がそうなのだ。

 映画が終盤に向かうにつれ、最後にディルは死ぬんじゃないかという予感が高まっていくが、意外にもラストはほっとさせるものとなっている。おそらく物語の定石としては、愛の精霊たるディルは人間たちの争いの犠牲になって死なねばならず、そうすることでこの物語は悲劇的に完結しただろう。そうしなかったことがこの映画のなんとなく中途半端な、今ひとつメリハリに欠ける小粒感につながっている気もするが、しかしまあ一人の観客としては、ディルが死ななくて良かったとホッとしている自分がいる。だからこれはこれでいいのだ。

 それにしても、ディルが指をひらめかせながら「クライング・ゲーム」を歌う場面はなんとも妖しく美しい。全体としては今ひとつ地味でメリハリに欠ける映画だが、個人的に偏愛の一篇だ。



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