アブソリュート・エゴ・レビュー

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日本文学100年の名作第5巻1954-1963 百万円煎餅

2018-09-22 10:39:00 | 
『日本文学100年の名作第5巻1954-1963 百万円煎餅』 池内紀/松田哲夫/川本三郎・編集   ☆☆☆☆★

 「日本文学100年の名作」シリーズ、今回5冊目に手に取ったのは50年代から60年代にかけての名作集である。かなり古くなってきた。時代的には「戦後」というキーワードがぴったりくる時代だ。混沌としていたであろう終戦直後より、むしろ戦後というものが生々しく立ち上がってきた時代なのかも知れない。収録作は梅崎春生「突堤にて」、芝木好子「洲崎パラダイス」、邱永漢「毛澤西」、吉田健一「マクナマス氏行状記」、吉行淳之介「寝台の舟」、星新一「おーい でてこーい」、有吉佐和子「江口の里」、山本周五郎「その木戸を通って」、三島由紀夫「百万円煎餅」、森茉莉「贅沢貧乏」、井上靖「補陀落渡海」、河野多惠子「幼児狩り」、佐多稲子「水」、山川方夫「待っている女」、長谷川伸「山本孫三郎」、瀬戸内寂聴「霊柩車」の16篇。

 「突堤にて」は、要するに突堤に集まっている釣り人たちの話。解説によればこの釣り人たちは戦後日本人の暗喩だそうだが、そんな教科書的な見方はつまらない。この短篇はまさに具体的なディテールにマジックがあるのであって、へたに解釈しない方がいいと思う。飄々としたユーモアで、奇妙なグループの空気感と些細で断片的なエピソードをつないでいく。最後に官憲に連れていかれる男も何だったのかわからない。これでよく短編小説が成立するなあと感心する。「洲崎パラダイス」は底辺の男女のどんづまりの生活と鬱屈が描かれるが、破綻寸前だったふたりの修復というもっとも肝心な場面がばっさり省略されているのがポイント。これで傑作になった。主役である男女と、店の女将、男の客などの視点の切り替えによる距離感のコントロールが見事だ。

 邱永漢は、香港の新聞売り青年の自由人ぶりを悠然たる筆致で描く。文章はうまいんだけど、話そのものは大したことない。吉田健一はこれまたおとなの余裕たっぷりの筆で、愛すべき不良外人の肖像を描く。これも戦後日本人の姿がどうなんてさかしげな解釈はつまらなさ過ぎる。とっても面白い小説、それだけで十分だ。吉行淳之介の自伝的短篇は、虚しさを抱えた教師と女になりたい男娼との接点を核に、焦燥感、停滞感をあぶりだす。やりきれない短篇。星新一の「おーい でてこーい」は子供の頃読んだことあるショートショートだが、単純素朴の極致ともいえる掌編の中に凄まじい切れ味がひらめく。久々に読んだが、ラストの空恐ろしさ、残酷さ、突き抜けるが如き明快さにめまいを誘われる。どんな子供でも理解できる名作だ。

 「江口の里」は、日本人の信者を相手にする外国人神父の奮闘をユーモラスな筆致で描く。かなりイイが、後半芸者にウェイトがかかり過ぎてポイントがぼけてしまった印象。「その木戸を通って」は既読だったが、再読してもぐうの音も出ない名品。神隠しが題材だが、行方不明になって戻る話ではなく、一人の女が神隠しにあっているその期間の物語であることがミソ。人を愛することの美しさ、暖かさ、そして悲しさを描き出して完璧だ。「百万円煎餅」は若い夫婦のほほえましい一日を描いて、最後にちょっとしたどんでん返しで締める。森茉莉は、部屋の内装から服装まで独島の美学炸裂のエッセー小説。これ、自分のことを書いたのかなあ。

 「補陀落渡海」は61歳になったら渡海する、つまり海へ出て死ぬという伝統がある寺の話。こわくて残酷な話だが、微妙な滑稽さがミソ。アイデアは初期の筒井康隆みたいだが、淡々とした語りが凄みを帯びる。「幼児狩り」はマゾな女が少年が虐待されているところを夢想したりするという、結構微妙な倒錯小説。別にSM小説じゃないけれども。「水」は過酷な労働環境にいる少女の悲劇を描く小品。水とは彼女の涙のことである。「待っている女」は、夫婦喧嘩をした夫が道端で何時間も人を待っている美少女を見て苛立つという話。ちょっと不思議な寓話風。「山本孫三郎」は仇討ちの経緯をジャーナリスティックに描く時代劇。チャンバラも出てくるがチャンバラっぽくない。仇討ち文化の一事例の紹介、という印象である。「霊柩車」は、結婚から逃げ出した不肖の娘と父親の確執の顛末を描く。

 「戦後」ということで悲壮感溢れる話ばかりになってないか心配だったが、悲壮感や感傷よりもむしろユーモラスで余裕を感じさせる短篇が目立ったのはうれしい誤算だった。それから解説を読むと、収録作品の題材を「戦後日本」や「日本人」の暗喩と取るような解釈が多いけれども、前述した通り私には賛成できない。そういう教科書的でありきたりな解釈が、どれほど小説をつまらなくすることか。あまりに図式的な「説明」によって芸術が持つ多義性が損なわれ、ミステリーが理に落ち、ディテールが持つマジックが消えてしまう。冒頭の「突堤にて」がその好例である。ただ虚心にテキストを読めば具体性たっぷりのディテールがいちいち面白いのに、戦後日本人のメタファーなんて言い出した途端に色あせてしまう。大体、この作品中どこにもそんなことを示唆する文章はないのである。

 さて、今回私のフェイバリットは「突堤にて」「洲崎パラダイス」「マクナマス氏行状記」「おーい でてこーい」「その木戸を通って」と前半に集中している。次点は「江口の里」「補陀落渡海」である。



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