アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

インド夜想曲(その1)

2015-05-14 23:40:25 | 
『インド夜想曲』 アントニオ・タブッキ   ☆☆☆☆☆

 通読という意味では、おそらく四、五度目の再読。ただし拾い読みは数限りなくしていて、もはや内容は私の脳に染みこんでしまっている、そんな本である。私が最初に読んだタブッキの小説であり、この作家の奥深い魅力にとりつかれていくきっかけとなった作品だ。だから本書に対する私の思い入れは格別で、アントニオ・タブッキという作家が私の中で別格的存在であることを考えると、そのタブッキが書いた中でも格別なこの本は、私にとってあらゆる小説の中の別格作品ということになるのかも知れない。それほど特別な小説である。言うまでもなく、須賀敦子さんの訳業も素晴らしい。

 では、この薄っぺらい書物のどこがそんなに特別なのか。まずそれについて語らせてもらうと、須賀敦子さんがあとがきにちょっと書いているように「このように小説を書くこともできるのか」という驚き、結局はこれに集約される気がする。ガルシア=マルケスはカフカの『変身』の出だしの一行を読んで椅子から転げ落ちるほどの衝撃を受け、こんな風に小説を書くことができるのかと驚愕したというが、この『インド夜想曲』も、少なくとも私にとっては、結果的にそれに似た驚きをもたらす作品となった。ただし、それはもちろん『変身』ほどの即効性のセンセーションをもってではなかった。何度も読み返すうちに、徐々に、ひそやかに、染み入るようなさりげなさをもって、である。

 この本のどこがそんなに画期的なのか、と首をかしげる方もいらっしゃるだろう。書き方も文体も、別に普通である。奇をてらした現代文学が多い中、むしろ飾り気がなくシンプルだ。しかしタブッキの魔法に絡めとられた経験がある読者なら、彼の書く小説は他の小説とどこか根本的に違っている、という感じを持たれたことがあるのではないだろうか。私はこれをとりあえず、暗示性と呼んでおきたい。タブッキの愛読者になって最初に気がつくのは、彼の小説にはいつも肝心な部分が書かれていないということだ。それはプロット上の肝心な場面のこともあれば、肝心なアイデア、観念であることもある。タブッキは書かないことで物語る小説家なのである。この奇妙な方法論は、必然的に彼の小説における断片性、未完性の重要さへと繋がっていく。通常は欠陥ないし短所と見なされる断片的であること、未完であることが、タブッキにおいては積極的に小説を強化する手法として活用されているのだ。つまり、彼においては、断片性、未完性によって最終的に小説が完成するという逆説が成立している。

 そしてもう一つ、ただ暗示する、省略するという、いわば小説の「書き方」に留まらず、タブッキの作品はそのよって立つ根本のアイデアそのものが、小説外世界との呼応によって成り立つものが多い。例を上げると、ペソアを題材にした『フェルナンド・ペソア最後の三日間』『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』である。これらはフェルナンド・ペソアという実在の詩人や、フラ・アンジェリコ作の『受胎告知』という実在の絵画作品がなければ成立しない。これは、たとえば歴史小説家が史実に題材を求めるのともちょっと違う。タブッキは歴史的事実をネタにして小説を書いたのではなく、歴史的事実がその作品と共鳴し、その共鳴音が結果的に「作品」となるような、いわば触媒的な小説を創り出したのである。

 このように虚構と現実がさざめきあうような、あるいは虚構が現実の中に滲みだして境界をぼやけさせてしまうような、独特のメタフィクショナルな手法こそまさにタブッキの独壇場で、それは小説外の人物や文学作品や絵画に言及するだけでなく、たとえば前書きで純然たる虚構作品を「人から聞いた話」として紹介したり、ある小説の登場人物を他の作品の中で「実在の人物」として後日談を書き足したり、あるいは「実話」としていた作品を別の場所で「実は創作」と書いて読者を混乱させたり、といったことも含めて、実に多彩である。多彩なだけでなく、タブッキの小説がほとんど常にこのようなメタフィクショナルな仕掛けに満ちていることを考えると、彼の創作においてこのようなアプローチはのっぴきならない必然性を持つ、不可欠な要素であるとすら思える。彼の小説は作品内に閉じるのではなく、常に小説外世界と相互に干渉し合っているのである。

 先に書いた暗示性、断片性、未完性に、このようなメタフィクショナルなアプローチを含めて、タブッキは非常に「文学的詐術」に長けた作家だと感じる。「文学的詐術」とは筒井康隆が『文藝時評』の中で使っていた言葉で、つまり文章を書く以外の方法で作品を膨らませる、またはより効果的にするトリックのことだと思ってもらえばいい。

 筒井康隆はある時、伊達一行『妖言集』中の一篇だけを雑誌で読み、それが優れてメタフィクショナルな幻想譚であり、独特の言葉つまり「妖言」で書かれた一篇だったため、末尾の「妖言集第三話」という但し書きを読んで、それぞれが異なる「妖言」で書かれた幻想譚が数多く収録された書物を想像し、それによって異様な戦慄と感動を覚えた。ところが実はこれは誤解で、『妖言集』はそんな書物ではなかった。

 しかし「妖言集第三話」の但し書きによって生じた「誤解」がそれほどの感動をもたらすならば、それは実際にそのような書物を書くことに等しいのではないか。実際には書いていないのだからそれは「詐術」ということになるが、文学においては、読者に同等の感動を与えさえすればそれで良く、むしろ、たった一行の但し書きだけで数篇の優れた短篇を書いたのと同じ効果が得られるとすれば、それは優れた文学的手法と言えるのではないか。

 要するに筒井康隆は、実際の『妖言集』全篇を読んで得られた感動よりも、「妖言集第三話」と但し書きが付いた一篇を読んだ感動の方が大きかったと書いているのだ。彼はそのことから更に「文学的詐術」の意義について思索するのだが、このような「文学的詐術」の魔術性こそ、私がアントニオ・タブッキの特殊性と考えるものだ。タブッキがこのような手法をどこで身につけたのかは分からないが、彼が師事するポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアが、いくつもの異名のもとで架空の人生を生きた不思議な詩人であったことと何らかの関係があるだろうことは、容易に想像できる。

 私は先に書いた通り、こうした「文学的詐術」への志向は単に小説テクニックの一つに留まらず、タブッキの創作姿勢の根本部分に係わるものという印象を持っている。タブッキにとって、それは従来の小説の書き方を置き換えるものではないかとすら思える。彼の小説があまりプロットに依存しないことや、物語を展開させるよりむしろ一種の「場」を提供しているだけと感じさせることがその理由だ。そこで何が起きるかよりも、設定を含めた「場」の磁力の方が重要なのである。「場」の磁力とはつまり、読者の想像力を掻き立てる力である。それがあるからこそ、タブッキはもっとも肝心な場面を小説から省いてしまう、というような真似が出来る。「場」の力さえ充填しておけば、あとは読者の想像力がどこまでも膨らんでいくのである。

 前置きが長くなってしまったが、これまで書いてきたことを踏まえ、いわばそれらの一つの実例として、『インド夜想曲』を見ていきたいと思う。本書もタブッキ独特の小説作法によって成立している、なんとも不可思議な小説である。よくよく読み込むと不可思議な小説なのに、表面的にはさらっと読めてしまうのもタブッキの凄さだ。方法論や手法へのこだわりを言っていかにも読みにくい頭でっかちな小説を書く作家など、足元にも及ばない。

(次回へ続く)



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