アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

無関心な人びと

2014-09-08 21:59:34 | 
『無関心な人びと(上・下)』 アルベルト・モラヴィア   ☆☆☆☆

 モラヴィアのデビュー作を再読。それにしても、これが20歳の新人作家のデビュー作とはとても思えない。確かに荒さはある。後年のモラヴィアの傑作群を特徴づけるあの緻密でマニエリスティックな職人的なタッチは、まだ出来上がっていない。が、醸し出すムードと強烈なジレンマ、確実に読者を絡めとる呪縛力はすでに明らかだ。

 モラヴィアの『倦怠』は私のオールタイム・ベストの一つだが、この『無関心な人々』はムードもテーマも『倦怠』によく似ている。はじけるような明るさや爽やかさとは無縁の、灰色の世界。感動というものが失われて久しく、人々の生活から行動と感情の一致が抜け落ちてしまっている世界。物語を構成するエピソードも、道徳的な退廃と不毛な性愛が主要なモチーフになっている。

 手法上の最大の特徴は、訳者が解説で指摘しているようにきわめて演劇的であることだろう。冒頭の一行、「カルラが入ってきた」からそれは明白である。舞台の上にカルラが登場したのだ。物語が進行するのは常に室内で、そこで交わされる会話が物語の大部分を占める。場所が変われば、あるいは誰かが退場したり登場したりすれば章が変わる。ストーリーは厳密に時系列に沿って進んでいく。

 更に、登場人物はたった5人に限定されている。カルラとミケーレの姉弟、その母親のマリーグラツィア、マリーグラツィアの愛人レーオ、レーオの昔の愛人でマリーグラツィアの女友達リーザ。レーオはマリーグラツィアの愛人と書いたが、実はもうすっかり飽き飽きしていて、娘のカルラに興味を移している。興味を移しているどころか隙を見てはくどき、その肉体を手に入れようと画策する。母親はまったく気づいていない。かつ、レーオはこの一家と友達づきあいをしながら、裏では一家の財産を全部横取りしようとしている。 

 こうしたレーオの横暴がいつバレるか、いつしっぺ返しを食うかと読者は考え、これが物語のサスペンスを醸し出すが、それに対するミケーレやカルラの反応が本書のテーマを担う部分である。タイトル通り本書のキーワードは「無関心」であり、これを一番分かりやすく体現しているのはミケーレである。ミケーレは自分の無関心、つまり母親やカルラのことが気にならず、それどころか自分自身が侮辱されても愛されても何も感じない、という精神のありように悩んでいる。彼にとって世界のすべては無意味であり、何の興味も感じさせない。彼は情熱を、真実の人生を渇望している。かつて原始時代には、人々の感情と行動が自然と一致していただろうと考えて羨望の念を抱く。自分もそんな人生を生きたいと願い、そのためにレーオを憎むふりをしたり、リーザを愛するふりをしたりする。
 
 レーオの無関心は、『倦怠』におけるディーノの「倦怠」に限りなく近い。どちらも、世界のあらゆる事物が自分とは何の関係もないと感じ、一切のリアリティが失われることによって苦しむ病である。

 一方、カルラもまた違う悩みを抱えている。彼女の悩みはミケーレほど哲学的なものではなく、ただ漠然と今の生活には耐えられないと感じ、なんとかして新しい人生を始めたいと望んでいる。そのためにカルラは、レーオを好きでもないのに身を任せようと決心する。

 そして、母親のマリアグラツィアもまた、彼女自身のテーマを持っている。嫉妬である。これもまたきわめてモラヴィア的なテーマで、彼女はレーオの愛情を失うことを恐怖し、そのためにリーザに嫉妬する。リーザがレーオに言い寄っており、レーオが隠れてリーザに会っていると疑っているからだ。彼女の嫉妬はまったく無根拠で愚かしいが、同時にとんでもなく強固で、あらゆる状況で彼女からヒステリックな反応を引き出し、まわりの人間を辟易させる。しかしもちろん、彼女が本当に嫉妬しなければならないのは娘のカルラだが、レーオとカルラの仲だけはさまざまな兆候にもかかわらずまったく疑っていない。

 レーオはひたすら貪欲と性の享楽に生き、リーザはミケーレとの情事を欲している。こうして5人の灰色のロンドは続き、最後には「真実の生活をしたい」というミケーレの望みも空しく、カルラはレーオと結婚し、この先もずっと偽りの生活が続いていくことが暗示されて終わる。かすかな希望を滲ませて終わった『倦怠』よりはるかに救いのない、絶望的なエンディングである。

 本書はブルジョワ階級の退廃を描いているとしてイタリアで発禁になったそうだ。今読むと行為そのものは大したことないけれども、登場人物たちの精神のありようが非常に退廃的である。倫理感のかけらも持ち合わせないレーオもそうだが、それを知りつつ意に介さないカルラやミケーレも、また滑稽で愚かしく、レーオのお情けにすがって生活していこうとする母親も、そしてミケーレを誘惑しようと無駄な努力を続けるリーザも、全員が退廃と俗悪にまみれて生きている。かろうじてミケーレだけはそれを意識し、なんとかしたいと考えているが、他は全員そういう生き方に疑問すら持っていない。この状況のアイロニーはラストの母親の内的独白、「パーティーには愛人も来るだろう。今夜は、楽しい夕べが過ごせるに違いない」で頂点に達する。

 この絶望とアイロニーで凝り固まったような悲喜劇が、淡々とした灰色の筆致とどんよりした世界観の中で繰り広げられる。モラヴィア特有の憂鬱なトーンが全篇を支配しているが、こうした憂鬱なやるせなさが甘美な文学性に昇華されてしまうのがモラヴィア・マジックである。肝心なのは、モラヴィアは退廃や無関心という病を解剖メスのような鋭さで描き出したということであり、退廃や憂鬱をただムード的に表現したわけではない。そういうセンチメンタリズムとはもっとも遠いところにモラヴィアはいる。『無関心な人びと』の中には、甘いロマンティシズムなどかけらもない。ひたすら醒めた、灰色の意識があるばかりである。10代でこれを書いたというのは、やはり驚異的という他はない。



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